信仰によって生きる人々 2023年4月30日(日曜 朝の礼拝)

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信仰によって生きる人々

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ガラテヤの信徒への手紙 3章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。
3:2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。
3:3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。
3:4 あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。
3:5 あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。
3:6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。
3:7 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。
3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。
3:9 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。
3:10 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
3:11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
3:12 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。
3:13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
3:14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。ガラテヤの信徒への手紙 3章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」という福音の真理について御一緒に学びました。イエス・キリストが私たちに代わって、律法の呪いの死を死んでくださった以上、私たちは律法から解放されています。私たちは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によって、神に対して生きる者とされているのです。その私たちが、律法を守ることによって、神の御前に義とされようとするならば、それは神の恵みであるイエス・キリストの命を無駄にしてしまうことになるのです。今朝の御言葉は、その続きとなります。

 パウロは、ガラテヤの信徒たちに、「ああ、物分かりが悪いガラテヤの人たち」と呼びかけます。ガラテヤの信徒たちが、偽教師たちに惑わされてしまったのは、「物分かりが悪いからだ」と、パウロは嘆くのです(ルカ24:25参照)。パウロは、ガラテヤの信徒たちに、イエス・キリストの福音を語りました。そのようにして、彼らの目の前に、十字架につけられたイエス・キリストのお姿をはっきりと示したのです。にもかかわらず、ガラテヤの信徒たちは、偽教師たちに惑わされてしまったのです。

 そこで、パウロは、ガラテヤの信徒たちの体験に訴えて、説得しようとしています。「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」。その答えは、言うまでもなく、福音を聞いて信じたからです。ガラテヤの信徒たちは、パウロから聞いた福音を信じて、聖霊を与えられたのです。聖霊とは、聖なる神の霊であり、神様との親しい交わりを実現してくださる御方です。私たちは、聖霊によってイエス・キリストを信じ、聖霊によって父なる神様との親しい交わりに生きる者とされているのです。それは、「あれほどの体験」と言えるほどの神の力ある御業であるのです。人がイエス・キリストを信じることは、神の力ある御業、神の奇跡であるのです。もしかしたら、ガラテヤの諸教会において、癒しや異言を語るといった奇跡が起こったのかも知れません(使徒10:46参照)。しかし、そのような奇跡が起こらなくても、人がイエス・キリストを信じること自体が奇跡であるのです(二コリント5:17「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」参照)。

 3節で、パウロは、「あなたがたは、それほど物分かりが悪く、霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」と記します。この「霊によって」は、2節の「福音を聞いて信じた」に当たります。と言いますのも、ガラテヤの信徒たちが福音を聞いて信じたのは、聖霊のお働きによることであったからです。神様は、ガラテヤの信徒たちに聖霊を与えて、イエス・キリストを信じるという善い業を始めてくださいました(フィリピ1:6参照)。にもかかわらず、ガラテヤの信徒たちは、肉によって仕上げようとしていたのです。肉によって仕上げるとは、自分の力で律法を守ることによって仕上げるということです。偽教師たちに惑わされたガラテヤの信徒たちは、イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を行うことによって救われると考えていました。しかし、それは、パウロに言わせれば、霊によって始めたことを肉によって仕上げようとする愚かなことであるのです。それは、「福音を聞いて信じて、聖霊を受けた」という「あれほどの体験」を無駄にしてしまうことであるのです。

 5節で、パウロは、「あなたがたに霊を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか」と問います。そして、その答えを、6節でこう記します。「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです」。パウロは、「あなたがたは福音を聞いて信じたからです」とは記さず、アブラハムのことを記すのです。アブラハムについては、『創世記』の第12章から第25章までに記されています。神様は、アブラハムを父の家から導き出され大いなる国民にすると約束されました。また、アブラハムを祝福の源にすると約束されました。このアブラハムからイサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、ヤコブから12人の息子たちが生まれました。その子孫がイスラエルの民であり、ユダヤ人であったのです。なぜ、パウロは、アブラハムのことを記したのでしょうか。それは、当時のユダヤ人が、アブラハムは律法を守ることによって神の御前に義と認められたと考えていたからです(シラ44:19~21参照)。また、偽教師たちが、アブラハムを引き合いに出して、律法を守るように教えていたからです。しかし、パウロは、『創世記』の第15章6節の御言葉を引用して、アブラハムは信仰によって、神の御前に義と認められたと言うのです。そのアブラハムと同じように、ガラテヤの信徒たちも、イエス・キリストを信じる信仰によって正しい者とされ、その保証として、聖霊を与えられたと、パウロは言いたいわけです。

 「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」。この御言葉は、『創世記』の第15章6節からの引用です。実際に開いて確認したいと思います。旧約の19ページです。第15章1節から6節までをお読みします。

 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 第12章において、神様は、アブラムを召し出し「大いなる国民にする」と言われました。そのとき、アブラムは75歳でした。それからしばらく経った、第15章においても、アブラムには子供が与えられていませんでした。アブラムは、主に、「あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」と不平を言います。そのようなアブラムを、主は満天の星空の下に連れ出して、「あなたの子孫は数え切れない星々のようになる」と言われたのです。アブラムはそのように言われた主を信じたのです。アブラムは、満天の星々を造られた神様が、その御言葉どおり、数えられないほどの子孫を与えてくださると信じたのです。アブラハムは神の約束をただ信じたのです。そのアブラムを、神様は正しい者と認められました。神様の約束を信じることは、人間がとるべき正しい態度であるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の345ページです。

 アブラハムは信仰によって、義と認められました。それゆえ、パウロは、7節でこう記します。「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」。律法を行う者がアブラハムの子ではありません。また、割礼を受けた者がアブラハムの子でもありません。アブラハムが信仰によって生きたように、信仰によって生きる人々が、アブラハムの子であるのです。さらに、パウロは、「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました」と記します。これは、『創世記』の第12章に記されている主の御言葉です。このところも、実際に開いて読みたいと思います。旧約の15ページです。第12章1節から4節までをお読みします。

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき75歳であった。

 3節の後半で、主は、「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と言われました。この御言葉を取り上げて、パウロは、異邦人に対する祝福が信仰によってもたらされると言うのです(第15章に基づいて第12章を読んでいる)。「アブラハムが信仰によって義と認められたように、異邦人も信仰によって義と認められ、神様の祝福にあずかる者となる」とパウロは言うのです。信仰によって生きる人々こそ、アブラハムに約束された神の祝福にあずかる者であるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の345ページです。

 9節でパウロは、「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」と言います。このようなパウロの言葉を聞いても、ガラテヤの信徒たちは、危機感を持たなかったかも知れません。なぜなら、ガラテヤの信徒たちは、イエス・キリストを信じていたからです。彼らは、偽教師たちに惑わされて、イエス・キリストを信じていながら、律法を守り、割礼を受けようとしていたのです。イエス・キリストを信じることに律法の行いを付け加えて、救いをより確かなものにしようとしていたのです。しかし、パウロは、イエス・キリストを信じていながら、律法を守って義とされようとするならば、祝福を失ってしまい、律法の呪いの下に置かれてしまうと警告するのです。そして、そのことを神の言葉である聖書から論証するのです。

 10節でパウロは、「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われている」と記します。そして、その証拠聖句として『申命記』の第27章26節を引用します。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」。律法は、聖なるものであり、良いものですが、罪をもって生まれてくる人間には、呪いをもたらすことしかできないのです。また、パウロは、「律法によってはだれも神の前で義とされないことは明らかです」と記します。そして、その証拠聖句として『ハバクク書』の第2章4節を引用します。「正しい者は信仰によって生きる」。聖書は、「信仰によって生きる人が正しい者である」とはっきり教えているのです。さらに、パウロは、「律法は、信仰をよりどころとしていません」と記します。そして、その証拠聖句として『レビ記』の第18章5節を引用します。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」。ここでパウロは、聖書から律法を行って義とされようとすることが、信仰とは相容れない、共に成り立たない生き方であることを証明しています。なぜ、パウロは、信仰によって生きることと律法を行って生きることは相容れない、共に成り立たないと言うのでしょうか。それは、キリストが、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださったからです。『申命記』の第21章23節に、「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるように、イエス・キリストは、十字架の木にかけられて、私たちのために呪いとなってくださいました。イエス・キリストは呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。私たちは、律法の支配、掟を守れば祝福され、掟に背けば呪われるという掟の世界から解放されているのです。そのような私たちが、もし、自分で律法を守って救われようとするならば、私たちは再び律法の呪いの下に置かれてしまうことになるのです。

 14節で、パウロはこう記します。「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された霊を信仰によって受けるためでした」。イエス・キリストは、私たちのために呪いとなってくださいました。イエス・キリストが私たちのために呪いとなってくださったことは、イエス・キリストが何一つ罪を犯すことなく、律法を完全に守られたことを教えています。なぜなら、もし自分に罪があれば、その呪いは自分の罪のゆえであり、私たちのために呪いとなることはできないからです。イエス・キリストは、神の掟を完全に守られた御方であるにもかかわらず、私たちのために呪いとなってくださったのです。そのようにして、本来は呪いを受けるべき私たちが祝福を得ることになったのです。その祝福とは、神様がアブラハムに約束されていた祝福であり、信仰によって受け取る祝福であります。私たちはアブラハムに約束された祝福の実現として、神の霊、聖霊を与えられているのです。  

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