命を与える知恵 2023年8月13日(日曜 夕方の礼拝)

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命を与える知恵

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コヘレトの言葉 7章8節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:8 事の終りは始めにまさる。気位が高いよりも気が長いのがよい。
7:9 気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの。
7:10 昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな。それは賢い問いではない。
7:11 知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。
7:12 知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが/知っておくがよい/知恵はその持ち主に命を与える、と。
7:13 神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直しえようか。
7:14 順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ/人が未来について無知であるようにと/神はこの両者を併せ造られた、と。コヘレトの言葉 7章8節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第7章8節から14節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 8節と9節をお読みします。

 事の終わりは始めにまさる。気位が高いよりも気が長いのがよい。気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの。

 コヘレトは、「事の終わりは始めにまさる」と言います。この「まさる」は「より良い」とも訳すことができます。「事の終わりは始めよりも良い」とも訳せるのです。「始めるのは簡単だけれども、続けることは難しい」と言われます。そうであれば、やり遂げることはもっと難しいでしょう。何事もやり遂げるには、忍耐が必要です。「忍耐」とは「気が長い」ことです。それで、コヘレトは、「気位が高いよりも気が長いのがよい」と言います。「気位」とは、「品位を保ち、それを目立たせようとする気持ち」を言います(明鏡国語辞典)。気位が高いとは、「品位を保ち、それを目立たせようとする気持ちが強い」ということでしょう。また、「気が長い」とは「待つことができること」「忍耐力があること」を意味します。気位が高いことは、物事を始めるのに役立ちます。そして、気が長いことは、物事をやり遂げるのに役立ちます。「事の終わりは始めにまさる」ゆえに、「気位が高いよりも気が長いのがよい」のです。「気が長いこと」の反対は、「気が短いこと」です。それで、コヘレトは、「気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの」と戒めます。気が短いと待つことができず、すぐに判断を下して、怒りを燃やしてしまいます。そのような怒りは、愚か者の胸に宿るものであると、コヘレトは言うのです。このことは、主の兄弟ヤコブが戒めていることでもあります。『ヤコブの手紙』の第1章19節と20節に、次のように記されています。「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです」。怒っている人は、神の御心に適うことを行うことができない。だから、怒るのに遅いようにしなさい。気を長く持ちなさいと、ヤコブは言うのです。

 10節をお読みします。

 昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな。それは賢い問いではない。

 なぜ、コヘレトは、「昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな」と戒めるのでしょうか。それは、そのような問いが、今を生きることから、私たちを遠ざけてしまうからです。私たちは過去を生き直すことはできないのであって、今を生きることしかできないのです。それゆえ、コヘレトは、「それは賢い問いではない」と言うのです。この8月で、私が羽生栄光教会に赴任して、20年が経ちました。私が赴任してしばらくして、2005年に、羽生栄光教会は伝道開始25周年を迎えました。その頃は、主の日の礼拝に40名近い人が出席していました。席が足りなくなって、四人がけのベンチを二つ購入したほどです。そのような教会の営みを振り返っても、「昔の方がよかったのはなぜだろうか」と言いたくなります。しかし、それは賢い問いではないのです。では、賢い問いとは、どのような問いなのでしょうか。それは「どうすれば今をよくすることができるか」という問いでしょう。昔と比べる必要はありません。今をよく生きることに私たちの関心を向けて、忍耐強く取り組んでいきたいと思います。

 11節と12節をお読みします。

 知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが/知っておくがよい/知恵はその持ち主に命を与える、と。

 コヘレトは「知恵は遺産に劣らず良いもの」と言います。コヘレトは、「知恵は遺産よりも良い」とは言わずに、「知恵は遺産と同じように良い」と言うのです。知恵も遺産も、先祖から受け継ぐものですが、その両方が、私たちが生きていくために役立つのです。「知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る」とあるように、知恵の保護のもとにある者は財産の保護のもとにあるのと同様であるのです。「お金が頼りになる」。このことは、説明されなくても、私たちが知っていることです。「お金がなければ何もできない」。お店に言っても、お金がなければお弁当を買うこともできません。生きていくためにお金が役立つことは、よく分かります。それと同じように、生きていくためには知恵が役に立つのです。いや、むしろ、知恵こそが、あなたに命を与えるというのです。では、その知恵とは、どのような知恵なのでしょうか。その一端が、13節と14節に記されています。

 神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直しえようか。順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと/神はこの両者を併せ造られた、と。

 「神が曲げたものを、誰が直し得ようか」とは、「神がなされることを、信仰をもって受け入れよ」ということです。人生には順境のときと逆境のときがあります。ちなみに「順境」とは「環境に恵まれ、物事がすべて順調に運んでいく境遇」のことです(明鏡国語辞典)。また、「逆境」とは「苦労の多い、不運な境遇」のことです(明鏡国語辞典)。コヘレトは、「順境には楽しめ、逆境には考えよ」と言います。新改訳2017は、このところを次のように翻訳しています。「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ」。苦労の多い、不運な境遇のときにこそ、私たちはよく考えるのです。逆境の中で、私たちは、自分自身を見つめ直し、人生の意味(生きる目的)を考えるのです。

 私たちの人生には、順境のときもあれば、逆境のときもある。その理由をコヘレトは、「人が未来について無知であることを悟らせるためである」と言います。実際、私たちには明日のことも分からないのです。順境の中にあるとき、私たちはその状態がこれからも続いていくだろうと思います。先程の教会の営みについて言えば、礼拝出席者が40名から50名へと増えていく。そのような順境が続いていくと思います。今は、20名ほどで主の日の礼拝をささげていますが、そのようなことは考えないわけです。しかし、それは、私たち人間の願望に過ぎないのです。今は、逆境の時と言えます。特に、新型コロナウイルス感染症によって、大きな苦難を体験しました。しかし、そのような逆境の中で、私たちはよく考えたのではないかと思います。私たちが日曜日に教会に集い、礼拝をささげる意味をよく考えたと思うのです。教会を教会たらしめるものは何か。礼拝を礼拝たらしめるものは何か。そのことをよく考えたと思います。そして、その逆境を、父なる神の御手から受け取って、今も、父なる神を礼拝しているのです。

 今朝は最後に、『ヤコブの手紙』の第4章13節から17節までをお読みします。新約の425ページです。

 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやことのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。

 ここに、明日のことは分からない私たちが、どのように生きるべきかが記されています。私たちは、「主の御心であれば生き永らえて、神の御心に適う善を行うべきである」のです。イエス様が教えられたように、明日のことを心配するのではなく、今日という日に、神の国と神の義を求めて生きるべきであるのです(マタイ6:33、34「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の労苦は、その日だけで十分である」参照)。それが、私たちに命を与える上からの知恵であるのです(ヤコブ3:17「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」参照)。

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