愛によって働く信仰 2023年7月02日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ガラテヤの信徒への手紙 5章2節~6節
聖書の言葉
5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
5:3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5:5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。ガラテヤの信徒への手紙 5章2節~6節
メッセージ
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今朝は、『ガラテヤの信徒への手紙』の第5章2節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
2節から4節までをお読みします。
ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
パウロの福音宣教によって、イエス・キリストを信じたガラテヤの信徒たちは、エルサレムから来た偽教師たちに惑わされて、割礼を受けようとしていました。偽教師たちは、イエス・キリストを信じるだけではなくて、割礼を受けなければ救われないと教えていたようです。また、イエス・キリストを信じるだけではなくて、割礼を受けることによって、より確かな救いにあずかれると教えていたようです。『創世記』の第17章を読むと、神様はアブラハムに契約のしるしとして、割礼をお命じになりました。ちなみに、「割礼」とは、男性の包皮の一部を切り取る儀式のことです。偽教師たちは、『創世記』の第17章を根拠にして、割礼を受けた者こそ、アブラハムの祝福にあずかることができると教えていたのでしょう。そのような偽教師たちの主張を念頭におきながら、パウロは、神様が祝福の源となると約束されたアブラハムの子孫は、イエス・キリストであること。アブラハムの子孫であるイエス・キリストを信じる者が約束の子であり、アブラハムの祝福にあずかることができると記してきたのです。神様は、アブラハムとの約束を実現するために、御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある私たちを贖い出して、神の子となさるためでした。神の御子イエス・キリストは、私たちに代わって神の掟を完全に守ってくださり、私たちに代わって律法の呪いの死、十字架の死を死んでくださいました。そのようにして、イエス・キリストは、私たちを自由な身にしてくださったのです。イエス・キリストは、「律法を守れば祝福され、律法を破れば呪われる」という掟の世界から、私たちを自由にしてくださいました。それにも関わらず、ガラテヤの信徒たちは、偽教師たちに惑わされて、割礼を受けようとしていたのです。彼らは、自分で奴隷の軛を再び負おうとしていたのです。そのような、ガラテヤの信徒たちに、パウロは、2節でこう言います。「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」。「わたしパウロは」という表現は、これから語ることが大切であることを示しています。「イエス・キリストの使徒であり、あなたがたにイエス・キリストの福音を宣べ伝えた、他ならぬわたしパウロがあなたがたに断言します」と言うのです。偽教師たちは、イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けるように教えていました。割礼を受ければより確かな救いにあずかることができると教えていました。しかし、パウロは、「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」と言うのです。なぜなら、割礼を受ける人は、律法全体を行う義務を負うことになるからです。パウロは、割礼をアブラハムとの契約ではなく、律法と結びつけて論じます。当時、異邦人(ユダヤ人でない外国人)が割礼を受けることは、ユダヤ人になることであり、律法の軛を負うことでした。それゆえ、パウロは、「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです」と言うのです。そして、そのことは、律法によって義とされようとすることであるのです。おそらく、割礼を受けようとしていたガラテヤの信徒たちは、そこまで考えていなかったと思います。しかし、異邦人であるガラテヤの信徒たちが、割礼を受けることは、律法全体を行う義務を負い、律法によって義とされようとすることであるのです。ガラテヤの信徒たちは、イエス・キリストによって、律法の支配から解放されました。イエス・キリストは、御自分の民の罪を担って、律法の呪いの死を死んでくださいました。そして、御自分の民の初穂として、栄光の体で復活してくださいました。そのようにして、イエス・キリストは、御自分の民の祝福の初穂(最初の実り、保証)となってくださったのです。ですから、パウロから福音を聞いて、イエス・キリストを信じたガラテヤの信徒たちは、律法の支配から解放されて、イエス・キリストの恵みの支配に入れられているのです。イエス・キリストに結ばれて、神の祝福にあずかっているのです。それにもかかわらず、割礼を受けて、律法全体を行う義務を負い、律法を行うことによって義とされようとするならば、その人はキリストと縁もゆかりもない者となり、いただいた恵みを失ってしまうのです。イエス・キリストを信じておりながら、割礼を受ける人は、キリストと無縁な者となり、恵みを失ってしまい、自らを滅びへと引き渡してしまうのです。なぜなら、はじめの人アダムにあって、創造された状態から堕落したすべての人は、律法を完全に守ることができないからです。すべての人間は、律法を守って義とされることはできません。それゆえ、神様は、御子を女から、律法の下に生まれた者としてお遣わしになったのです。すべての人間は律法を守ることができないので、神の御子が人となって、律法を完全に守り、なおかつ、律法の呪いの死を死んでくださったのです。そのようにして、神様は、律法の支配下にある私たちを贖い出して、神の子としてくださったのです。神様は、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、私たちに遣わしてくださり、父と子との永遠の愛の交わりに生きる者としてくださいました。しかし、それにもかかわらず、割礼を受けて、律法を行う義務を負い、律法を行うことによって義とされようとするならば、その人は、自分をキリストと無縁な者とし、いただいた恵みを失ってしまうのです。
5節をお読みします。
わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
ここでの「わたしたち」は、信仰によって、イエス・キリストに結ばれて神の子とされた「わたしたち」のことです。人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、イエス・キリストを信じた「わたしたち」のことです。私たちは、イエス・キリストへの信仰によって、さらに言えば、十字架の死に至るまで父なる神の御心に従われたイエス・キリストの信仰によって、神様の御前に正しい者とされています。しかし、私たちには罪が残っており、完全に正しい者とされているわけではありません。私たちは法的には正しい者とされていますが、実質的には正しい者とされていないのです。しかし、イエス・キリストが再び来られるとき、私たちは栄光の体に変えられ、内なる罪からも解き放たれて、完全に正しい者とされるのです。「義とされた者の希望」については、ウェストミンスター小教理問答の問38が教えてくれています。
問38 信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受け入れられ無罪と宣告され、永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます。
このような義とされた者の希望が実現することを、私たちは霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。ここでの「霊」は、神の霊である聖霊のことです。また、「信仰」とは「イエス・キリストへの信仰」のことです。私たちは、律法を行う、自分の業に基づいてではなく、聖霊によって賜物として与えられたイエス・キリストへの信仰に基づいて待ち望んでいるのです。聖霊の賜物であるイエス・キリストへの信仰によって義とされることは、今も、将来も同じであるのです。
6節をお読みします。
キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
パウロが、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく」と記す時、割礼を受けているユダヤ人キリスト者のことを念頭においています。パウロもユダヤ人であり、生まれて八日目に割礼を受けました(フィリピ3:5参照)。しかし、パウロは、異邦人に宣教する際、「イエス・キリストを信じて、割礼を受ければ救われる」とは言いませんでした。パウロは、「イエス・キリストを信じるだけで救われる」と宣べ伝えたのです。それは、パウロが、救われるために必要なことは、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストに結ばれることであって、割礼の有無は問題ではないことを知っていたからです。ですから、ユダヤ人でイエス・キリストを信じた者は、ユダヤ人のまま救われます。割礼の痕を消そうとする必要はありません。また、異邦人でイエス・キリストを信じた者は、異邦人のまま救われます。割礼を受ける必要はありません。神様の救いにあずかるには、割礼を受けているか、受けていないかは問題ではない。大切なのは「愛の実践を伴う信仰」であると、パウロは言うのです。「愛の実践を伴う信仰」とは、「愛によって働く信仰」のことです(口語訳、新改訳2017、聖書協会共同訳参照)。パウロは、ただ「信仰こそ大切です」とは記さずに、「愛によって働く信仰こそ大切です」と記しました。それは、パウロが、これからキリスト者の生活、キリスト者の倫理について記そうとしているからです。パウロは、5節で、「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」と記しました。その私たちを生かす信仰こそ、愛によって働く信仰であるのです。ここでパウロが言っていることは、主の兄弟ヤコブが言っていることと同じです。ヤコブは、「行いの伴わない信仰は死んだ信仰である」と言いました(ヤコブ2:26参照)。そして、パウロも、「愛によって働く信仰こそ大切である」と言うのです。イエス・キリストへの信仰は、私たちを愛の業へと駆り立てる信仰であるのです。イエス・キリストへの信仰を源として、私たちは愛の業を行う者とされています。ですから、パウロは、13節で、「愛によって互いに仕えなさい」と命じているのです。「あなたたちには、愛によって働く信仰が与えられている。だから、愛によって互いに仕えなさい」と命じるのです。さらにパウロは、14節で、「隣人を自分のように愛しなさい」というキリストの律法を記すのです(6:2参照)。
私たちは、律法を守って救われるのではありません。イエス・キリストを信じて、なお、自分の業によって救われると考えるならば、その人は、イエス・キリストと無縁な者となり、いただいた恵みを失ってしまいます。しかし、だからといって、私たちは律法を守らなくてよいのかと言えばそうではないのです。「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を守らなくてもよいかと言えば、そうではありません。なぜなら、イエス・キリストの聖霊によって与えられた信仰は、愛によって働く信仰であるからです。イエス・キリストの信仰が愛によって働く信仰であったように、私たちの信仰も愛によって働く信仰であるのです(2:20参照)。イエス・キリストを信じる私たちは、救われるために律法を守るのではなく、救われた者として、イエス・キリストを愛する愛から律法を守るのです。パウロは、少し先の22節で、「聖霊の結ぶ実は愛である」と記しています。聖霊の賜物である信仰は、愛という実を結ぶのです。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。このパウロの言葉は、イエス・キリストへの信仰によって義とされた私たちを、神と隣人とを愛する生活へと導く御言葉であるのです(義認と聖化を結びつける言葉)。