主において同じ思いを抱きなさい(奨励題) 2023年7月16日(日曜 朝の礼拝)
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主において同じ思いを抱きなさい(奨励題)
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フィリピの信徒への手紙 2章1節~5節
聖書の言葉
4:2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。
2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。フィリピの信徒への手紙 2章1節~5節
メッセージ
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パウロが福音を伝えて以来、フィリピの人たちは福音に与かって来ました。その間に、パウロは獄中に監禁される身となってしまいました。けれども、主にある喜びと感謝に満ちた交わりは、パウロとフィリピの人たちとの間で続けられてきました。パウロは、フィリピの人たち一同がこれからもキリスト・イエスに結ばれて、キリストの福音にふさわしい生活を送るようにと願い、この手紙を書いています。
今日の箇所では、二人の婦人の間に何かすれ違いが生じ、不和になっていたということが伺えます。何が問題かということは具体的にはわかりません。第三者の立場にいると、どこに問題があるかと追及してしまいがちですが、パウロは、問題点を指摘することによって解決を図ろうとは考えていないようです。そうではなくて、主にある交わりの本質的なところで勧めをし、励まそうとしています。4:2のパウロの短い勧めで、パウロはどんなことを伝えようとしているのでしょうか。
本題に入る前に、ここの短い言葉には、パウロの配慮がこめられていると思いますので、それを見ておきます。
パウロは、書き進めて手紙を締めくくるところにきて、この二人の婦人の件を扱っています。パウロから受け取った手紙は、たぶんフィリピの教会の人たち一同が集まるところで、代表の人によって読まれたでしょう。手紙の主要部分でこの二人のことを取り上げるとすれば、理解を得るために、いろいろ説明することが必要になります。そうなれば、フィリピの人たちの関心が、二人の婦人に集まります。はたして、勧めの言葉を冷静に聞くことができたかどうか。また、一緒に聞くフィリピの人たちも、少なからずの痛みを覚えながら聞くことになる、そのようなことが想像できます。ですから、パウロは配慮して、手紙の終わりの方でこの件を扱ったのではないかと思います。
さらに、非常に短い言葉で勧めをしています。簡潔な言葉で、あっさり触れられることで、聞く人たちは緊張を強いられることなく、冷静に受け止めることができたしょう。
一同の前で読まれる手紙に、人間関係で懸念される問題を取り上げ、しかも、個人の名前を挙げて言葉をかけるのは、信頼関係があってできることです。このような配慮は、パウロが福音を伝えて以来続けられてきた主にある交わりから生まれてきたものと言えます。
では、本題の、この短い勧めの言葉に込められたパウロの思いを見ていくことにします。
「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。」(4:2前半)と、わざわざそれぞれの名で呼びかけています。ここにパウロの思いがあります。その思いは、2:13-14で知ることができます。2章12節の途中から読みます。
わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も不平や理屈を言わずに行いなさい。(2:12-14)
フィリピの人たち一同への勧めとして語っています。囚われの身でありましたので、パウロはフィリピの人たちに、各自が自分の救いを達成するように努めなさい(12節)、と手紙で促しています。自己目的で、自分の救いを達成するように、と勧めているわけではありません。「あなたがたの内に神が働いておられるのだから」と、各自の救いを達成する理由、あるいは出発点がどこにあるのかを示して、それゆえに自分の救いを達成するようにと促し、勧めをしているのです。
この箇所は一同への勧めとして述べていますが、二人の婦人に向けた勧めとして受けとめることもできると思います。4章3節でパウロが述べているように、婦人たちは他の人たちと力を合わせて、福音を広めるパウロのはたらきを支えていました。二人の婦人は、パウロのはたらきの支援を通して、人々の救いに携わる働きをしていたわけです。そのような務めの上で、何かすれ違いが生じてしまい、不和になったと考えることはできると思います。それで、それぞれの働きがそもそもどのような働きなのか、そのことを考えてもらう。この2:13-14がその言葉になります。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神」なのですからと、同じ神が二人の婦人の内にそれぞれ働き、望ませ、行わせておられる、と語っています。人の性格とともに、その人の境遇や経験を通して身につけてきた考え方やものごとの見方は、その人によって違いがあるのは当然です。そのような違いがあっても、一つ同じ神がそれぞれの内に働かれ、望ませ、行わせておられる。だから、「何事も不平や理屈を言わずに行いなさい。」と、それぞれに勧めの言葉を述べているのです。「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。」と呼びかけているのは、それぞれの立場から、主において同じ思いを抱いてほしい、というパウロの思いを語っています。さらに言いますと、解決の道筋をそれぞれ二人の婦人に委ねている、そうして、恐れおののきつつ、自分の救いを達成するように努めなさい、と勧めている。そう読むこともできるのではないかと思います。
4:2の短い勧めでもう一つ注目したいのは、後半の、「主において同じ思いを抱きなさい。」という言葉です。ただ、「同じ思いを抱きなさい」と述べますと、勧めをする側の都合で同調を求める、と聞こえてしまう言葉にもなります。ところが、パウロは「主において」という言葉を添えています。単に言葉を添えたのではなく、意味ある言葉として用いています。
この「主において」という言葉は、この短い勧めの鍵になる言葉です。「主において」とか「主にあって」という言葉は新約聖書によく使われています。「・・・において」という元のギリシャ語(エン)は、その用法が多方面に及び、いろいろな意味に受けとめられる言葉です。日本語も同じで、ちょっとつかみどころがない言葉です。辞書的な解説も役に立つと思いますが、「主において」という言葉でどのような思いを伝えようとしているのか、パウロがこの手紙で語っています。その個所は、2:1-5です。この箇所の少し前、1:27で、「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と言っています。「キリストの福音にふさわしい生活を送る」というこの課題を、フィリピの人たちに向けて述べたのが、この箇所です。フィリピの人たち一同への勧めですが、ここも、二人の婦人へ向けた勧めとして読むことができます。4:2の「主において同じ思いを抱きなさい。」を、パウロは前もって、ここで述べているのだと思います。まずは前半の1-2節のところを見ていきましょう。
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。(2:1-2)
「主による励まし」は、「キリストに結びついているところから来る励まし」です。主キリストにつながっていることで、キリストの愛にとどまることになります。キリストの励ましを受けます。キリストの慰めを与えられ、霊の交わりに与かって、慈しみの心や憐みの心で満たされることになります。キリストと弟子たちの結びつきについては、主イエスが、ご自身をまことのぶどうの木に、弟子たちをそれにつながる枝に譬えて、教えておられました(ヨハネ15章)。同じように、主との結びつきについて、パウロの言葉でフィリピの人たちに向けた言葉として語っているところであると思います。
パウロが1節で「励まし」と言っているギリシャ語(パラクレーシス)には、「勧め励ますこと、勧告」と言う意味が含まれています。また、「愛の慰め」の「慰め」という言葉(パラムシオン)にも、「言葉がけをもって慰める、励ます」という意味があります。「キリストによる励まし」や「愛の慰め」があるということは、それを私たちの内に留保して、しまい込んでおくのではなく、互いに言葉がけをもって勧め励まし、慈しみや憐みの心を表し、示していく、そういう意味を持った言葉です。主による励まし、愛の慰め、霊の交わり、慈しみや憐みの心は、兄弟姉妹をとおして表されると言うことでもあると思います。そして、主による励ましや慰めがあるなら、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」してほしいと述べています。それは、キリストに結びついているところから必然的に導かれる思いであると言えます。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それは、キリスト・イエスにもみられるものです。(2:3-5)
「主において」という言葉が意味することを、後半のこの箇所で、もう一つ明らかにしています。「互いに相手を自分より優れた者と考える」ということと、「他人のことにも注意を払う」ようにと勧めがされています。そして、そのような姿勢は、キリスト・イエスご自身がそうされたのであって、キリスト・イエスに見られるのです、と語っています。主のへりくだりとはどういうことなのか、続く2:6-11が説明しています。「主において」という意味を理解するために、ここを見ておきましょう。
2:6-11は、新改訳聖書や新しい聖書協会共同訳では、詩編と同じように、詩文の形式で表わされています。初期の教会の讃美歌として用いられていた句の引用と考えられるからです。あるいは、私たちが使徒信条などを唱和するように、唱えていたのかもしれません。キリスト・イエスのへりくだりと高く上げられる栄光について、そしてキリストの人間性と神性について、キリストの教会がその初めから信じ、言葉に表してきたものを、パウロは引用しています。ここではキリストのへりくだりについてだけ見ていくことにします。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。2:6-8
最初の句、6節に、「固執する」という言葉があります。「固執する」というギリシャ語(ハルパグモン)は、もともとが「奪い取る」という意味の言葉です。このもとの意味に近い言葉で言い換えると、「キリストは神と等しい者であることを、何としてでも奪い取るべきもの、掴んでおくべきものとは考えなかった。」となります。神と等しい者であることを、自分の意志を働かせ、自分の能力を使って、手放したくはない。そのようには考えなかった、ということです。それが「固執しようとは思わず」です。神と等しい者であることをどうしても自分のものにしようとするなら、人間的な思惑で言えば、自分に有利に働くようなことを様々に考えます。いろいろな計略や計算が思いのうちでうごめきます。けれども、キリストはそのような思いに執着しませんでした。そういう思いを空(から)にする、放棄するということです。そのことを、「かえって自分を無にして」という言葉で言い表しています。この「無にする」というギリシャ語(ケノウ)は「空(から)にする」という意味の言葉です。「自分の神である地位を空にする」とか「神と等しくあることを空(むな)しくする」という意味でもあります。自分に有利に働くことはいくらでもあるはずの特権に執着しないで、その特権を空(から)っぽにして、無にしたわけです。そうして「人間と同じ者になられた…」ここにキリストのへりくだりがある、と讃美歌の句は言います。
私たちは自分を無にする、空っぽにすることがなかなかできません。自分に有利になることが目の前に、手の届くところにあると、どうしても自分を優先する思いが働きます。得られるはずの利得を計算します。同じように自尊心とか虚栄心がありますので、自分の栄誉が現わされるのを求めます。認められたいという承認欲求も働きます。そのこと自体は必ずしも否定されるものではないと思いますが、他人のことにも注意を払わないで求めていくと、ガラテヤ書でパウロが述べている、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22)という、霊が結ばせる実をしぼませてしまいます。自分と同じような立ち位置に身近な人がいる場合はどうなるでしょう。主において同じ思いを抱くことができるなら、同じ思いでつながっていますので、励まし合い、教え合う関係を築いていくことができると思います。が、利己心や虚栄心が優ると、相手の人を、自分が得るはずの利得や称賛を減じてしまう、妨げてしまうような目障りな存在として見てしまいます。それで、相手を自分より優れた者と思うことを忘れ、自分と同じようにその人にも注意を払うことを忘れてしまいます。「他人のことにも注意を払う」というのは、「気を配る」「心にかける」という意味での「注意を払う」です。それは、「隣人を自分のように愛しなさい。」という掟を、具体的な状況にあてはめて勧めている言葉であると思います。
キリストがご自分の立場に固執せず、ご自分を無にして、僕の身分になってへりくだられた。「主において」という言葉で、この主と同じように、そして主にならって、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。」(2:3-5)と、二人の婦人に向けた勧めとして語っているのです。
2:1-2で「わたしの喜びを満たしてください。」という言葉をつけ加えて言っていました。わたし、パウロが気に入るようなことをしなさいという意味では、もちろんありません。フィリピの人たちは、パウロの働きを、何度も物のやり取りを通して支えてくれたことがありました。それはパウロを力づけ、喜びました。しかしそのこと以上にパウロの喜びを満たすのは、「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」、「キリストの福音にふさわしい生活を送る」、そのようなフィリピの人たちそのものである。そういう思いを伝えているのです。
私たちも、兄弟姉妹たちの交わりをとおして、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐みの心を、あなたからいただいていますので、主にあって同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにし、自分のことだけでなく、他の人に注意を払いなさいというパウロの勧めに従って歩み、キリストの福音にふさわしい生活を送ることができますように、願っています。