幸福とは何か 2023年6月11日(日曜 夕方の礼拝)
問い合わせ
幸福とは何か
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
コヘレトの言葉 6章1節~12節
聖書の言葉
6:1 太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た。
6:2 ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。
6:3 人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず/死んで葬儀もしてもらえなかったなら/流産の子の方が好運だとわたしは言おう。
6:4 その子は空しく生まれ、闇の中に去り/その名は闇に隠される。
6:5 太陽の光を見ることも知ることもない。しかし、その子の方が安らかだ。
6:6 たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから。
6:7 人の労苦はすべて口のためだが/それでも食欲は満たされない。
6:8 賢者は愚者にまさる益を得ようか。人生の歩き方を知っていることが/貧しい人に何かの益となろうか。
6:9 欲望が行きすぎるよりも/目の前に見えているものが良い。これまた空しく、風を追うようなことだ。
6:10 これまでに存在したものは/すべて、名前を与えられている。人間とは何ものなのかも知られている。自分より強いものを訴えることはできない。
6:11 言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとって、それが何になろう。
6:12 短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。コヘレトの言葉 6章1節~12節
メッセージ
関連する説教を探す
月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第6章1節から12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
第6章1節と2節をお読みします。
太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た。ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。
神様は賜物として、ある人に富と財宝と名誉を与えられました。この人は望むものをすべて手に入れたのです。しかし、神様はこの人にそれを享受することを許しませんでした。この人は、病気か事故によって死んでしまったのかも知れません。この人は、労苦して得た富を用いて楽しむことができませんでした。この人の富は他人が得ることになるのです。実際に、そのようなことがあったのでしょう。そのようなことを見て、コヘレトは、「これまた空しく、大いに不幸なことだ」と言うのです。
ここに記されている不幸なお話は、『ルカによる福音書』の第12章に記されている、イエス様がお語りになった「愚かな金持ちのたとえ」とそっくりですね。実際に聖書を開いて読みたいと思います。新約の131ページです。第12章13節から21節までをお読みします。
群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
この愚かな金持ちのように、コヘレトが語る不幸な人も、神様によって命を取られてしまい、富や財産を楽しむことができなかったのです。もちろん、コヘレトが語る不幸な人が富によって自分の命を確保することができると考える愚か者であったかは分かりません。しかし、イエス様は、コヘレトが見た不幸な男を題材として、「愚かな金持ちのたとえ」を創作されたと考えられるのです。イエス様は、「これまた空しい」と嘆くだけで終わることなく、神の前に豊かになることを教えられました。「神の前に豊かになること」とは、「神様の憐れみとして貧しい人々に施し、富を天に積むこと」であるのです(ルカ12:33参照)。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の1040ページです。
3節から6節までをお読みします。
人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず/死んで葬儀もしてもらえなかったなら/流産の子の方が好運だとわたしは言おう。その子は空しく生まれ、闇の中に去り/その名は闇に隠される。太陽の光を見ることも知ることもない。しかし、その子の方が安らかだ。たとえ、千年の長寿を二度繰り返しても、幸福でなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから。
イスラエルの人々は、たくさんの子供を持つことと長寿を全うすることを神様からの祝福と考えていました。その基準からすれば、百人の子を持ち、長寿を全うした人は、神様によって祝福された幸いな人であると言えます。しかし、コヘレトは、「長生きしながら、財産に満足もせず、死んで葬儀もしてもらえなかったなら、流産の子の方が好運だ」と言うのです。これと同じようなことが、第4章2節と3節にも記されていました。「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両方よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」。ここからお話したときにも申しましたが、ここでコヘレトは痛烈な皮肉を述べています。生まれて来なかった者の方が幸福だと言えるほどに、人々が虐げられている悪い世を嘆いているのです。長生きすることは、人類の夢でありました。現在の高齢化社会は、その夢の実現とも言えます。しかし、長生きすれば幸福であるかと言えば、必ずしもそのようには言えないわけです。人生の長さだけではなく、人生の質(クオリティー・オブ・ライフ)が大切であると言われます。コヘレトがここで問題としていることも人生の質の問題と言えるでしょう。コヘレトはたくさんの子供を持ち、長生きしても、財産に満足せず、死んで葬儀もしてもらえなかったなら、流産の子の方が好運だと言います。これも痛烈な皮肉ですね。そもそも、百人の子を持ちながら、死んで葬儀もしてもらえないことはあり得ないことです。子供にとって、親を葬ることは聖なる義務であったからです。それゆえ、コヘレトは、もしそのような人がいれば、流産の子の方が好運だと言うのです。
コヘレトは、6節でこう記します。「たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから」。『創世記』の第5章に、「アダムの系図の書」が記されています。その27節に、「メトシェラは969年生き、そして死んだ」と記されています。そのメトシェラの二倍、2000年の人生を送ったとしても、幸福でなかったら何になろう、とコヘレトは言うのです。すべての人は、同じ一つのところ、死者の世界に行くことになる。それゆえ、コヘレトは、生きている今を楽しむように、幸福に過ごすように勧めているのです。
7節から9節までをお読みします。
人の労苦はすべて口のためだが/それでも食欲は満たされない。賢者は愚者にまさる益を得ようか。人生の歩き方を知っていることが/貧しい人に何かの益となろうか。欲望が行きすぎるよりも/目の前に見えているものが良い。これまた空しく、風を追うようなことだ。
この地上で幸福に過ごすことを勧めたコヘレトは、「人の労苦はすべて口のためだが、それでも食欲は満たされない」と記します。コヘレトは、飲み食いを幸福な大切な要素であると考えています。第5章17節に記されていたように、コヘレトの見たところでは、「神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福でよいこと」であるのです。しかし、コヘレトは、その飲み食いの根源にある欲求、食欲は満たされないと言うのです。それは言い換えれば、飲み食いだけで人は幸福にはなれないということです。また、コヘレトは、「賢者は愚者にまさる益を得ようか」と記します。賢者とは知恵のある人のことです。イスラエルの伝統では、幸福になるには知恵が必要であると考えられていました。しかし、コヘレトは、そのような考えに疑問を呈します。人生の歩き方である知恵を身につけても、貧しい人は貧しいままであると言うのです。そこでコヘレトは、欲望が行きすぎるよりも、目の前に見えているもので満足するようにと諭すのです。食べることのできないご馳走よりも、食べることのできる食事を楽しむべきであるのです。コヘレトが、「これまた空しく、風を追うようなことだ」と記すのは、幸福を追い求めても、束の間で、無駄な努力に終わることが多いからです。人間が幸福に過ごすには、人間の努力だけでは確保することのできない、不確定な要素があるのです。
10節から12節までをお読みします。
これまでに存在したものは/すべて、名前を与えられている。人間とは何ものなのかも知られている。自分よりも強いものを訴えることはできない。言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとって、それが何になろう。短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのか教えてくれるものは、太陽の下にはいない。
コヘレトが、「これまで存在したものは/すべて、名前が与えられている」と記すとき、神様が名前を呼んで、無から有を造り出したことを言っているようです。『創世記』の第1章において、神が「光あれ」と言われると、光がありました。名前は、その本質と深く結びついています。「人間とは何ものなのかも知られている」。ここでの「人間」は、もとの言葉では「アダム」です。「アダム」は土(アダマ)に由来します。人は土(アダマ)の塵で形作られたゆえに、アダムと呼ばれるのです(創世2:7参照)。そして、アダムにおいて、罪を犯した全人類が、土の塵に返る者となったのです(創世3:19参照)。人間、アダムという名前に、人間が土の塵から造られ、土の塵に返ることが言い表されているのです。「自分よりも強いものを訴えることはできない」とありますが、ここでの「自分よりも強いもの」とは創造主である神様のことです。土の塵から造られ、土の塵へと返る人間(アダム)は、創造主である神を訴えることはできない。ただ大人しく受け入れることしかできない。そのように、コヘレトは言うのです。この地上で、幸福を追い求めるように勧めたコヘレトですが、結局、幸福は神様次第であり、そもそも人間は幸福が何であるのかを知らないと言うのです。幸福を追い求めているはずであるのに、幸福が分からない。欲望を満たせば幸福になれるかと言えば、欲望には切がないので、それだけでは幸福にはなれない。知恵を身につけたからと言って、幸福になれるわけでもない。人間は神様によって生かされている影のような存在であって、そもそも幸福とは何かを知らない。12節の最後に、「人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にいない」と記されています。この新共同訳聖書の翻訳ですと、死んだ後のことが言われているようですが、ここで言われていることは、この地上での将来のことであるようです。聖書協会共同訳は、「その後(のち)何が起こるかを、太陽の下、誰も人に告げることができない」と訳しています。人間は幸福とは何かを知らないだけではなく、明日、自分の身に何が起こるのか知らないのです。このことは、主の兄弟ヤコブが、指摘していることでもあります。今夕はそのところを読んで終わりたいと思います。新約の425ページです。第4章13節から17節までをお読みします。
よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたは自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。
ここでヤコブが教えていることは、「神様によって生かされている今日のうちに、神様の御心に適う善を行いなさい」ということです。そして、ここに、人間にとっての幸福が教えられていると言えます。神様に生かされている今日という日に、神様の御心に適う善を行うこと。それが人間にとっての幸福であるのです。そして、そのなすべき善の最たるものが、イエス・キリストを信じて、神様と和解し、神様と共に歩むことであるのです(ミカ6:8「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」参照)。