神の賜物としての人生 2023年5月14日(日曜 夕方の礼拝)
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神の賜物としての人生
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- 村田寿和 牧師
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コヘレトの言葉 5章7節~19節
聖書の言葉
5:7 貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。なぜなら/身分の高い者が、身分の高い者をかばい/更に身分の高い者が両者をかばうのだから。
5:8 何にもまして国にとって益となるのは/王が耕地を大切にすること。
5:9 銀を愛する者は銀に飽くことなく/富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。
5:10 財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。
5:11 働く者の眠りは快い/満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。
5:12 太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。
5:13 下手に使ってその富を失い/息子が生まれても、彼の手には何もない。
5:14 人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。
5:15 これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。
5:16 その一生の間、食べることさえ闇の中。悩み、患い、怒りは尽きない。
5:17 見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。
5:18 神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。
5:19 彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。
コヘレトの言葉 5章7節~19節
メッセージ
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月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第5章7節から19節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
7節と8節をお読みします。
貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。なぜなら、身分の高い者が、身分の高い者をかばい/更に身分の高い者が両者をかばうのだから。何にもまして国にとって益となるのは/王が耕地を大切にすること。
「貧しい人が虐げられている」ことについては、第4章1節に記されていました。「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない」。また、「不正な裁き、正義の欠如」については、第3章16節に記されていました。「太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを」。コヘレトは、「貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如がこの国にあるのを見ても、驚くな」と記します。そして、コヘレトは、その原因を、身分の高い者がさらに身分の高い者をかばう行政制度(官僚制度)にあると言うのです。身分の高い者は、貧しい人を虐げることによって、また、不正な裁きによって利益を得ます。そして、更に身分の高い者はそのことに目をつぶることによって、その利益にあずかるのです。そのような腐敗した行政制度(官僚制度)によって、国が営まれている。それゆえに、「貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな」とコヘレトは言うのです。ここでもコヘレトは、何か運動を起こして、社会を変えようとはしません。コヘレトは「見る」だけです。コヘレトにとって、身分の高い者が、さらに身分の高い者をかばう腐敗した行政制度(官僚制度)は、受け入れざるを得ない現実であるのです。しかし、そのコヘレトが、8節で、こう記します。「何にもまして国にとって益となるのは、王が耕地を大切にすること」。コヘレトの時代、紀元前3世紀は、貨幣が流通した時代でありました。貨幣が流通すると、商売が盛んになります。コヘレトがなりすましたソロモン王は、国際貿易によって巨万の富を築きました。しかし、コヘレトは、「国にとって益となるのは、耕地を大切にする王である」と言うのです。コヘレトは、農業こそ、国の最も基本的な産業であると考えているのです。現代の日本でも、食料自給率の観点から、農業が保護されています。コヘレトは、王が農業を重んじることによって、国民に食料が行き渡ると考えていたようです(歴代下26:10「シェフェラや平地には多数の家畜が飼われ、山地や肥沃な地には農夫やぶどう作りがいた。ウジヤが農耕を愛したからである」参照)。
9節から16節までをお読みします。
銀を愛する者は銀に飽くことなく/富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。働く者の眠りは快い/満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。下手に使ってその富を失い/息子が生まれても、彼の手には何もない。人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。その一生の間、食べることさえ闇の中。悩み、患い、怒りは尽きない。
9節から16節には、「富を愛する者」について記されています。富を愛する者とは、富を得ることを人生の目的としている人のことです。コヘレトは、富を愛する者の人生を、風を追って労苦するような空しい人生であると語ります。なぜ、富を愛する者の人生は、空しい人生なのでしょうか。9節に、「銀を愛する者は銀に飽くことなく/富を愛する者は収益に満足しない」と記されています。「銀」とは貨幣、お金のことです。お金を愛する人はお金を際限なく欲しがります。また、富を愛する人は、際限なく収益を求めます。その欲望にはきりがなく、いつまでも満足しないのです。それゆえ、コヘレトは、「これまた空しいことだ」と言うのです。10節に、「財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない」と記されています。「それを食らう者」とは、財産を目当てに集まってくる親族や友人たちのことです。「財産が増えても、自分のために使うことはできず、親族や友人たちが使うのを見ているだけである」と言うのです。11節に、「働く者の眠りは快い。満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない」と記されています。「飢えていても」とありますが、聖書協会共同訳は「少ししか食べなくても」と訳しています。働く者は体を動かしているので、食べる量にかかわらず、ぐっすりと眠れるのです。しかし、金持ちは満腹していても眠れないのです。金持ちは、富についての心配から眠れないのです。そして、実際、富は目減りし、無くなってしまうものであるのです。12節に、「太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている」と記されています。これは利益の上がらない商売、営業を続ければ赤字だけが増えていくような商売のことを言っているようです。また、13節に、「下手に使ってその富を失い」とありますが、これは利益の見込めない投資に手を出したことを言っているようです。このように、富は、目減りし、失われてしまうのです。富を愛する者は、労苦して富を蓄えました。しかし、その富は親族や友人たちが使ってしまいます。また、富のことが心配で夜も眠れません。富の管理は難しく、損をして、ついには失ってしまうのです。息子が生まれても、遺産として残すものは何もありません。そもそも、人は、死ぬ時、財産を持って行くことができないのです。たとえ、富をよく管理して、増やし続けたとしても、死によって、すべては空しいものとなるのです。人は来た時と同じように、行かざるをえない。この厳粛な事実のゆえに、コヘレトは、「富を愛する者の人生は、風を追って労苦するような空しい人生である」と言うのです。富を愛する人生、富を蓄えることを目標とする人生は、喜びであるはずの食事さえも台無しにしてしまいます。食事だけではなく、その人の人生を悩みや患いや怒りに満ちたものとしてしまうのです。「富を愛する者の一生は、食べることさえ闇の中。悩み、患い、怒りは尽きない」とコヘレトは言うのです。
17節から19節までをお読みします。
見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。
ここには、コヘレトの幸福論が記されています。コヘレトは「神」について何度も記しています。「富を愛する者」は、富を神とする者でありました。イエス・キリストは、弟子たちに、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。・・・あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われました(マタイ6:24)。「富を愛する者」は神ではなく、富に仕える者であるのです。しかし、コヘレトは神に仕える者として、神からの賜物である富について記すのです。コヘレトは、「神に与えられた短い人生の日々」と記します。やがて人は、裸で母の胎を出たように裸で帰らねばなりません。そのことを受けとめつつ、コヘレトは、「神に与えられた短い人生の日々を楽しもう」と言うのです。「神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ」とコヘレトは言うのです。ここで、「満足」について語られていることに注意したいと思います。富を愛する者は満足することがありませんでした。しかし、神様を愛する者は、満足することができるのです。なぜなら、労苦した結果のすべてを神様の御手からいただくからです。富や財宝についても同じことが言えます。神様を愛する人は、労苦の結果である富を神様の御手から受け取り、自らの分をわきまえて、人と比較することなく、楽しむことができるのです。私たちが、働いて得た収入の中から献金をささげているのは、そのためであるのですね。私たちは、富を愛する者としてではなく、神を愛する者として、神様から与えられた富の中から、感謝して献金をささげているのです。神様は、私たちの手に働く力を与え、その労働の実りとして富を与えてくださいます(申命8:18参照)。そればかりか、その富を楽しむ心をも与えてくださいます。私たちの人生の一日一日が神様からの賜物(無償のプレゼント)であるのです。私たちは神の恵みによって一日一日を生かされているのです。「そのように考える人は、その人生の日々をあまり思い返すことはない」とコヘレトは言います。これは「ああしとけば良かった」「ああしなければ良かった」と言った人生の後悔のことでしょう。私たちにも、そのような後悔があると思います。しかし、そのことをも、神様の御手の内にあったと信じるとき、私たちはくよくよ思い返すことが少なくなるのです。コヘレトは、その理由を、「神がその心に喜びを与えられるのだから」と言います。神様は、私たちにいつも新しい一日を備えてくださいます。そして、私たちの心に喜びを与えてくださるのです。神様は、新しい一日の喜びによって、私たちが過去ではなく、今を生きるようにしてくださるのです。