キリストにあって神の子 2023年5月14日(日曜 朝の礼拝)

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キリストにあって神の子

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ガラテヤの信徒への手紙 3章21節~29節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。
3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。ガラテヤの信徒への手紙 3章21節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、「神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にしたり、その約束を反故にすることはない」ことを御一緒に学びました(3:17)。神様がアブラハムとその子孫であるイエス・キリストに告げられた約束は、律法によって無効になることはないのです。すなわち、アブラハムが信仰によって義とされたように、すべての人が信仰によって義とされ、神の祝福を受け継ぐ者となるのです。神様の祝福を受け継ぐことは、神様の恵みの契約に由来するものであるのです。では、律法とはいったい何なのでしょうか。パウロは、19節で、こう記します。「律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです」。パウロによれば、律法は救いの手段として与えられたのではありません。救いは神の約束を信じる信仰によって、恵みとして与えられるのです。律法は、神の約束を実現するイエス・キリストが来られるときまで、人間の罪を明らかにするために付け加えられたものに過ぎないのです。今朝の御言葉はその続きとなります。

 21節と22節をお読みします。

 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

 パウロは、「律法は神の約束に反するものなのでしょうか」と問うています。律法は神の約束に対立するものなのか。律法は神の約束に矛盾するものなのか。そのように問うて、「決してそうではない」と断固として否定します。ある研究者は、「反するもの」を「張り合うもの」と翻訳しています(佐竹明)。「張り合うもの」と訳すと、神の祝福に至る道として、約束と律法が張り合っている。「神は祝福に至る道として、約束と律法の二つの道を備えられたのか」という問いを想定していることになります。そして、「張り合うもの」と訳した方が、あとの文書とうまく繋がるのです。「万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう」。「万一」とあるように、これは事実に反する仮定の話です。ここでパウロが言いたいことは、「律法は人に律法を守ることができる力を与えることができない」ということです。「掟を守れば命を得ることができる」と言われても、その掟が掟を守らせる力を与えてくれるわけではないのです。「全身全霊であなたの神を愛せよ」という掟(文字)は、全身全霊で神を愛する愛を与えてくれるわけではないのです(二コリント3:6「文字は殺しますが、霊は生かします」参照)。律法は、神様から与えられた善いものであります。しかし、その善いものが、私たちに呪いをもたらすものとなりました。それは、私たちがはじめの人アダムにあって創造された状態から堕落しており、罪をもって生まれてくるからなのです。それゆえ、律法は私たち人間を生かすことができないのです。そればかりか、「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」。ここでの「聖書」は「律法」のことでしょう。当時のユダヤ人たちは、律法を罪から守ってくれる囲いのように考えていました。しかし、パウロは、律法によって、すべての人が罪の支配下に閉じ込められたと言うのです。そして、それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって信じる人々に与えられるようになるためでした。律法は神の約束に反するものではなく、人間が罪の支配下にあることを明らかにし、神の約束の実現へと人間の心を向けさせる役割を担っているのです。

 23節から25節までをお読みします。

 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。

 23節の「信仰が現れる前」の「信仰」は、22節の「イエス・キリストへの信仰」のことです。「イエス・キリストへの信仰」は「イエス・キリストの信仰」とも訳すことができます。よって、この「信仰」は「イエス・キリスト」を指していると読むことができます。イエス・キリストが来られる前、私たちは律法の下で監視され、イエス・キリストが啓示されるまで律法の支配下に閉じ込められていました。ちなみに、23節と25節に「信仰が現れる」とありますが、これは「信仰が来た」と訳せます。イエス・キリストが来たこととイエス・キリストが啓示されることは、必ずしも同時とは言えません。パウロのことを考えてみましても、パウロがイエス・キリストの啓示を受けたのは、イエス・キリストが来て、十字架の救いの御業を成し遂げられた後でありました。私たちのことを考えるならば、イエス・キリストが来られたのは、私たちが生まれる2000年前のことです。しかし、私たちがイエス・キリストの啓示を受けたのは、私たちの人生においてであって、数十年前のことです。イエス・キリストは、神の掟を完全に守って、律法の呪いの死を死なれることにより、ご自分の民を律法の支配から解放してくださいました。それは、およそ2000年前に実現した神の約束の出来事です。しかし、そのことが、私たち一人一人にとって有効となったのは、私たちが聖霊と御言葉によって、イエス・キリストの啓示を受けたことによるのです。

 パウロは、「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへと導く養育係となったのです」と記します。養育係とは、親に代わって子供の世話をしたり、子供を躾ける者のことです。そのような養育係として、神様は律法を与えられたのです。律法は、私たちを神の民として躾け、キリストへと導く養育係であるのです。では、律法はどのようにして、私たちをキリストへと導いてくれるのでしょうか。それは、私たちに罪を自覚させて、罪からの救いを求めさせることによってです。私たちは自分で自分を救うことのできない罪人であることを律法によって知らされるのです。そのようにして、律法は私たちを救い主イエス・キリストのもとへと導いてくれるのです。私たちは律法という養育係に導かれてイエス・キリストを信じて、信仰によって義とされたのです。

 パウロが、「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係のもとにはいません」と記すとき、ガラテヤの教会を惑わせていた偽教師たちのことを念頭においていたと思います。偽教師たちは、イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守らなければ救われないと教えていました。しかし、パウロが記してきたように、律法は救いの手段として与えられたのではなく、救い主イエス・キリストへと導く養育係として与えられたのです。イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守らなければ救われないのであれば、私たちは依然として、養育係の支配下にいることになります。しかし、イエス・キリストが来られ、イエス・キリストが啓示されたので、私たちは律法の支配下にはもういないのです。律法の呪いから贖い出されて、神の祝福に生きる者とされているのです。そして、それはただイエス・キリストへの信仰によるのです。

 26節から29節までをお読みします。

 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

 パウロは、26節で「あなたがたは皆」と語りかけます。この「あなたがた皆」は、ユダヤ人から罪人と呼ばれていた異邦人であるガラテヤの信徒たちのことです。また、私たちのことでもあります。私たちもユダヤ人ではありません。異邦人でイエス・キリストを信じた者たちです。しかし、その私たちが皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子とされているのです。本来、神の子は、イエス・キリストただお一人です。しかし、そのイエス・キリストに、信仰によって結ばれることによって、私たちは皆、神の子とされているのです(ハイデルベルク信仰問答33問参照)。神様は、イエス・キリストを信じる者を正しい者として受け入れてくださるだけではなく、神の子として受け入れてくださるのです。

 イエス・キリストの名によって洗礼を受けた私たちは、イエス・キリストに結ばれて神の子とされています。イエス・キリストの名によって洗礼を受ける。それはイエス・キリストに結ばれる神秘的な体験です。イエス・キリストの名によって洗礼を受けたことにより、私たちはイエス・キリストの死と復活にあずかるものとなったのです(ローマ6章参照)。イエス・キリストの名によって洗礼を受けた者たちは皆、キリストを着ている。キリストが私たちの体を覆う衣服となるのです。それゆえ、神は、私たちをキリストに結ばれた神の子として受け入れてくださるのです。私たち教会の交わりはキリストを着ている神の子供たちの交わりであります。その交わりにおいて、もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もないのです。民族の違い、社会身分の違い、性別の違いを越えて、私たちは皆、イエス・キリストにあって一つとされているのです。これは驚くべきことです。律法の下で監視されていたとき、ユダヤ人は異邦人と交わりを持ちませんでした。律法はユダヤ人が異邦人と交わりを持つことを禁じていたのです(その最たるものが食物規定)。しかし、イエス・キリストが来られた今は養育係の下にいませんので、ユダヤ人も異邦人もなく、神の子として交わりを持つことができるのです。ここで注意したいことは、イエス・キリストを信じたからと言って、違いがなくなるわけではないということです。ユダヤ人はユダヤ人であり、ギリシア人はギリシア人です。しかし、その違いがイエス・キリストに結ばれた神の子としての交わりを壊してしまうことはないということです。言い方を変えれば、あらゆる違いはあっても、等しく神の恵みが与えられている。あらゆる違いがあっても、イエス・キリストを着ている私たちは、神の子とされているということです。

 パウロが「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と記すとき、この「一つ」は「一人」とも訳すことができます。このところを「一人」と訳すと、「教会はイエス・キリストを頭とする体である」というパウロの教えに通じていることが分かります(エフェソ1:22、23参照)。イエス・キリストの名によって洗礼を受けた私たちは、イエス・キリストの死と復活にあずかる者となりました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語ることができる者とされているのです(2:20)。そうであれば、私たちはアブラハムの子孫であり、約束による相続人であるのです。「アブラハムの子孫」の「子孫」は単数形で記されています。パウロは、16節で、「この『子孫』とは、キリストのことです」と記しました。しかし、29節ではイエス・キリストにある一人の人である私たちのことを「アブラハムの子孫」と呼んでいるのです(集合人格概念)。といいますのも、「約束による相続人」の「相続人」は複数形で記されているからです。アブラハムの子孫であるイエス・キリストに結ばれた私たちは、約束の相続人たちとされているのです。私たちは神の約束の相続人として、神の子とされ、神の聖霊を与えられて、もろもろの祝福にあずかっているのです。

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