滅びの子の出現 2023年9月03日(日曜 朝の礼拝)
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滅びの子の出現
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- 村田寿和 牧師
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テサロニケの信徒への手紙二 2章1節~4節
聖書の言葉
2:1 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。
2:2 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。
2:3 だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。
2:4 この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。テサロニケの信徒への手紙二 2章1節~4節
メッセージ
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イエス・キリストの使徒パウロは、紀元50年頃、コリントに滞在している時に、『テサロニケの信徒への手紙一』を記しました。そして、その数ヶ月後に、二通目の手紙、『テサロニケの信徒への手紙二』を記しました。なぜ、パウロは、わずか数ヶ月後に、二通目の手紙を記したのでしょうか。それは、テサロニケの信徒たちが、主の日について混乱していたからです。今朝の御言葉には、そのことが記されています。
第2章1節をお読みします。
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。
ここでパウロは、これから記すことの主題を提示しています。「わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められること」については、一通目の手紙、『テサロニケの信徒への手紙一』の第4章に記されています。新約の377ページです。第4章13節から18節までをお読みします。
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それからわたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
15節の後半に、「主が来られる日まで生き残るわたしたちが」とあるように、パウロは自分が生きている間に、イエス・キリストが天から再び来てくださると信じていました。また、そのように、テサロニケの信徒たちに教えていました。テサロニケの信徒たちは、主イエス・キリストが天から再び来られる日を待ち望んでいたのです(一テサロニケ1:10参照)。しかし、主イエス・キリストが天から来られる前に、死んでしまった者がいたのです。パウロは、そのような者を「眠りについた人たち」と呼んで、イエス・キリストを信じる者には、復活の希望が与えられていると記します(14節)。さらには、眠りについた人たちも、生き残る自分たちと一緒になって、主イエス・キリストをお迎えする喜びにあずかることができると記すのです。同じことが、私たちにおいても言えます。私たちが生きている間に、主イエス・キリストが来られなくても、私たちは復活して、その時生きているキリスト者たちと一緒に、主イエス・キリストをお迎えする喜びにあずかることができるのです。主イエス・キリストが来られるとき、主イエス・キリストに属する者たちは集められ、雲に包まれて引き上げられます。そのようにして私たちは、いつまでも主イエス・キリストと共にいることになるのです。
このような、一通目の手紙の教えを踏まえて、パウロは、今朝の御言葉で、「わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい」と記すのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の381ページです。
2節をお読みします。
霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。
テサロニケの信徒たちの中には、「主の日は既に来てしまった」という者たちがいたようです。先程、確認したように、パウロは、「自分たちが生きている間に、主イエス・キリストは来られる」と信じていました。パウロは、「自分たちが生きている間に、主の日は来る」とテサロニケの信徒たちに教えていたのです。しかし、テサロニケの信徒たちの中には、「主の日は既に来てしまった」と言う者がいたのです。これはどういう意味でしょうか。「自分たちが知らない間に、主イエス・キリストが天から再び来られて、この地上のどこかにおられる」ということでしょうか。それとも、主イエス・キリストの再臨を、まったく霊的に捉えて、「主の日は既に来てしまった」と言っていたのでしょうか。「聖霊において、主イエス・キリストは来られた」という意味で、「主の日は既に来てしまった」と言っていたのでしょうか(ヨハネ14:16「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」参照)。よく分かりませんが、「主の日は既に来てしまった」という主張は、テサロニケの教会に大きな混乱をもたらしていたのです。しかも、ある人たちは、霊や言葉によって、あるいは、パウロたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言っていたのです。「霊や言葉」とは、聖霊による預言のことです。パウロは、一通目の手紙、『テサロニケの信徒への手紙一』の第5章19節と20節で、こう記していました。「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません」。テサロニケの信徒たちの中には、聖霊によって預言する者がいたのです。また、パウロは続く21節でこう記します。「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」。ここでパウロは、聖霊によって語られたとする預言を吟味するように求めています。では、聖霊によって語られたとする預言を吟味する基準は何でしょうか。それは、イエス・キリストの使徒パウロが記した手紙であります。ですから、パウロは27節で、「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます」と記すのです。しかし、今朝の御言葉を読みますと、聖霊によって語られたとする預言を吟味する基準であるパウロの手紙が捏造されていたようです。第二の手紙の第2章2節の中程に、「わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても」とあるように、パウロの名前を用いた偽りの手紙を根拠にして、ある人たちは、主の日は既に来てしまったかのように言っていたのです。それで、テサロニケの信徒たちは、動揺して分別をなくしたり、慌てふためいたりしていたのです。そのようなテサロニケの信徒たちに、パウロは、「すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」と言うのです。
3節をお読みします。
だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。
「主の日は既に来てしまった」。そのようなことは嘘である。主の日は既に来てしまったと言う人がいても、だまされてはいけないとパウロは言います。なぜ、パウロは、「主の日はまだ来ていない」と断言できるのでしょうか。それは、終わりの時のしるしである神に対する反逆が起こっておらず、不法の者、つまり、滅びの子が出現していないからです。このことは、主イエス・キリストが弟子たちに教えられたことでもあります。『マタイによる福音書』の第24章で、イエス様は世の終わりの時(日々)のしるしに
ついて教えておられます。新約の47ページです。第24章1節から31節までをお読みします。
イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。
預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。
その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
神殿の崩壊の予告に続いて、終わりの時(日々)のしるし、さらには終わりの日のしるしが教えられます。29節から31節には、イエス・キリストの再臨と神の民の招集が語られていますが、これこそ、世の終わりの日に起こることであるのです。この世界と歴史は、栄光の主イエス・キリストが天から来られることによって、さらには、主イエス・キリストの民が御前に集められることによって終わりを迎えるのです。しかし、その終わりの日までには、終わりの日々があります。イエス様は終わりの日々のしるしとして、戦争や地震や飢饉が起こること。弟子たちがイエス・キリストの名のゆえに迫害されること。福音があらゆる民に宣べ伝えられること。憎むべき破壊者が聖なる場所に立ち、大きな苦難の時が訪れること。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、選ばれた人たちを惑わそうとすることを前もって教えられました。このイエス様の教えを背景にして、パウロは、今朝の御言葉で、「主の日はまだ来ていない。なぜなら、終わりの日々の徴である、神に対する反逆が起こっていないし、不法の者、つまり滅びの子が出現していないからだ」と言うのです。
今朝の御言葉に戻りましょう。新約の381ページです。
終わりの日々のしるしとして現れる不法の者、滅びの子とは、どのような人物なのか。そのことが、4節に記されています。
この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。
パウロが、この手紙を記した時代(紀元50年頃)には、このような不法な者、滅びの子は現れていなかったようです。しかし、それからおよそ2000年経っている私たちが、世界の歴史を振り返るときに、傲慢にふるまい、自分こそ神であると宣言する不法の者、滅びの子が何人も現れたのではないかと思います。それが誰であるとまでは言いませんが、私たちは不法の者、滅びの子を何人も思い浮かべることができると思います。そうであれば、現代の私たちは、いつ終わりの日を迎えてもおかしくない状況に生きているのです。もちろん、主の日はまだ来ていません。主イエス・キリストが、密かに来られていることなど考えられないことです。先程お読みした『マタイによる福音書』の第24章27節で、イエス様はこう言われています。「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである」。稲妻が東から西へひらめき渡るように、誰の目にも明かな仕方で、栄光の主イエス・キリストは来られるのです。主の日はまだ来ていません。しかし、主の日はいつ来てもおかしくないのです。終わりの日々のしるしは、もうすべて起こったと言えるからです。それゆえ、私たちは、「主イエスよ、来てください」と祈りつつ、落ち着いた生活を送っていきたいと願います(黙22:20参照)。