命ある者よ、心せよ 2023年7月09日(日曜 夕方の礼拝)

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命ある者よ、心せよ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コヘレトの言葉 7章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:1 名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。
7:2 弔いの家に行くのは/酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。
7:3 悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。
7:4 賢者の心は弔いの家に/愚者の心は快楽の家に。
7:5 賢者の叱責を聞くのは/愚者の賛美を聞くのにまさる。
7:6 愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音。これまた空しい。
7:7 賢者さえも、虐げられれば狂い/賄賂をもらえば理性を失う。コヘレトの言葉 7章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第7章1節から7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節から3節までをお読みします。

 名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。弔いの家に行くのは/酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終わりがある。命あるものよ、心せよ。悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。

 ここで、コヘレトは「何々は、何々にまさる」という言い方を何度もしています。この「まさる」は「より良い」とも訳すことができます。「名声は香油にまさる」。「名声」とは「名誉ある評判」のことです。「香油」は高価なもので、贅沢な暮らしを象徴しています。「名誉ある評判は、贅沢な暮らしにまさる」。このようにコヘレトは言っているのです。そして、この「名誉ある評判」は、死んだ後に残す評判であるようです。コヘレトは続けて、「死ぬ日は生まれる日にまさる」と言います。なぜ、死ぬ日は生まれる日より良いのでしょうか。それは名誉ある評判が死ぬ日に完成されるからです。生まれる日には、その人がどのような人物となるかは分かりません。しかし、死ぬ日には、その人がどのような人物であったのか、その名声が確定されるわけです。それゆえ、コヘレトは、「名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる」と言うのです。

 また、コヘレトは、「弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くよりも良い」と言います。「弔いの家」とは、葬儀を行っている家です。他方、「祝宴の家」とは婚宴を行っている家です。なぜ、葬儀を行っている家に行くのは、婚宴を行っている家に行くのにまさるのでしょうか。それは、弔いの家には、人皆の終わりがあるからです。私たちも、教会で葬儀を行います。葬儀に参列するとき、私たちは生きていた人が死んでしまった事実に直面します。人は本当に死んでしまうのだということを改めて教えられます。そして、私もいつかは、同じように死んでしまうのだということを思わされます。コヘレトは、そのことを「心せよ」と言うのです。「命ある者よ、あなたの人生に終わりがあることを心せよ」とコヘレトは言うのです(いわゆるメメント・モリ「死を覚えよ」)。それは、短い人生の日々を大切に、また有意義に過ごすためですね。自分は必ず死ぬことを心に留めるとき、その人の生き方が変わってくるのです。けれども、私たちはキリスト教の葬儀において、自分が必ず死ぬことだけを心に留めるのではありません。私たちは、兄弟姉妹の魂が天国に移されて、栄光の主イエス・キリストと共にいて、肉体の復活を待ち望んでいることを確信して、天の住みかを仰ぎ見るのです。私たちは、自分がいつか死ぬことだけではなく、死を通して、イエス・キリストがおられる天の国へと入ることを心に留めるのです。そのとき、イエス・キリストを信じる私たちの信仰者としての姿勢が整えられるのです。

 3節の「悩み」は「悲しみ」とも訳せます(新改訳2017参照)。ここでの悲しみは、文脈から言えば、「親しい者を失った悲しみ」のことでしょう。「悲しみ」と「笑い」、どちらがより良いと思われるでしょうか。私たちは、悲しみのない、笑いの絶えない人生を送りたいと思うかも知れません。しかし、そのような人生は、なんと薄っぺらな人生でしょうか。3節に、「顔が曇るにつれて心は安らぐ」とあります。新改訳2017は、このところを次のように翻訳しています。「顔が曇ると心は良くなる」。悲しみと悩みで顔が曇る。そのとき、心は良くなると言うのです。悲しみと悩みは、私たちの心を良くする。悲しみと悩みによって、私たちは深みのある、成熟した、良い人間になるのです。それゆえ、コヘレトは、「悩みは笑いにまさる」と言うのです。

 4節から7節までをお読みします。

 賢者の心は弔いの家に/愚者の心は快楽の家に。賢者の叱責を聞くのは/愚者の賛美を聞くのにまさる。愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音。これまた空しい。賢者さえも、虐げられれば狂い/賄賂をもらえば理性を失う。

 ここで、コヘレトは、賢い者と愚かな者とを対比して語っています。賢い人は弔いの家に向かう。そして、賢い人は、自分もいつか死ぬことを覚えて、神を畏れて生きるのです(12:13参照)。他方、愚かな人は、楽しみの家に向かう。そして、愚かな人は、人生の終わりから目を背けて、はかない楽しみに耽るのです。

 皆さんは、叱責と賛美のどちらを聞きたいでしょうか。自分の失敗や過ちを叱り責める言葉と神様を賛美する言葉のどちらが良いかと言われれば、叱責ではなく、賛美が聞きたいと思うことでしょう。しかし、賢い者の叱責と愚か者の賛美ならばどうでしょうか。コヘレトは、「賢者の叱責を聞くのは/愚者の賛美を聞くのにまさる」と言います。賢い者の叱責は、あなたを愛して、あなたを造り上げるための叱責であるからです。他方、愚か者は神を畏れていないので、心から神を賛美することができないのです。

 6節に、「愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音。これまた空しい」とあります。柴は火にくべるとパチパチと景気よく燃え上がりますが、しばらくすると灰になってしまいます。その柴の音のように、愚か者の笑いは大きくても、その中身は空しいものであるのです。

 7節に、「賢者さえも、虐げられれば狂い/賄賂をもらえば理性を失う」とあります。賢い人でも、いつも人生の終わりを見つめて、神を畏れて歩むことができるわけではありません。賢い人でも虐げられれば愚かな者となってしまうのです(聖書協会共同訳参照)。そのように、私たちは置かれている環境に大きく左右されるのです。『箴言』の第30章に「アグルの言葉」が記されています。そこで、アグルは次のように言っています。『箴言』の第30章7節から9節までをお読みします。旧約の1030ページです。

 二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。

 アグルは、自分が置かれている環境によって、大きく影響を受けることを良く知っていたのです。

 また、バビロン帝国によって滅ぼされたエルサレムのことを歌った『哀歌』には、衝撃的な御言葉が記されています。『哀歌』の第4章10節をお読みします。旧約の1292ページです。

 憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした。わたしの民の娘が打ち砕かれた日/それを自分の食糧としたのだ。

 このように、人間は、置かれている状況によって、何をするか分からないわけです。

 今夕の御言葉に戻りましょう。旧約の1041ページです。

 「賢者さえも、虐げられれば狂い/賄賂をもらえば理性を失う」。そうであれば、私たちは信仰者として、どうであろうかと思います。私たちは、「イエス・キリストは神の御子、救い主である」と信じています。そして、その信仰は、自分の罪に対する悲しみと悩みを経て、神様によって与えられた信仰であるのです。もし、私たちが自分の力で、生まれながら持っている信心で、イエス・キリストを信じているならば、置かれている状況によって、信仰を失ってしまうことでしょう。イエス・キリストを信じていることで、迫害を受けたり、不利益を被ることになれば、すぐにつまずいてしまうのです(マルコ4:17参照)。しかし、今夕、はっきり覚えたいことは、私たちの信仰は、私たちの内に働く聖霊の御業であるということです。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とイエス様が言われたように、私たちのイエス・キリストへの信仰は、神の業によるものであるのです(ヨハネ6:29)。また、イエス・キリストの使徒パウロは、『フィリピの信徒への手紙』の第1章6節で次のように記しています。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。神様が私たちの内にイエス・キリストを信じるという善い業を始めてくださった。そして、神様は、キリスト・イエスが来られる終わりの日まで、私たちの信仰を保ち、完成してくださるのです。ですから、私たちの信仰が弱まることがあっても、キリスト者としてふさわしくない言葉を語り、振る舞いをしてしまうことがあっても、私たちからイエス・キリストを信じる信仰が無くなってしまうことは決してないのです(聖徒の堅忍の教理)。

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