私たちの誇り 2023年8月06日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。
6:12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。
6:13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。
6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。
6:17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
6:18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。ガラテヤの信徒への手紙 6章11節~18節

原稿のアイコンメッセージ

今年の3月から『ガラテヤの信徒への手紙』を御一緒に読み進めてきました。今朝は、その最後の学びとなります。今朝は、第6章11節から18節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 イエス・キリストの使徒パウロは、ガラテヤ地方の諸教会に宛てて、この手紙を記しました。私は今、「記した」と申しましたが、パウロはこの手紙を、口述筆記で記したようです。パウロが語った言葉を、書記が書き記すという仕方で、この手紙は記されたのです(ローマ16:22参照)。しかし、第6章11節以下は、パウロが自分の手で筆を取って書き記したようです。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」とあるように、パウロは、自分の手で、最後に強調したいことを書き記すのです(一コリント16:21参照)。

 「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」。ここで「無理やり何々させる」と訳されている言葉(アナグカゾー)は、第2章3節で「強制する」と訳されていました。エルサレム会議において、ギリシア人であったテトスは、割礼を受けることを強制されませんでした。しかし、エルサレムから来た偽教師たちは、ガラテヤの信徒たちに割礼を受けることを強制していたのです。パウロは、偽教師たちのことを、「肉において人からよく思われたがっている者たち」と呼んでいます。偽教師たちは、ユダヤ人でイエス・キリストを信じた者たちです。彼らは、生まれて八日目に割礼を受けていました。その肉体に施された割礼が、人から良いものと思われたいと彼らは願っていたのです。偽教師たちは割礼が無意味なものとなることに耐えられないわけです。

 パウロは、偽教師たちがガラテヤの信徒たちに割礼を受けさせようとする理由を、「ただ十字架のために迫害されたくない」ためであると言います。ここでの迫害は、イエス・キリストを信じていないユダヤ人からの迫害です。ユダヤ教において、「ユダヤ人は異邦人のような罪人とは交わりを持たないこと」が原則です。ただし例外として、「異邦人に割礼を宣べ伝える目的であれば、異邦人と交わりを持ってもよい」としていました。しかし、イエス・キリストを信じたユダヤ人たちは、異邦人に割礼を受けさせずに交わりを持っていたわけです。そのようなイエス・キリストを信じたユダヤ人たちを、イエス・キリストを信じていないユダヤ人たちが迫害していたのです(一テサロニケ2:14参照)。そのような状況において、エルサレムから来た偽教師たちは、「イエス・キリストを信じるだけではなくて、割礼を受けて、律法を守らなければ救われない」と教えていたのです。偽教師たちは、イエス・キリストを信じたガラテヤの人たちに、割礼を受けることを強制していたのです。

 割礼を受けることは、律法の軛を負うことであり、律法全体を守る義務を負うことでありました。しかし、パウロは、「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていません」と言います。では、なぜ、偽教師たちは、ガラテヤの信徒たちに割礼を受けさせようとするのでしょうか。それは、「あなたがたの肉について誇りたいため」であるのです。このところを聖書協会共同訳は、「あなたがたの肉を誇りたいからです」と翻訳しています。割礼を受けさせることは、異邦人をユダヤ教に改宗させることであり、イエス・キリストを信じていないユダヤ人から褒められるわけです。「私は何人に割礼を受けさせた」。そのようなことを誇るために、偽教師たちはガラテヤの信徒たちが割礼を受けることを望んでいるとパウロは言うのです。偽教師たちの願いは、ガラテヤの信徒たちの救いにあるのではなく、自分たちの名誉欲を満たすことにあるのです(4:17参照)。

 続けてパウロはこう言います。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。ここでの「誇るもの」は、「頼みとするもの」「拠り所とするもの」を意味します(詩47:9「財宝を頼みとし、富の力を誇る者を」参照)。パウロが誇りについて記すとき、神様の御前に誇りうるものを考えています。偽教師たちは、神様の御前に、「私は何人に割礼を受けさせました」と誇ろうとしていました。しかし、パウロは、神様の御前に誇りうることができるのは、「私たちの主イエス・キリストの十字架だけである」と言うのです。ここでパウロは自分がしたことを誇っていません。パウロが誇っているのは、私たちの主イエス・キリストがしてくださったことです。私たちの主イエス・キリストが、私たちに代わって律法の義を満たしてくださり、律法の呪いの死を死んでくださった。その私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、私たちが神様の御前に誇るべきものは決してあってはならないと言うのです。聖なる神様の裁きの座に立つとき、私たちが拠り所とすることができるのは、私たちの業ではなく、イエス・キリストの業、イエス・キリストの十字架のみであるのです。

 「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」。このことは、パウロだけではなく、イエス・キリストを信じている私たちにも当てはまります。イエス・キリストが私たちの主として、十字架の死を死んでくださいました。そのイエス・キリストと一緒に私たちも十字架にはりつけにされたのです。そのようにして、私たちは世に対して死んだ者となった。この世の価値観を誇りとする者ではなくなったのです。私たちにも、この世の価値観である能力や財産や社会的地位など、様々な誇りがあると思います。そのような誇りは世で生きて行くために、ある程度必要であると思います。しかし、そのような誇りを、神様に対して誇ることはできません。また、教会の交わりにおいて誇ることはできません。私たちが誇りとすることができるのは、私たちの主イエス・キリストの十字架のみであるのです。イエス・キリストは私たち一人一人を愛して、私たち一人一人のために身をささげてくださいました(2:20参照)。そのイエス・キリストの十字架のみを私たちは誇ることができるのです。そのような誇りに私たちが生きるとき、私たちは愛によって互いに仕え合うことができるようになるのです(5:13参照)。

 パウロは、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」と言います。パウロは、第5章6節で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と言いました。そのパウロが、ここでは、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」と言うのです。愛によって働く信仰に生きる私たちは、新しく創造された者であるのです(二コリント5:17参照)。ここでも私たちの業ではなく、神様の業のことが言われています。大切なのは、割礼を受けているかいないかではなく、神様によって新しく創造されることであるのです。パウロが、「新しい創造」について記すとき、『イザヤ書』の第65章の御言葉を背景にしています。聖書を開いて確認したいと思います。旧約の1168ページです。第65章17節から19節までをお読みします。

 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむ者として、創造する。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことはない。

 18節の終わりに、「その民を喜び楽しむ者として、創造する」とあります。この神様の新しい創造の御業が、イエス・キリストを信じる私たちのうえに実現しているのです。また、「新しい天と新しい地」、「新しいエルサレム」が、イエス・キリストが再び天から来られる日に到来することになるのです。『ヨハネの黙示録』の第21章と第22章は、そのことを私たちに教えてくれているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の351ページです。

 続けてパウロはこう言います。「このような原理に従って生きている人のうえに、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように」。ここでの「原理」と訳されている言葉(カノーン)は「基準」とも訳せます(聖書協会共同訳、新改訳2017)。このような原理、基準とは、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることである」という原理、基準のことです。偽教師たちは、割礼を受ける者こそ、アブラハムの子孫であり、神のイスラエルであると教えていました。しかし、パウロは、割礼の有無は問題でなく、新しく創造された者、私たちの主イエス・キリストの十字架のみを誇りとする者が、神のイスラエルであると言うのです。そのような神のイスラエルの上に、パウロは、神の平和と憐れみを祈り求めるのです。ここで注意したいことは、パウロが偽教師たちと偽教師に惑わされて割礼を受けようとする人たちを神のイスラエルとは認めていないということです。パウロは、割礼の有無は問題ではなく、新しく造られた者、私たちの主イエス・キリストの十字架のみを誇りとする者たちを神のイスラエルと呼び、神の平和と憐れみを祈り求めるのです。

 パウロは、17節でこう言います。「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」。このパウロの言葉はよそよそしい印象を受けます。しかし、ここには、ガラテヤの信徒たちが、この手紙に記されていることを受け入れて、福音の真理に従って歩んで欲しいというパウロの願いが込められているのです。当時、奴隷の所有者は自分の奴隷に焼き印を押したと言われています。そのことを背景にして、パウロは、「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」と言います。パウロは、イエス・キリストの僕(奴隷)として、どのような焼き印を身に受けていたのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架を宣べ伝えたために、ユダヤ人から受けた迫害の傷跡です。パウロは、ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。石を投げつけられたことが一度ありました(二コリント11:24、25参照)。パウロの体には、イエス・キリストの十字架を宣べ伝えたことによって受けた傷跡があったのです。その傷跡を、パウロは「イエスの焼き印」と呼ぶのです。このイエスの焼き印こそ、パウロがイエス・キリストの使徒であることを表しているのです。「イエス・キリストの使徒である私の言葉を受け入れて、私を煩わさないでほしい」とパウロは言うのです。

 18節は、祝福を祈る最後の言葉です。「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン」。パウロは、ガラテヤの信徒たちを、親しく「兄弟姉妹たち」と呼びかけます。そして、「わたしたちの主イエス・キリストの恵み」を祈り求めるのです。パウロは、この手紙で、「人は律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって救われる」と何度も語りました。それは、言い換えれば、「わたしたちの主イエス・キリストの恵みによって救われる」ということです。私たちは、およそ5か月に渡って、『ガラテヤの信徒への手紙』を学びました。その学びを通して、主イエス・キリストは、私たちに福音の真理を教えてくださり、聖霊の導きに従って歩むようにと教えてくださいました。私たちの救いが、父と子と聖霊なる三位一体の神の業であり、神の恵みであることを教えてくださいました。その神の恵み、主イエス・キリストの恵みが、私たちの霊と共にあるように、私たちも心を込めて祈りたいと思います。

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