神に知られている恵み
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 ガラテヤの信徒への手紙 4章8節~11節
4:8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。
4:9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。
4:10 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。
4:11 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。ガラテヤの信徒への手紙 4章8節~11節
今朝は、『ガラテヤの信徒への手紙』の第4章8節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
この手紙の宛先人であるガラテヤの信徒たちは、ユダヤ人ではない、まことの神を知らない異邦人でした。その異邦人であるガラテヤの人たちが、パウロの福音宣教によって、イエス・キリストを信じて、まことの神を知る者となりました。では、まことの神を知らずにいたとき、彼らは霊的にはどのような状態にあったのでしょうか。パウロは、「あなたがたはかつて、神を知らず、もともと神でない神々に奴隷として仕えていた」と言います。「神でない神々」とは意味深長な言葉です。パウロはユダヤ人ですから、天地万物を造られた唯一の神を信じています。たとえ、神々と呼ばれるものがあっても、それは神ではない偽りの神々であり、偶像であることを知っているのです。かつて、ガラテヤの信徒たちは、神でない偽りの神々である偶像に奴隷として仕えていたのです。しかし、そのガラテヤの信徒たちが、パウロの宣べ伝えたイエス・キリストの福音を受け入れて、まことの神を知る者となりました。まことの神を知ることによって、神でない神々の支配から解放されたのです。
9節でパウロは、「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに」と記しています。「知っている」とはただ知識を持っていることではなく、「交わりの中で人格的に知っている」ということです。イエス・キリストの御名によって洗礼を受けたガラテヤの信徒たちは、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を与えられて、神の子とされました。そのような父と子との親しい交わりの中で、神様を知る者とされたのです。けれども、そのことに先立って、実は、神様がガラテヤの信徒たちを知っていてくださったのです。少し先の13節にあるように、パウロは体が弱くなったことがきっかけで、ガラテヤの人たちに、イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そのとき、誰もがパウロが語るイエス・キリストの福音を受け入れたわけではありません。パウロから福音を聞いても受け入れない人たちの方が多かったと思います。しかし、何人かは、パウロが語ったイエス・キリストの福音を受け入れて、まことの神を知る者となったのです。なぜでしょうか。それは、神様がその人を知っていてくださったからです。『エフェソの信徒への手紙』の第1章の御言葉で言えば、天地創造の前から、神様はその人をイエス・キリストにあって選んでくださっていたからです。ユダヤ人ではない異邦人であった私たちも、かつては神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、その私たちがイエス・キリストの福音を受け入れて、まことの神様を知ることができました。それは、神様が天地創造の前から、イエス・キリストにあって、私たちを選んでくださっていたからであるのです。
今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているガラテヤの信徒たちに、パウロはこう問います。「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」。ガラテヤの信徒たちは、偽教師たちに惑わされて、イエス・キリストを信じていながら、律法を守って救われようとしていました。しかし、「そのようなことは、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えることである」とパウロは言うのです。「世を支配する諸霊」(ストイケイア)という言葉は、3節にも記されていました。「同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」。8節に、「神でない神々に奴隷として仕えていた」とありましたが、その背後に働いているのも、世を支配する諸霊であります。ガラテヤの信徒たちは、偽教師たちに惑わされて、律法が定める、いろいろな日、月、時節、年などを守っていました。しかし、パウロは大胆にも、それは「無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りすることである」と言うのです。イエス・キリストは、いろいろな日、月、時節、年などの掟から私たちを解放してくださいました。そうであれば、それが神の掟であったとしても、いろいろな日、月、時節、年などを守るように強制する力は、世を支配する諸霊によるものであるのです。世を支配する諸霊とは、神に敵対する悪霊のことです。ここで思い起こしたいのは、荒れ野の誘惑において、悪魔が神の言葉を用いて、イエス様を誘惑したということです(マタイ4:6参照)。世を支配する諸霊は、聖書に記されているいろいろな日、月、時節、年などの掟を用いて、再びガラテヤの信徒たちを奴隷にしようとしているのです。
ここで、ウェストミンスター信仰告白から、旧約時代に与えられた律法をどのように理解したらよいのかを確認したいと思います。ウェストミンスター信仰告白の第19章は「神の律法について」告白しています。そこを見ると、律法は大きく3つに分類できます。一つは動物犠牲に代表される儀式律法です。二つ目は、政治的統一体としてのイスラエルの民に与えられた司法的律法です。三つ目は、十戒の中に要約的に示されている道徳律法です。律法は、儀式律法と司法的律法と道徳律法の大きく三つに分類できる。そのことを念頭において、ウェストミンスター信仰告白の第19章の3節から5節までを読みます(村川満・袴田康裕訳)。
[3]一般に道徳律法と呼ばれるこの律法のほかに、神は未成年の教会としてのイスラエルの民に、儀式律法を与えることをよしとされた。これはさまざまな予型的規定を内容としているが、それらの規定の一部は、キリストとその恵みの賜物・その行為・苦難・利益をあらかじめ表す礼拝の規定であり、また一部は、道徳的義務についてのさまざまの教えを提示するものであった。これらの儀式律法はすべて、今、新約の下では廃止されている。
[4]政治的統一体としてのイスラエルの民に、神はまた、さまざまの司法的律法を与えられたが、それらは、その民の国家とともに無効となった。そこで、それらは今、そこに含まれている一般的公正さが要求する以上のことを他のいかなる民にも義務づけることはない。
[5]道徳律法は、義とされた者も他の者も同様に、すべての人々に、それに服従することを、じっさい永久に義務づけている。そしてそれは、その律法に含まれている内容のゆえばかりでなく、それをお与えになった創造者なる神の権威のゆえである。じっさいキリストもまた、福音においてこの義務を決して解消せず、むしろ大いに強化しておられるのである。
3節によれば、儀式律法はすべて、今、新約の下では廃止されています。『ヘブライ人への手紙』に記されているように、動物犠牲に代表される儀式律法は、イエス・キリストにおいて廃止されたのです(ヘブライ7:18、10:9参照)。
4節によれば、政治的統一体としてのイスラエルの民に与えられた司法的律法は、その民の国家とともに無効となりました。神の民であるイスラエルにとって、律法は国の法律でもあったのです。ですから、国家が消滅することによって、司法的律法も無効となったのです。ただし、司法的律法に含まれている一般的公正さは有効であります。そして、この一般的公正さは、5節の道徳律法と大変近いものです。司法的律法には、殺人や盗みを禁じる掟があります。では、殺人や盗みを禁じる掟は、今、無効であるかと言えばそうではありません。その司法的律法に含まれている一般的公正さは有効であるのです。
5節によれば、十戒に代表される道徳律法は、永久に有効であります。キリスト者は救われた者としての感謝の生活の指針として、道徳律法をいよいよ守ることが求められているのです。
今朝の御言葉で、パウロが、「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」と記すとき、それは聖書に記されている安息日や新月祭や過越の祭りや安息年のことです。このような掟に、私たちは縛られていません。ウェストミンスター信仰基準は、週の初めの日である主の日をキリスト教安息日であると告白しています。しかしそうは言っても、私たちは旧約の掟に記されているとおりに安息日を守っていません。旧約の掟によれば、安息日はいかなる労働も禁じられていました。「安息日に働く者は死刑に処せられる」とさえ記されています(出エジプト35:2参照)。また、安息日には「火をたいてはならない」と記されています(出エジプト35:3)。ですから、ユダヤ人は安息日の前の日に食事の準備をしたのです。しかし、私たちはその掟のとおりに安息日を守っていません。宗教改革者のジャン・カルヴァンは、安息日を儀式律法として理解しています。カルヴァンは、『コロサイの信徒への手紙』の第2章16節と17節の御言葉を根拠にして、儀式律法としての安息日は廃止されたと言うのです。『コロサイの信徒への手紙』の第2章16節と17節をお読みします。新約の370ページです。
だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影に過ぎず、実体はキリストにあります。
このパウロの言葉を根拠にして、カルヴァンは、儀式律法としての安息日は廃止されたというのです。しかし、カルヴァンは、安息日には儀式律法で捉え尽くすことができない面があると言います。カルヴァンは、神が安息日を①霊的安息を形に表すため。②教会の規律のため。③仕え人の慰めのためであると言うのです。そのことを念頭に置いて、『ジュネーブ教会信仰問答』の問168から問171までを読みます(外山八郎訳)。
問168 では神はわれわれに、週に一日、あらゆる仕事を禁じられるのですか。
答 この戒めは、幾らか特殊な考慮を要します。なぜならば、安息日を守ることは、古い律法の儀式の一部であるからであります。従って、イエス・キリストが来られたことによって、それは廃止されたのであります。
問169 ではこの戒めは全くユダヤ人に属し、旧約聖書の時代のために与えられたものであるというのですか。
答 それが儀式である限りはそうであります。
問170 それでは、儀式のほかに何かあるのですか。
答 それは三つの理由から定められております。
問171 どのようなことですか。
答 霊的安息を形に表すため。教会の規律のため。仕え人の慰めのためであります。
私たちは、主の日をキリスト教安息日として過ごしています。しかし、主の日をどのようにして過ごしているかと言えば、ウェストミンスター信仰基準よりも、カルヴァンの理解に近いのではないかと思います。そして、そのことは、今朝の御言葉で、パウロが教えていることでもあるのです。もし、イエス・キリストを信じて救われた私たちが安息日を守って救われようとするならば、それは、無力で頼りにならない諸霊の下に逆戻りすることになるのです。「無力で頼りにならない諸霊」とありますが、無力で頼りにならない点においては、律法も同じであるのです。律法は命を与えることができない点において無力で頼りにならないのです。
私たちが週の初めの日を主の日と呼び、教会に集い、礼拝をささげているのは、主イエス・キリストが週の初めの日に復活され、弟子たちに現れてくださったからです。復活されたイエス・キリストが、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と約束してくださったからです(マタイ18:20)。使徒パウロは、「安息日はやがて来るものの影に過ぎず、実体はキリストにある」と言いました(コロサイ2:16、17参照)。それゆえ、イエス・キリストは、「人の子は安息日の主である」と言われたのです(マルコ2:28)。私たちは、安息日の祝福を、安息日の主であるイエス・キリストとの交わりにおいて、いただくことができるのです(安息日が週の終わりの日から週の初めの日に変わったことの意味!)。それゆえ、主イエス・キリストを礼拝する「主の日」は、私たちにとっての「安息日」であるのです(私たちは安息日をも主イエス・キリストの御手からいただく)。