キリストの再臨と裁き 2023年8月20日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:4 それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。
1:5 これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。
1:6 神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、
1:7 また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。
1:8 主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。
1:9 彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。テサロニケの信徒への手紙二 1章4節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 先週から『テサロニケの信徒への手紙二』を学び始めました。テサロニケは、ローマ帝国のマケドニア州の首都であり、交通の要所でありました。パウロは、第二回宣教旅行において、シルワノとテモテと共に、テサロニケを訪れ、福音を宣べ伝えました。そのことが『使徒言行録』の第17章に記されています。今朝は最初に、そのところをお読みします。新約の247ページです。

 パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。

 イエス・キリストの福音に従わなかったユダヤ人たちが、パウロたちを妬んで、ならず者を抱き込んで暴動を起こし、ヤソンの家を襲いました。このヤソンの家に、パウロとシラスは滞在していたようです。ユダヤ人たちは、パウロとシラスを捕らえようとしました。しかし、彼らはパウロとシラスを見つけることができなかったので、ヤソンと数人の兄弟たちを町の当局者たちのところへ引き立てて、こう訴えます。「彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています」。このように、ユダヤ人たちは、テサロニケの信徒たちを、ローマ皇帝に背く者、社会の秩序を脅かす者として訴えるのです。ヤソンやほかの者たちは、保証金を支払って解放されました。しかし、その後も、テサロニケの信徒たちは、イエス・キリストの福音に従わない同胞の民から苦しめられていたようです。『テサロニケの信徒への手紙一』の第2章14節で、パウロはこう記しています。新約の375ページです。

 兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。

 このように、テサロニケの信徒たちは、イエス・キリストを信じていない同胞の民から苦しめられていたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の380ページです。

 4節と5節をお読みします。

 それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。

 パウロは、紀元50年頃、コリントで、『テサロニケの信徒への手紙一』を書き記しました。そして、それから数ヶ月後に、『テサロニケの信徒への手紙二』を書き記したのです。テサロニケの信徒たちは、今もなお、あらゆる迫害と苦難の中にありました。しかし、彼らは忍耐と信仰によって、イエス・キリストの恵みにとどまり続けたのです。『マルコによる福音書』の第4章で、イエス様は「種を蒔く人のたとえ」をお語りになりました。その譬え話の中で、イエス様は、「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、しばらく続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」人たちについて語っておられます。しかし、テサロニケの信徒たちは、そのような者ではありませんでした。彼らは御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、豊かな実を結ぶ者たちであったのです。それゆえ、パウロは、「テサロニケの信徒たちのことを、神の諸教会の間で誇りに思っています」と言うのです。パウロの福音宣教によって、マケドニア州(フィリピとベレア)とアカイア州(コリント)に神の教会が建てられました。その神の諸教会の間で、パウロは、迫害の中で忍耐と信仰を示しているテサロニケの教会を誇りに思っていたのです。テサロニケの信徒たちが、苦難の中で忍耐し、信仰にとどまっていることは、彼らに福音を宣べ伝えたパウロが使徒であることの拠り所であると言えるのです(一テサロニケ2:19、20参照)。もちろん、パウロは自分の手柄として、テサロニケの教会のことを誇っているのではありません。パウロは、マケドニア州とアカイア州にある諸教会の模範として、テサロニケの信徒たちのことを誇っていたのです(一テサロニケ1:7参照)。

 5節に、「これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です」とあります。ここでの「これ」とは、「テサロニケの信徒たちが、あらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していること」を指しています。かつてパウロは、リストラ、イコニオン、アンティオキアの弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言いました(使徒14:22)。また、主イエス・キリストも、次のように言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(ルカ9:23、24)。私たちの主イエス・キリストは十字架の死の苦しみを通して、栄光の御国へと入られました。その主イエス・キリストに従う弟子として、私たちも多くの苦しみを経て、神の国へと入るのです。

 テサロニケの信徒たちは、イエス・キリストに従うゆえに、苦しみを受けていました。ですから、イエス・キリストに従うことを止めれば、苦しみを受けることはなくなるのです。しかし、テサロニケの信徒たちは、苦しみの中で、イエス・キリストに従い続けました。そのことは、何を意味しているのか。パウロは、「これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠である」というのです。「神の判定」とは「神の裁き」のことであり、本来、世の終わりの、最後の審判において明らかになるものです。しかし、パウロは、あなたがたが神の国にふさわしい者であることは、今、分かるというのです。テサロニケの信徒たちが受けている苦しみ、それは主イエス・キリストのための苦しみであり、神の国のための苦しみであるからです。イエス・キリストは、山上の説教の「幸いの教え」の最後で、こう言われました。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタイ5:10〜12参照)。そのような幸いに、パウロだけではなく、テサロニケの信徒たちもあずかっていたのです。

 このような御言葉を読むとき、私たちはどうであろうかと思います。現代の日本に生きる私たちは、『日本国憲法』によって、信教の自由や思想・良心の自由が保障されています。ですから、あからさまに迫害を受けたりすることはないと思います。しかし、今なお、イエス・キリストを信じるゆえに、誤解されたり、悪口を言われたりすることはあると思います。現代の日本で、イエス・キリストの福音を宣べ伝える私たちなりの苦難があると思います。そのような苦難の中で、私たちも忍耐と信仰を示していると言えるのです。そして、そのことは、私たちが神の国にふさわしい者であることの証拠であるのです。

 6節と7節をお読みします。

 神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。

 パウロは、あらゆる迫害の苦難の中で忍耐と信仰を示しているテサロニケの信徒たちに対して、神の正しい裁きが行われることを告げます。神様は、テサロニケの信徒たちを苦しめている者には苦しみをもって報いられます。しかし、苦しみを受けているテサロニケの信徒たちには、パウロたちと共に休息をもって報いてくださるのです。ここで、「わたしたちと共に」「パウロたちと共に」と言われていることに注意したいと思います。パウロは、神の国のために多くの苦しみを受けてきました。その苦しみの中でパウロの忍耐と信仰を支えてきたのは、主イエス・キリストが天から来られるときに実現する神の正しい裁きであったのです(ローマ12:19参照)。神様は、神の国のために苦しみを受けた御自分の民に、安息をもって報いてくださいます。『ヨハネの黙示録』は、主イエス・キリストの再臨と裁きに続けて、新しい天と新しい地が到来することを教えています。新しい天と新しい地において、神は人と共に住み、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださいます。もはや死も悲しみも嘆きも労苦もない神の安息に、私たちはあずかることになるのです(黙示21:3、4参照)。

 8節と9節をお読みします。

 主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という罰を受けるでしょう。

 主イエス・キリストは、力強い天使たちを率いて天から来られます。主イエス・キリストは天と地の一切の権能を授けられた、栄光の人の子として、生きている者と死んだ者とを裁くために来られるのです(ダニエル7章、マルコ13章参照)。8節に「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます」とありますが、ここでパウロは、旧約聖書の『イザヤ書』の御言葉を背景にしています。『イザヤ書』の第66章15節にこう記されています。「見よ、主は火と共に来られる。主の戦車はつむじ風のように来る。怒りと共に憤りを/叱咤と共に火と炎を送られる。主は必ず火をもって裁きに臨まれ」る。このイザヤの預言の成就として、主イエス・キリストは、燃え盛る火の中を来られるのです。そして、主イエスは、神を認めない者や、私たちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになるのです(エレミヤ10:25参照)。ここで「罰をお与えになる」と言われていることに注意したいと思います。つまり、神を認めないことや、私たちの主イエスの福音に聞き従わないことは神の御前に罪であるということです(ヨハネ16:9「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」参照)。人間社会において信教の自由はあっても、神の御前に信教の自由はないのです。神様によって造られて、生かされている人間にとって、神様を畏れ敬わないこと、神様が遣わされたイエス・キリストに従わないことは、罰を受けるに値する罪であるのです。

 さて、その罰とは、どのような罰でしょうか。「彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう」。この地上において、イエス・キリストに従う人も従わない人も同じように、神の恵みにあずかっています(いわゆる一般恩恵)。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」とイエス様が言われているとおりです(マタイ5:45参照)。しかし、裁きの日には、神を認めない者やイエス・キリストの福音に従わない者は、神様の恵みから完全に閉め出されてしまうのです。イエス様がたとえ話で教えられたように、暗闇で泣きわめいて歯ぎしりするような恐ろしい裁きを受けることになるのです(マタイ25:30参照)。

 ここで、私たちがはっきりと知らねばならないことは、神様はすべての人が御自分を認めて、イエス・キリストの福音に従うことを望んでおられることです。『テモテへの手紙一』の第2章4節にあるように、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」。それゆえ、神様は愛する御子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。神様は、御子イエス・キリストにおいて、御自分の愛をお示しくださり、イエス・キリストを信じる者たちに、永遠の命を与えてくださいます。このイエス・キリストの福音(良き知らせ)を宣べ伝えるために、神様は、今朝も、私たちをキリストの教会として、呼び集めてくださったのです。私たちは、神様の望みを私たちの望みとさせていただき、折が良くても悪くても、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていきたいと願います。

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