聖霊の導きに従って歩め 2023年7月23日(日曜 朝の礼拝)
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聖霊の導きに従って歩め
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- 村田寿和 牧師
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ガラテヤの信徒への手紙 5章15節~26節
聖書の言葉
5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。ガラテヤの信徒への手紙 5章15節~26節
メッセージ
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私たちは、イエス・キリストの使徒パウロが、ガラテヤ地方にある諸教会に宛てて記した手紙を学んでいます。ガラテヤの信徒たちは、エルサレムから来た偽教師たちに惑わされて、イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、律法を守ることによって救われようとしていました。彼らは他の福音に乗り換えようとしていたのです。その彼らの交わりは、どのような交わりであったのでしょうか。15節で、パウロはこう記しています。「だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」。また、26節でもこう記しています。「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」。15節と26節から推測すると、ガラテヤの信徒たちの交わりは、「互いにかみ合い、共食いしている」獣のような交わりであったようです。また、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりする」交わりであったようです。そのようなガラテヤの信徒たちに、パウロは、16節でこう言います。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」。パウロは、13節で、「愛によって互いに仕えなさい」と言いました。それは言い換えると、「霊の導きに従って歩みなさい」となります。ここでの霊は、神の霊、聖霊のことです。また、「アッバ父よ」と叫ぶ御子イエス・キリストの霊のことです。聖霊は、父なる神の霊であり、御子イエス・キリストの霊であるのです(三位一体の神!)。イエス・キリストを信じるガラテヤの信徒たち、また私たちには聖霊が与えられています。その聖霊の導き従って歩むとき、私たちは、「愛によって互いに仕え合う」ことができるのです。イエス・キリストの霊である聖霊の導きに従って歩むとき、私たちは相手を自分よりも大いなる者と見なして、自分を低くして、互いに仕え合うことができるのです。また、イエス・キリストの霊である聖霊の導きに従って歩むとき、私たちは決して肉の欲望を満足させることはないのです。
ここでパウロが教えていることは、私たちキリスト者の生活が聖霊の導きに従って歩む生活であるということです。そのことは、私たちがイエス・キリストにあって神の子とされていることと深く結びついています。イエス・キリストにあって神の子とされている私たちは、「アッバ父よ」と叫ぶ御子イエス・キリストの聖霊の導き従って歩む者とされているのです。また、私たちキリスト者の生活が聖霊の導きに従って歩む生活であることは、私たちが自由な者とされていることと深く結びついています。私たちはイエス・キリストによって自由な者とされたゆえに、イエス・キリストの聖霊の導きに従って歩む者とされているのです(二コリント3:17参照)。
「聖霊の導きに従って歩む」とは「福音の真理に従って歩む」ことであり、「神の言葉に従って歩む」ことであります。パウロは、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」と記した後で、「霊の導きに従って歩みなさい」と記しました。「隣人を自分のように愛しなさい」というキリストの律法に従うことと、キリストの聖霊の導きに従うことは、一体的な関係にあるのです。私たちは、イエス・キリストによって自由な神の子とされたゆえに、イエス・キリストの聖霊の導きと御言葉に従って歩むことが命じられているのです。そのようにして、私たちは、イエス・キリストが与えてくださった神の子としての自由に生きることができるのです。
パウロは、「聖霊の導きに従って歩むならば、決して肉の欲望を満足させることはありません」と記しました。ここでの「肉の欲望」とは、私たちが生まれながらに持っている自己中心的な欲望のことです。なぜ、聖霊の導きに従って歩むならば、生まれながらに持つ自己中心的な欲望を満足させることがないのか。その理由を、パウロは、17節でこう言います。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」。私たちキリスト者には、二つの思いがあります。それは肉の思いと霊の思いです。「自己中心的な思い」と「神中心的な思い」です。私たちの内にある肉の思いと霊の思いが対立し合っているので、私たちは肉の欲望を満足させる生活にどっぷりとつかってしまうことはないのです。パウロが、「あなたがたは、自分のしたいと思うことができない」と記すとき、ここでの「自分のしたいと思うこと」とは、「肉の望むこと」です。私たちの内には、さまざまな自己中心的な欲望があります。しかし、私たちの内におられる聖霊のお働きによって、自己中心的な欲望に歯止めがかけられるのです。
パウロは、18節で、「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません」と言います。「律法の下にはいません」とは、律法の支配、「掟を守れば祝福され、掟を破れば呪われる」という掟の世界にはいないということです。パウロが「聖霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません」と言うのは、考えてみると当然のことであります。なぜなら、私たちに与えられている聖霊は、十字架の死から復活されたイエス・キリストの霊であるからです。イエス・キリストは、神の御子でありながら、女から、律法の下にお生まれになりました。そして、イエス・キリストは、私たちに代わって律法を完全に守ってくださり、なおかつ、私たちに代わって律法の呪いの死を死なれることによって、律法の支配から解放されたのです。神様は、イエス・キリストを十字架の死から三日目に栄光の体で復活させられ、天へと上げられ、御自分の右の座に着かせられました。そのことは、イエス・キリストが律法の下には、もはやいないことを示しています。イエス・キリストは律法の制定者の立場に再び立たれたのです。そのイエス・キリストの聖霊の導きに従って歩む時、私たちはもはや律法の下にはいないのです。イエス・キリストの聖霊の導きに従って歩むたちは、イエス・キリストが実現してくださった神の祝福の中に生かされているのです。
パウロは、19節で、肉のもろもろの業を記します。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」。ここでパウロは、「肉の望むところ」の実現としてのもろもろの業について記しています。生まれながらに人間が持つ自己中心的な欲望によって、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴などが行われるのです。ここで特に注目したいことは、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」といった人間関係を壊してしまう肉の業があげられていることです。ガラテヤの信徒たちは、互いにかみ合い、共食いしている獣のような状態にありました。彼らはうぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしていたのです。そのような彼らに対して、パウロは、肉の業は、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」であると言うのです。このことは、何を意味しているのでしょうか。それは、偽教師たちに惑わされ、割礼を受けようとしていたガラテヤの信徒たちが聖霊の導きに従って歩んでいないということです。聖霊の導きに従って歩んでいないので、彼らは、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」という肉の業を行ってしまっているのです。このことは、偽教師たちに惑わされたガラテヤの信徒たちが、福音の真理に従ってまっすぐ歩いていないことに原因があります(5:7参照)。教会の交わりは説教によって形づくられていくと言われます。説教において福音の真理が語られ、教会員が福音の真理に従って歩むならば、その教会の交わりは、聖霊に導かれた、愛によって互いに仕え合う交わりになります。しかし、説教において福音の真理が語られずに、教会員が福音の真理に従って歩んでいないならば、その教会の交わりは、肉の欲望を満足させる、敵意と争いが絶えない交わりとなってしまうのです。そして、残念ながら、ガラテヤの信徒たちの交わりは、敵意と争いが絶えない交わりになっていたのです。イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、律法を守らなければ救われないという教えは、自分の業を誇って他者を見下す仲間争いを引き起こしていたのです。そのようなガラテヤの信徒たちに、パウロは「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」と言うのです。ここでの神の国は、主イエス・キリストが再び天から来られることによって到来する新しい天と新しい地であり、新しいエルサレムのことです(黙21、22章参照)。パウロは、第4章26節で「天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です」と言いました。しかし、肉の業を行っている者は、「神の国を受け継ぐことはできない」と言うのです。それは、肉の業を行っている者がもはや聖霊の導きに従って歩んでいないからですね。このパウロの言葉は、仲間争いをしているガラテヤの信徒たちに対する警告の言葉です。また、私たちに対する警告の言葉でもあります。私たちが肉の業を行っているならば、私たちは神の国を受け継ぐことはできないのです。
パウロは、22節で、「聖霊の結び実」について記しています。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。パウロは、「肉の業」に対して「霊の実」と記します。パウロは「霊の業」とは記さずに、「霊の実」と記すのです。そのことは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」が私たちの内に聖霊が結んでくださる実であることを教えています(神の賜物!)。聖霊の導きに従って歩むならば、聖霊が私たちの内に、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という実を結んでくださるのです。また、パウロは、「肉のもろもろの業」と複数形(エルガ)で記しましたが、「霊の実」は単数形(カルポス)で記しています。このことは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」が一体的な関係にあることを示しています。聖霊は、私たちの内に、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という一つの実を結んでくださるのです。そのような実を結ぶことによって、聖霊は、私たちの交わりを、愛によって互いに仕える交わりとしてくださるのです。私たちの肉の業は教会に争いと分裂をもたらします。しかし、聖霊の結ぶ実は教会に平和と一致をもたらすのです。
「これらを禁じる掟はありません」とあるように、聖霊の実である愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を禁じる律法はありません。聖霊の実である愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制は、神の律法の源である神の御心に適ったことであるからです。私たちは、聖霊の結ぶ実である愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制によって、「隣人を自分のように愛しなさい」というキリストの律法を行い、律法全体を全うしていくのです。
パウロは、24節から26節でこう言います。「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従って前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」。パウロは、ガラテヤの信徒たちが、また私たちがイエス・キリストの御名によって洗礼を受けたことを前提にして語っています(3:27参照)。キリスト・イエスのものとなった私たちは、イエス・キリストの御名によって洗礼を受けました。そのとき、私たちは、生まれながらに持つ自己中心的な欲情や欲望を十字架につけてしまったのです(第四の誓約「私は今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きることを決心し、約束します」参照)。そのような私たちは、今既に、聖霊の導きに従って生きているのです。「わたしたちは霊の導きに従って生きているなら」とありますが、これは意味としては、「私たちは聖霊の導きに従って生きているのだから」という意味です。「私たちは、今既に、聖霊の導きに従って生きているのだから、聖霊の導きに従って前進しよう」とパウロは言うのです。ここで「前進する」と訳されている言葉(ストイケオー)は「列を作って歩く」という意味です。それぞれがばらばらに歩んで行くのではなくて、列を作って一つの方向を目指して歩んで行くことが言われているのです(その昔、エジプトを脱出したイスラエルの民が雲の柱と火の柱に導かれて行進したイメージ)。私たちは、うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみあったりすることなく、これからも聖霊の導きに従って前進して行きたいと願います。