神の子としての誉れ 2023年8月27日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:10 かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。
1:11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。
1:12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。テサロニケの信徒への手紙二 1章10節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、『テサロニケの信徒への手紙二』の第1章1節から12節までを読んでいただきました。前回は9節までを学びましたので、今朝は10節から12節までを中心にしてお話しいたします。

 テサロニケの信徒たちは、周りの人々からあらゆる迫害を受け、苦難の中にありました。テサロニケの信徒たちは、イエス・キリストを信じるゆえに、悪口を言われたり、仲間外れにされていたのです。しかし、彼らはあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐し、イエス・キリストを信じ続けました。そのような彼らに対して、パウロは、神の正しい裁きについて語りました。パウロは、神の正しい裁きを語ることによって、苦しみの中にあるテサロニケの信徒たちを慰め、励まし、力づけようとしたのです。神の正しい裁きは、主イエス・キリストが力強い天使たちを率いて天から来られるときに行われます。と言いますのも、神は御子イエス・キリストに、裁きの権能をお授けになったからです。旧約聖書の『ダニエル書』の第7章に、「人の子」のような者が、「日の老いたる者」から、権威、威光、王権を受けたという幻が記されています。イエス様こそ、神から権威、威光、王権を受けた人の子であり、生きている者と死んでいる者とを裁かれる御方であるのです。このことは、イエス様が、『ヨハネによる福音書』の第5章で言われていることです。新約の172ページです。

 第5章22節で、イエス様はこう言われます。

 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。

 飛んで、27節から30節で、イエス様はこう言われます。

 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。

 このように言われたイエス・キリストが、父なる神の正しい裁きを行うために、力ある天使たちを引き連れて、天から来られるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の380ページです。

 主イエス・キリストは燃え盛る火の中を、裁き主として来られます。そのとき、神を認めない者や主イエス・キリストの福音に従わない者に、罰をお与えになります。主イエス・キリストの再臨とそれに伴う裁きは、神を認めない者や主イエス・キリストの福音に従わない者に、永遠の滅びをもたらすことになるのです。しかし、だからと言って、そのことが神の御心なのではありません。『テモテへの手紙一』の第2章4節に記されているように、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」のです。『ペトロの手紙二』の第3章によれば、「主が来るという約束は、いったいどうなったのか。いつまで経っても来ないではないか」と言って嘲る者たちがいました。そのような嘲る者たちを念頭において、ペトロは、こう記しています。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(二ペトロ3:8、9)。それゆえ、神は、世界の至る所に、キリストの教会を立てられ、イエス・キリストの福音を宣べ伝えているのです。その神の御心を知っているからこそ、私たちはすべての人に福音を宣べ伝えているのです。

 今朝の御言葉、10節をお読みします。

 かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。

 世の終わりの日、主イエス・キリストが天から来られるとき、主イエス・キリストは御自分の聖なる者たちの間であがめられます。「御自分の聖なる者たち」とは、イエス・キリストを主と告白している私たちキリスト者のことです。私たちキリスト者は、週の初めの日を主の日と呼んで、主イエス・キリストを礼拝しています。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という主イエス・キリストの約束を信じて、主イエス・キリストが御言葉と聖霊において共にいてくださると信じて、主イエス・キリストをあがめているのです(マタイ18:20)。そうであれば、天から来られた主イエス・キリストを、私たちがあがめることは当然のことであります。パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の第13章12節で、こう記しています。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくても、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。私たちは、今、目に見えない方を見ているようにして、信仰をもって礼拝しています(ヘブライ11:27参照)。しかし、かの日に、私たちは主イエス・キリストと顔と顔とを合わせて礼拝することになるのです(一ヨハネ3:2参照)。

 また、主イエス・キリストは、「すべて信じる者たちの間でほめたたえられ」ます。ここで、「ほめたたえられる」と訳されている言葉(サウマスセーナイ、サウマゾーの不定過去、受動態)は、「驚かれる」「びっくり仰天される」とも訳せます。主イエス・キリストを信じる私たちは、びっくり仰天して、主をほめたたえることになるのです。それは、その光景が、私たちの想像をはるかに超えて、素晴らしいものであるからです。『ウェストミンスター大教理問答』の問90は、「裁きの日に、義人には何がなされますか」と問い、次のように告白しています。「裁きの日に、義人は、雲に包まれてキリストのもとに引き上げられ、キリストの右に置かれ、そこで公に承認され、無罪とされ、神に見放された御使いと人間に対する裁きにキリストと共に加わり、天に受け入れられます。そこで彼らは、あらゆる罪と悲惨から、完全かつ永遠に解放され、想像も及ばないような喜びに満たされ、無数の聖徒と聖なる天使たちの集まりの中で、しかし特に、父なる神とわたしたちの主イエス・キリストと聖霊とを、永遠に、直接見て、喜び楽しむ中で、体と霊魂の両方において、完全に聖くされ、幸いにされます。これこそが、目に見えない教会の会員が、復活と裁きの日に、栄光において享受する、キリストとの完全で十分な交わりです」。このような祝福の中で、私たちは驚いて、主をほめたたえることになるのです。それは、私たちがパウロたちの証しであるイエス・キリストの福音を信じたからであるのです(一テサロニケ2:13参照)。

 11節をお読みします。

 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。

 ここには、パウロの執り成しの祈りが記されています。「このこと」とは、「パウロたちの証しを受け入れたテサロニケの信徒たちが、主が来られる日に、主をあがめ、驚きつつほめたたえること」を指しています。そのために、パウロは、私たちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを実現してくださるようにと祈るのです。このパウロの祈りから教えられることは、私たちの信仰生活全体が神の御業であるということです。神が私たちを召し出してくださり、その召しにふさわしい者としてくださり、私たちの願いと信仰の働きを実現してくださるのです。ですから、私たちはいつも神に祈りつつ歩む必要があるのです。

 12節をお読みします。

 それは、わたしたちの神と主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。

 ここには、パウロが執り成しの祈りをささげる目的が記されています。パウロは、「どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように」と祈りました。それは、「わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ」るためであるのです。これは、主イエス・キリストが天から再び来られる前の地上でのことです。「あがめる」ことを別の言葉で言い換えると「ほめたたえる」となります。私たちは、理由なしに、主イエスをほめたたえているのではありません。主イエスが私たちを招きに相応しい聖なる者としてくださり、御心に適う願いと信仰の働きを実現してくださるゆえに、主イエスをほめたたえているのです。私たちは、主イエスとの交わりの中でいただいている数々の恵みに感謝して、主イエスの御名をほめたたえているのです。

 パウロは続けて、こう言います。「あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです」。主イエスを私たちがほめたたえるとき、実は、私たちも主イエスによって誉れを受けています。それは、私たちが主イエス・キリストに属する者であるからです。私たちは、主イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主としてほめたたえています。そのとき、私たちは主イエス・キリストによって罪から救われた、神の子としての誉れを受けているのです。「主から受ける誉れ」とは、何よりも「神の子としての誉れ」であるのです(神の子とされることは最高の誉れ!)。私たちが主から誉れを受ける時と場所、それは主の日に、キリストの教会としささげている礼拝であるのです。礼拝において、私たちは主イエス・キリストをほめたたえることによって、主イエス・キリストに属する者として、神から誉れを受けているのです。私たちの「天の父なる神よ」という祈りの前提には、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神からの宣言があるのです(マルコ1:11参照)。私たちは父なる神の御名をほめたたえている前提には、父なる神が私たちに神の子としての誉れを与えてくださった恵みがあるのです。その私たちに与えられている神の子としての誉れが完全となるのが、主イエス・キリストが天から再び来られるときであるのです。主イエス・キリストが天から再び来られるとき、私たちは罪から完全に解放された栄光の体に変えられます(一コリント15:51参照)。あるいは、眠りについていれば、罪から完全に解放された栄光の体で復活させられます(一テサロニケ4:16参照)。そのとき、私たちは父なる神の御心に完全に従う神の子とされるのです(神の子とは父なる神の御心に従う者を言う)。そのようにして、私たちは神の子としての永遠の誉れをいただくことになるのです。

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