愛によって仕える自由 2023年7月09日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。
5:8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。
5:9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。
5:10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。
5:11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。
5:12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。
5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。ガラテヤの信徒への手紙 5章7節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 7節に「あなたがたは、よく走っていました」とあるように、パウロは、信仰生活を長距離走に譬えています(2:2参照)。パウロの福音宣教によって、イエス・キリストを信じたガラテヤの信徒たちは、福音の真理に従って信仰生活を送っていました。しかし、彼らは、エルサレムから来た偽教師たちによって惑わされて、イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けようとしていました。偽教師たちの教え、イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受け、律法を守らなければ救われないという教えに惑わされて、イエス・キリストを信じていながら、割礼を受け、律法を守って救われようとしていたのです。その偽教師たちのことを念頭に置きつつ、パウロはこう言います。「いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いはあなたがたを召し出しておられる方からのものではありません」。「このような誘い」とは、福音の真理に従わないようにさせる誘いであり、イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、律法を守らなければ救われないという誘いのことです。また、「あなたがたを召し出しておられる方」とは、父なる神様のことです(1:6参照)。父なる神様がイエス・キリストの十字架と復活によって、はっきりと示されたこと。それは、「人は律法の行いによって誰一人として神の御前に正しいとはされない」ということです。さらには、「人はイエス・キリストへの信仰によって神の御前に正しいとされる」ということです。その父なる神様が、「イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、律法を守らなければ救われない」と誘われるはずはありません。それにも関わらず、偽教師たちは、神の福音として、イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、律法を守らなければ救われないと教えていたのです。

 偽教師たちに惑わされた者は少数であったかも知れません。しかし、パウロは、わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるように、惑わされた者が少数であっても、その悪い影響は教会全体に及ぶと警告しています。イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、律法を守らなければ救われないという教えは教会全体に及んで、教会全体を福音の真理に従わないようにしてしまうのです。しかし、そうは言っても、パウロは楽観的です。「あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています」。「別な考え」とは、「パウロと別な考え」ということです。パウロは、ガラテヤの信徒たちが、自分が宣べ伝えた福音に留まってくれると信頼しているのです。このようにパウロがガラテヤの信徒たちを信頼できるのは、「主をよりどころとして」いるからです。パウロが、「あなたがたが決して別な考えを持つことはない」と信頼することができるのは、ガラテヤの信徒たちに信仰を与えてくださったのが、主イエス・キリストであるからです(ヨハネ15:16参照)。主イエス・キリストを信じること、それは神の業であるからです(ヨハネ6:29参照)。パウロは、『フィリピの信徒への手紙』の第1章6節でこう記しています。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。この主に対する確信のゆえに、パウロは、ガラテヤの信徒たちが、決して別な考えを持つことはないと信頼することができたのです。

 しかし、だからといってガラテヤの信徒たちの邪魔をして、真理に従わないようにさせた偽教師たちが罰を免れることはありません。「あなたがたを惑わす者は、だれであろうと裁きを受けます」。ガラテヤの信徒たちを惑わせた偽教師たちは、終わりの日の神の裁きによって、断罪され、罰を受けることになるのです。なぜなら、偽教師たちの教え、イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、律法を守らなければ救われないという教えは、イエス・キリストの死を無意味なものとし、人々を滅びへと引き渡してしまう悪い知らせであるからです。

 11節でパウロは、ガラテヤの信徒たちに、主にある兄弟姉妹として、「兄弟たち」と親しく呼びかけます。パウロとガラテヤの信徒たちは、主イエス・キリストにある兄弟姉妹であるのです。同じことが私たちにも言えます。私が『月報』の巻頭言を書くときは、いつも、「主にある兄弟姉妹へ」と書きます。牧師である私と教会員である皆さんの関係は、主にある兄弟姉妹としての関係であるからです。パウロは、主にあって、ガラテヤの信徒たちを信頼しているからこそ、「兄弟たちよ」と親しく呼びかけるのです。偽教師たちは、パウロも割礼を宣べ伝えていると教えていたようです。「このわたしが今なお割礼を宣べ伝えているとするならば」。この御言葉から推測すると、パウロは熱心なユダヤ教徒であったとき、異邦人に割礼を宣べ伝えていたようです。かつてパウロは、ユダヤ教の宣教者であったのです(マタイ23:15参照)。しかし、イエス・キリストの啓示を受けた今は、パウロは割礼を宣べ伝えてはいません。パウロは、「イエス・キリストを信じて、割礼を受け、律法を守れば救われる」と宣べ伝えているのではなく、「イエス・キリストを信じるだけで救われる」と宣べ伝えているのです。パウロは、自分が割礼を宣べ伝えていない証拠として、迫害を受けている事実をあげます。ここでの迫害は、イエス・キリストを信じていないユダヤ人からの迫害です。といいますのも、第6章12節にこう記されているからです。「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」。ここでパウロは、偽教師たちが割礼を宣べ伝えている動機を暴露しています。偽教師たちが割礼を宣べ伝えているのは、ユダヤ人からの迫害を受けたくないからであるのです。偽教師たちは、ユダヤ人からの迫害を免れるために、キリストの十字架だけではなく、割礼をも宣べ伝えていたのです。しかし、パウロは、割礼を宣べ伝えることなく、イエス・キリストの十字架のみを宣べ伝えました。それゆえ、パウロはユダヤ人からの迫害を受けているのです。

 パウロが、「そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう」と記すとき、「そのようなこと」とは「イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、律法を守らなければ救われない」という偽教師たちの教えのことです。また、「十字架のつまずき」とは、十字架に磔にされたナザレのイエスが、約束のメシアであり、この方への信仰によって救われるという福音の真理のことです。割礼を宣べ伝えるのであれば、それは自分で律法を守って救われることであり、十字架のつまずきは無くなってしまいます。イエス・キリストの福音は骨抜きになり、もはや福音とは呼べないものとなってしまうのです。それゆえ、パウロは、今なお割礼を宣べ伝えている偽教師たちのことを念頭に置いてこう言うのです。「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」。割礼とは、男性の包皮の一部を切り取る儀式のことです。その割礼を宣べ伝える者たちは、いっそのことすべてを切り取って去勢してしまえばよいと言うのです(申命23:2「陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」参照)。

 13節で、パウロが「あなたがたは自由を得るために召し出された」と記すとき、その自由は、律法の支配からの自由、「掟を守れば祝福され、掟を破れば呪われる」という掟の世界からの自由のことです。私たちは、イエス・キリストによって、律法の支配から自由な者とされています。そうであれば、私たちは、「キリスト者の自由」をどのように用いるべきなのでしょうか。パウロは、「この自由を、肉に罪を犯させる機会としてはならない」と記します。ここでの「肉」は生まれながらの自己中心的な人間のあり方のことです。自由と聞くと、何にも束縛されていない状態のことを思い浮かべると思います。しかし、その自由を肉に罪を犯させる機会とするならば、その人は、罪の奴隷となってしまうのです。自由については、『ヨハネによる福音書』の第8章で、イエス様が教えてくださっています。実際に聖書を開いて確認しましょう。新約の182ページ。『ヨハネによる福音書』第8章31節と32節をお読みします。

 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。

 ここでの真理とは、イエス様の御言葉のことです。イエス様の御言葉にとどまり、従うところに自由があるのです。私たちは真理であるイエス様の御言葉と聖霊によって、自由な者とされているのです。ですから、イエス様の御言葉と聖霊に逆らって罪を犯すならば、私たちは自由を失って、再び罪の奴隷となってしまうのです。

 34節から36節までをお読みします。

 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

 「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」というイエス様の御言葉を読むと、私たちは、パウロが奴隷の子イシュマエルと約束の子イサクについて語ったことを思い起こします。私たちは、奴隷の女ハガルから生まれた奴隷の子ではありません。私たちは、自由な身分の女から生まれた自由の子であるのです。そのような自由をイエス・キリストは、私たちに与えてくださいました。私たちはイエス・キリストによって、本当に自由な者とされているのです。

 今朝の御言葉に戻りましょう。新約の349ページです。

 パウロは、自由を用いて、「愛によって互いに仕えなさい」と記します。パウロは6節で、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と言いました。その信仰を源とする愛によって、互いに仕えなさいと言うのです。自由と愛は、深く結びついています。自由なところに愛があり、愛のあるところに自由があるのです(神様が人間を自由意志を持つ者として造られた理由)。自由にされたとは、愛する者とされたということでもあります。その自由な愛をもって、互いに仕え合うことが私たちに求められているのです。それは、私たちを自由な者としてくださったイエス様が、自由な愛によって私たちに仕えてくださったからです。イエス様は、弟子たちを愛して、弟子たちの足を洗ってくださいました(ヨハネ13章参照)。そればかりか、弟子たちを愛し抜かれて、命を捨ててくださいました。それはイエス様が自由な愛に生きておられたからです。自由な愛、それは敵をも愛する愛であります。自由な愛、それは隣人を自分のように愛する愛であるのです。それゆえ、パウロは14節でこう言います。「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」。このようにパウロが記すのは、愛は隣人に悪を行わないからです(ローマ13:10参照)。また、律法の源にある神様の御心が愛することであるからです(マタイ22:36~40参照)。それにしても、私たちは、このパウロの言葉を読んで驚くのではないでしょうか。なぜなら、パウロは、これまで律法の支配からの自由について語ってきたからです。律法の支配からの自由を語って来たパウロが、律法を持ち出すことに私たちは驚くのです。しかし、パウロは、「『隣人を自分のように愛しなさい』という掟を守って、救われなさい」と言っているのではありません。イエス・キリストを信じる者は、聖霊によって与えられる自由な愛によって、隣人を自分のように愛することができる者とされている(5:22「霊の結ぶ実は愛であり」参照)。そのようにして、律法全体を全うする者とされていると言うのです。人が救われるのは、律法の行いではなく、ただイエス・キリストへの信仰によってです。しかし、イエス・キリストを信じて生きるとき、人は聖霊の賜物としての愛を与えられて、神と人とを愛する者とされるのです。「隣人を自分のように愛しなさい」というイエス・キリストの律法に従うことによって、律法全体を全うする者となるのです(6:2参照)。

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