滅びをもたらす善とは何か 2023年9月10日(日曜 夕方の礼拝)

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滅びをもたらす善とは何か

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コヘレトの言葉 7章15節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:15 この空しい人生の日々に/わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり/悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
7:16 善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう。
7:17 悪事をすごすな、愚かすぎるな/どうして時も来ないのに死んでよかろう。
7:18 一つのことをつかむのはよいが/ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば/どちらをも成し遂げることができる。
7:19 知恵は賢者を力づけて/町にいる十人の権力者よりも強くする。
7:20 善のみ行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない。
7:21 人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても/聞き流していられる。
7:22 あなた自身も何度となく他人を呪ったことを/あなたの心はよく知っているはずだ。コヘレトの言葉 7章15節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第7章15節から22節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 15節をお読みします。

 この空しい人生の日々に/わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり/悪人がその悪のゆえに長らえることもある。

 コヘレトは、空しい人生の日々に、すべてを見た者として、「善人がその善のゆえに滅びることもあり/悪人がその悪のゆえに長らえることもある」と言います。ここで「善人」と訳されている言葉(ツァディーク)は「正しい人」と訳せます。また、「善」と訳されている言葉(ツェデク)は「義」と訳せます。聖書協会共同訳では、15節を次のように翻訳しています。「空である日々に私はすべてを見た。義のゆえに滅びる正しい者がおり/悪のゆえに生き長らえる悪しき者がいる」。イスラエルの伝統的な知恵は、「正しい者は生き長らえる。悪を行う者は滅びに至る」と教えています。しかし、コヘレトが見たところでは、「正しい人がその義のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある」と言うのです。ここで、「その善(義)のゆえに」とか、「その悪のゆえに」と言われていることに注意したいと思います。「その善(義)にもかかわらず」とか、「その悪にもかかわらず」と言われているならよく分かります。しかし、コヘレトは、「正しい人がその善(義)のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある」と言うのです。滅びをもたらす善(義)とは何か。長生きをもたらす悪とは何か。そのような問いが心に浮かびます。そのような問いを抱きつつ、16節と17節をお読みします。

 善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな/どうして時も来ないのに死んでよかろう。

 この16節と17節は、15節を受けて記されています。「善人がその善のゆえに滅びることもある」。だから、「善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう」と言うのです。聖書協会共同訳によれば、「あなたは義に過ぎてはならない。賢くありすぎてはならない。どうして滅びてよかろう」とコヘレトは言うのです。やはり、ここでも「滅びをもたらす善(義)とは何か」を考えざるを得ません。そのことを理解する手掛かりが20節にあるようです。「善のみ行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない」。ちなみに、元の言葉には、「正しい人」という言葉が記されています。ですから、聖書協会共同訳は、20節を次のように訳しています。「地上には、罪を犯さずに善のみを行う正しき者はいない」。これは神を畏れ敬う人が知っている真理です。しかし、神を畏れ敬わない者は、自分は正しい人間であると自惚れて、その正しさのゆえに、滅びることがあるのです。ですから、「正し過ぎるな、賢すぎるな」とは、「『この地上には、罪を犯さずに善のみ行う正しい人はいない』という真理を弁えずに、自分の義を追い求めるな。正しい者でないのに、正しい者であるかのように高慢になるな」ということであるのです。「イエス様の時代のファリサイ派の人々のような独善に陥るな」ということです。では、この地上には、罪を犯さずに善のみ行う正しい人がいないなら、私たちは、善を行うことなく、罪を犯してもよいのでしょうか。そうではありません。コヘレトは17節でこう記します。「悪事をすごすな、愚かすぎるな/どうして滅びてよかろう」。聖書協会共同訳では、こう訳しています。「あなたは悪に過ぎてはならない。愚かであってはならない。あなたの時ではないのに、どうして死んでよかろう」。誰もが罪を犯してしまうからという理由で、悪を行い、愚かであるならば、早すぎる死を招くことになるとコヘレトは言うのです。

 では、私たちはどうすればよいのでしょうか。コヘレトは、18節でこう言います。

 一つのことをつかむのはよいが/ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば/どちらをも成し遂げることができる。

 ここでの「一つのこと」、「ほかのこと」、「どちらをも」とは何のことを指しているのでしょうか。文脈から考えると、「一つのこと」とは「自分の義を追い求めて、正しい者であるかのように高慢になること」を指しています。また、「ほかのこと」とは、「誰もが罪を犯してしまうことを理由にして、積極的に悪を行うこと」を指しています。「どちらをも」とは、その両方を指しています。神を畏れ敬う人は、そのどちらをも避けることができるのです。新共同訳は「とちらをも成し遂げることができる」と翻訳していますが、聖書協会共同訳は、「神を畏れる者はいずれをも避ける」と翻訳しています。「神を畏れる者はいずれをも避ける」とあるように、神を畏れる者は、自分の正しさを誇って高慢なることも、捨て鉢になって悪を行うことも避けるのです。それは、20節にあるように、「善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない」ことを知っているからです(イエス・キリストを除いて)。聖書協会共同訳によれば、「地上には罪を犯さずに善のみを行う正しき者はいない」ことを知っているからです。そして、これこそ、神が御自分を畏れ敬う者に与えてくださる神の知恵であるのです。

19節は、神の知恵をほめたたえる言葉です。「知恵は賢者を力づけて/町にいる十人の権力者よりも強くする」。私たちを強くするのは、自分の知恵でも、この世の知恵でもありません。神の知恵が私たちを強くするのです。

21節と22節をお読みします。

 人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても/聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことを/あなたの心はよく知っているはずだ。

 「この地上には、罪を犯さずに善のみを行う正しき者はいない」という神の知恵は、私たちを「人の言うことをいちいち気にする」ことから守ってくれます。なぜなら、善のみ行う正しい人はいないからです。また、僕から悪口を言われても、聞き流していられます。なぜなら、自分も何度となく他人の悪口を言ったことを知っているからです。ここでコヘレトは、自分のことを悪く言う僕を寛大に扱うように勧めています。主イエス・キリストは、『マタイによる福音書』の第7章3節から5節でこう言われました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。もし、僕が自分に悪口を言っているのを聞き流すことができず、厳しく咎めるとすれば、それは、自分の目にある丸太に気づかずに、他人の目にあるおが屑を取ろうとするようなことであるのです。なぜなら、自分の心は何度となく他人を悪く言ったことを知っているからです。「この地上には、罪を犯さずに善のみを行う正しき者はいない」という神の知恵は、私たちを、他人に対する憐れみのない裁きから守ってくれるのです。

 「この地上には、罪を犯さずに善のみを行う正しき者はいない」。このコヘレトの言葉は、私たちに、イエス・キリストの使徒パウロの言葉を思い起こさせます。パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第3章で、「正しい者はいない。一人もいない」と記しました。そして、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義が示された」と言うのです(ローマ3:21、22参照)。「この地上には、罪を犯さずに善のみを行う正しき者はいない」という神の知恵は、「すべての人は、イエス・キリストを信じることによって正しい者とされる」という福音へと私たちを導くのです。そのとき、私たちは、自分の正しさではなくて、イエス・キリストの正しさを誇りとすることができるようになるのです。そのとき、私たちは罪を犯しながらも、イエス・キリストにあって罪の赦しにあずかることができるようになるのです。主イエス・キリストによって、一万タラントンの借金を帳消しにしてもらった僕として、自分に百デナリオンの借金をしている僕を憐れんで、赦すことができるようにされるのです(マタイ18章21~35参照)。主イエス・キリストを信じる私たちは、他人から言われる悪口を聞き流すだけではなく、悪口に対して良い言葉を語ることができるようにされるのです(ローマ12:14「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」、一ペトロ3:9「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」参照)。  

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