奴隷ではなく神の子 2023年6月04日(日曜 朝の礼拝)
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奴隷ではなく神の子
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- 村田寿和 牧師
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ガラテヤの信徒への手紙 4章1節~7節
聖書の言葉
4:1 つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、
4:2 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。
4:3 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。
4:4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。
4:5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。
4:6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。ガラテヤの信徒への手紙 4章1節~7節
メッセージ
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前回(5月14日)学んだ、第3章29節で、パウロはこう記していました。「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。パウロは、「イエス・キリストの名によって洗礼を受けたあなたがたは、キリストのものとされており、アブラハムの子孫であり、約束による相続人である」と記しました。その「相続人」という言葉を受けて、パウロは今朝の御言葉を記しています。
第4章1節から3節までをお読みします。
つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても、僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。
パウロは、第3章15節以下で、分かりやすいように、人間の遺言のことを記しました。ここでパウロは、再び人間社会の例を記します。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても、僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた日まで後見人や管理人の下にいます。それと同じように、私たちも未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていたと言うのです。「私たちが未成年であったとき」とは、「私たちがイエス・キリストを信じる前のとき」のことです。また、「世を支配する諸霊」とは、これまでの文脈から言えば「律法」のことです。第3章24節で、パウロは、律法を「キリストのもとへ導く養育係」に譬えました。そうであれば、第4章2節の「後見人や管理人」も、律法のことであります。ですから、3節は、「同様にわたしたちも、未成年であったときは、律法に奴隷として仕えていました」と記すべきところです。しかし、パウロは、「同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」と記すのです。なぜでしょうか。それは、この「わたしたち」が「ギリシア人もユダヤ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない、キリスト・イエスにおいて一つとされている私たち」であるからです(3:28参照)。実際、異邦人でイエス・キリストを信じていた人たちにとって、「世を支配する諸霊」という言葉は分かりやすかったと思います。当時の人々は、世界がもろもろの霊によって支配されていると考えていました。これは、当時の人々の迷信ではなく、聖書が教える霊的な現実であります。今も、目には見えませんが、この世界にはもろもろの霊の力が働いているのです。そのもろもろの霊の働きによって、人間は神に逆らい、過ちと罪を犯して歩んでいるのです(エフェソ2:2参照)。イエス・キリストを信じる前は、私たちも世を支配する諸霊に奴隷として仕えていたのです。
4節と5節をお読みします。
しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。
ここでの「時」は「神の救いの計画が実現する時」のことです。時が満ちると、神様は御子を女から生まれた者として遣わしてくださいました。天地創造の前から神と共におられた御子を、聖霊によっておとめマリアの胎に宿らせて、人として遣わしてくださったのです。神の御子がおとめマリアから生まれることによって、罪を別にして私たちと同じ人となってくださったのです。創造主である神の御子が、被造物である人となってくださった。ここに、これ以上ないへりくだりがあるのです。また、神様は御子を律法の下に生まれた者として遣わしてくださいました。律法の制定者である神の御子が律法に従う義務を負う者として生まれてくださったのです。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子とするためであったのです。ここで思い出すべきは、第3章13節の御言葉です。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」。神様がその御子を女から、しかも律法の下に生まれた者として遣わしてくださったのは、十字架の呪いの死に引き渡すためであったのです。そのようにして、神様は私たちを、律法の支配から贖い出して、神の子としての身分を授けてくださったのです。新共同訳聖書は「わたしたちを神の子となさるためでした」と訳していますが、聖書協会共同訳は「わたしたちに子としての身分をさずけるためでした」と翻訳しています(元の言葉は「フィオセーシア」で、「(養子として迎えられた)子たる身分、養子とすること」を意味する)。本来、神の子はイエス・キリストただお一人です。しかし、私たちはイエス・キリストに結ばれて、神の子として身分を授けられたのです(ヨハネ1:12参照)。神様は、イエス・キリストを信じる者を正しい者として受け入れてくださるだけではなく、神の子として受け入れてくださるのです。イエス・キリストを信じて神の御前に正しい者と認められて、神の子として受け入れられること。これこそ、神様がアブラハムに約束されていた祝福であるのです。神様はアブラハムに、「わたしは、・・・あなたとあなたの子孫の神となる」と約束されました(創世17:7参照)。その祝福は、イエス・キリストを信じて、神の御前に正しい者とされ、神の子として受け入れられることによって実現するのです。その祝福を与えるために、神は御子を女から、しかも律法の下に生まれた者として遣わしてくださったのです。
6節と7節をお読みします。
あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。
イエス・キリストを信じる私たちが神の子であるとどうして言えるのか。その証拠は何か。パウロは、「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、私たちの心に送ってくださった事実から分かる」と記します。ここで「叫ぶ」と訳されている言葉(クラゾー)は「呼ぶ」とも訳せます(ローマ8:15「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」参照)。私たちは、神様を「天の父なる神様」と呼んで、祈ります。なぜ、私たちは「天の父なる神様」と呼んでお祈りすることができるのか。それは、神様が「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を、私たちの心に遣わしてくださったからです。「送ってくださった」と訳されている言葉(エクスアポステロー)は4節の「お遣わしになりました」と同じ言葉です。神様は御子を遣わしてくださっただけではなく、御子の霊をも遣わしてくださったのです。父なる神様は、イエス・キリストを十字架の死から三日目に復活させられ、天へと上げられ、御自分の右の座に着かせられました。そのイエス・キリストを通して、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を私たち一人一人の心に遣わしてくださったのです。また、このようにも言えます。「天へと上げられたイエス・キリストは、「アッバ、父よ」と叫ぶ御自分の霊を、私たち一人一人に遣わしてくださった」と。「アッバ」とは、イエス様がお話しになったアラム語です。イエス様は、十字架につけられる前の夜、ゲツセマネで、こう祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。「アッバ」とは、家庭内で父親に対して用いられた言葉です。以前、私は、「『アッバ』という言葉は幼子が父親に対して用いる言葉である。日本語に訳すと『おとうちゃん』とか『パパ』となる」と説明しました。しかし、最近の研究では、「『アッバ』という言葉は、『パパ』といった子供じみた表現ではなく、大人が父親への呼びかけとして用いた、厳粛で、信頼のこもった表現であった」と言われています。 成人した息子や娘も「アッバ」という言葉を用いていたのです。けれども、イエス様の時代、「アッバ」という言葉を、神様に対して用いた人はいませんでした。しかし、イエス様は、神の子としての全幅の信頼を持って、「アッバ、父よ」と祈られたのです。そして、イエス様は、弟子たちにも、「アッバ、父よ」と祈るように教えられたのです。『ルカによる福音書』の第11章に、イエス様が弟子たちに、主の祈りを教えられたことが記されています。イエス様は弟子たちに、「父よ、御名が崇められますように」祈りなさいと教えられました。イエス様は、私たちにも神様を「アッバ、父よ」と呼びかけて、祈るようにと教えられたのです。私たちは家庭で父親を呼ぶ言葉で、神様に呼びかけることができるのです。父親のことを「お父さん」と呼ぶ人は、神様のことを「天のお父さん」と呼びかけることができるのです。私たちは、イエス・キリストの聖霊のお働きによって、全幅の信頼をもって、「天のお父さん」と祈る者とされているのです。
イエス・キリストを信じて神の子とされた私たちには、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子イエス・キリストの霊が与えられています。ですから、私たちはもはや奴隷ではなく、神の子であるのです。神様が御子イエス・キリストを遣わしてくださったことにより、定められた時は満たされました(マルコ1:15参照)。神様から「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を遣わしていただいた私たち一人一人は、もはや世を支配する諸霊の奴隷ではなく、神の子であるのです。神の子であれば、私たちは神によって立てられた相続人でもあるのです。
私たちは、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を与えられ、神の子とされ、相続人とされています。私たちは神様がアブラハムに約束された祝福を受け継ぐ者たちとされているのです。今朝は最後に、私たちが今既に受け継いでいる祝福を、ウェストミンスター小教理問答の問32と問36から確認したいと思います。
問32 有効召命されている者は、この世で、どんな祝福を分け与えられますか。
答 有効召命されている者は、この世で、義認、子とされること、聖化、この世でそれらに伴い、あるいはそれらから流れ出るいくつもの祝福を分け与えられます。
問36 この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、何ですか。
答 この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終わりまで恵みのうちに堅忍することです。
また、私たちが将来受け継ぐことになる祝福を、問37と問38から確認したいと思います。
問37 信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光に入ります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。
問38 信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受けいれられ無罪と宣告され、永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます。
ここで一つ指摘しておきたいことは、私たちキリスト者は、死の時も祝福を受けることができるということです。私たちにとって死は罪の刑罰ではありません。私たちにとって死は天国の入り口であるのです(ハイデルベルク信仰問答42問参照)。私たちは死を通して、イエス・キリストのおられる天へと召されるのです。それは、私たちが罪の奴隷ではなく、神の子とされているからなのです。
イエス・キリストを信じる私たちが受け継ぐ祝福には、すでに地上であずかっている祝福と将来あずかることになる祝福があります。私たちは、この地上で義認、子とされること、聖化という祝福にあずかっています。しかし、私たちは罪が残る者であり、その祝福は完全であるとは言えません。私たちが完全な祝福にあずかるのは、イエス・キリストの再臨によって到来する「新しい天と新しい地」においてであるのです。神様はアブラハムとその子孫に、世界を受け継がせると約束されました(ローマ4:16参照)。その約束の実現として、イエス・キリストを信じる私たちは、『ヨハネの黙示録』の第21章に記されている「新しい天と新しい地」を受け継ぐことになるのです(ローマ8:18~25参照)。私たちは、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない新しい天と新しい地において、父なる神様と主イエス・キリストとの親しい交わりに、永遠にあずかる者となるのです。