信仰によって義とされる 2023年4月23日(日曜 朝の礼拝)
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信仰によって義とされる
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- 村田寿和 牧師
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ガラテヤの信徒への手紙 2章15節~21節
聖書の言葉
2:15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
2:17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。
2:18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。
2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
2:21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
ガラテヤの信徒への手紙 2章15節~21節
メッセージ
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前回学んだことですが、かつて、ケファ(ペトロ)はアンティオキア教会で、異邦人キリスト者との食卓から身を引いたことがありました。そのペトロの振る舞いを根拠にして、ガラテヤの諸教会を惑わしていた偽教師たちは、イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守らなければ救われないと教えていたようです。それゆえ、パウロは、かつて自分が、アンティオキア教会の皆の前で、ペトロを非難したことを記したのです。パウロは、ペトロが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」。このようなペトロに対する非難の言葉の続きとして、今朝の御言葉は記されています。パウロは、二度と福音の真理が曲げられてはならないという熱い思いをもって、今朝の御言葉を記しているのです。
15節と16節を読みます。
わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
この「わたしたち」は、14節とのつながりから言えば、パウロとペトロのことです。パウロは、15節を、イエス・キリストを信じる以前の、ユダヤ人のものの考え方で記しています。私たちは生まれながらの神の民、ユダヤ人である。まことの神を知らない異邦人のような罪人ではない。ユダヤ人は、神様から律法を与えられて、神様の御心を行うことができる。しかし、異邦人は律法を与えられていないので、神様の御心を行うことができない。よって、異邦人は罪人である。これが、イエス・キリストを信じる以前のパウロの考え方でした。ユダヤ人は、異邦人のような罪人とは一緒に食事をしない。そのように、かつてのパウロとペトロは考えていたのです。しかし、その私たちユダヤ人が、キリスト・イエスを信じたのはなぜか。それは、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知ったからではないかとパウロは言うのです。パウロは、律法を守ることに人一倍熱心な者でした。パウロは、律法を守ることによって、神の御前に正しい者としていただけると信じていたのです。しかし、そのパウロが、イエス・キリストの啓示によって知らされたことは、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」ということであったのです。
ここで、「イエス・キリストへの信仰(ピステオース・クリストゥ)」(対格的属格)と訳される言葉は、「イエス・キリストの信仰」(主格的属格)とも訳すことができます。「イエス・キリストへの信仰」と訳すならば、それは、「イエス・キリストに対する私たちの信仰」を意味します。他方、「イエス・キリストの信仰」と訳すならば、それは、「十字架の死に至るまで、父なる神の御心に従われたイエス・キリストの信仰」を意味するのです。「イエス・キリストへの信仰」は「イエス・キリストの信仰」とも訳すことができる。ここには深い意味があると思います。イエス・キリストへの信仰によって義とされた私たちは、イエス・キリストの信仰によって義とされた者でもあるのです。「義とされる」とは、裁判において「正しいと宣言される」という法廷用語です。人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっています(ヘブライ9:27参照)。その神様の裁きの座において、人間はどのようにして正しい者とされるのか。パウロは、人は律法を行うことではなく、ただイエス・キリストへの信仰、イエス・キリストの信仰によって正しい者とされると記すのです。ちなみに、「だれ一人として義とされないからです」は、『詩編』第143編2節からの引用です。そこでダビデは、「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は命あるものの中にはいません」と記しています。そのダビデの言葉を引用して、パウロは、「律法の実行によってはだれ一人義とされない」と記すのです。
17節を読みます。
もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。
ここでの「わたしたち」も、生まれながらのユダヤ人であるパウロとペトロのことです。ユダヤ人であるパウロとペトロも、律法の実行によっては義とされないことを知って、イエス・キリストを信じました。キリストによって義とされた者として、もはや律法に縛られない生活をしているわけです。律法の食物規定からも自由にされて、異邦人キリスト者と一緒に食事をする者とされたのです。それは、言い換えれば、ユダヤ人が異邦人のように生活するということです。イエス・キリストを信じた者は、律法の支配から自由な者とされる。そうすると、ユダヤ人でイエス・キリストを信じる者は、律法に縛られない異邦人のような生活をするようになる。ユダヤ人が異邦人のような罪人となってしまう。イエス・キリストを信じることは、そのような罪人を増やしてしまうだけではないか。そのような誤解に対して、「決してそうではない」とパウロは言うのです。
18節と19節を読みます。
もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違反者であると証明することになります。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
15節から17節までは、主語が「わたしたち」(一人称複数形)でした。18節から21節までは、主語が「わたし」(一人称単数形)に変わっています。パウロが「打ち壊したもの」とは、何でしょうか。それは、律法の実行によって義とされるという考え方です。もし、パウロが、イエス・キリストを信じてからも、律法の実行によって義とされようとするならば、自分は違犯者であることを証明することになると言うのです。なぜなら、パウロはイエス・キリストを信じて、律法に対しては律法によって死んだ者であるからです。律法に対しては律法によって死んだパウロが、再び律法の実行によって義とされようとするならば、それは律法に違反することになるのです。ここで、パウロが、ガラテヤの諸教会を惑わしていた偽教師たちの主張を念頭においていることは明らかだと思います。ある人々は、イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守らなければ救われないと教えていました。しかし、そのような教えは、律法に違反する教えであるのです。なぜなら、イエス・キリストを信じる者は、神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだ者であるからです。
19節で、パウロは、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだ」と記します。ここには、パウロの律法理解がよく表れています。つまり、律法は、私たちを神に対して生きる者とすることはできないのです。律法は聖なるものであり、正しく、善いものです(ローマ7:12参照)。しかし、私たち人間には生まれながらに罪がありますので、律法を守って神に対して生きることができないのです。律法は、私たちに罪の自覚しか生じさせないわけです。では、神に対して生きるには、どうすればよいのでしょうか。それは、イエス・キリストを信じて、律法に対しては律法によって死ぬことであります。律法に対して律法によって死ぬとは、どういうことでしょうか。それは、イエス・キリスト共に十字架につけられているということです。イエス・キリストの十字架の死は、律法の呪いの死でありました(3:13参照)。そのイエス・キリストと共に十字架につけられているとパウロは言うのです。このことは、パウロだけのことではありません。イエス・キリストを信じている私たちは、イエス・キリストと共に十字架につけられているのです(元の言葉は現在完了形で記されている。現在完了形は、ある動作が過去において完了して、その結果が現在に続いていることを表す)。そのようにして、私たちは律法に対しては律法によって死んだ者となり、神に対して生きる者とされているのです。
20節を読みます。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ここには、「神に対して生きる」ことがどのようなことであるかが記されています。キリストと共に十字架につけられた私たちは、復活したキリストの命に生きる者となるのです。復活したイエス・キリストの聖霊が私たちの内に与えられて、「キリストがわたしの内に生きておられる」と言えるほどに、キリストと結び合わされるのです。ある研究者は、このパウロの言葉の背景には、洗礼があると指摘しています。と言いますのも、『ローマの信徒への手紙』の第6章によれば、キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちは、キリストの死と復活の命にあずかる者とされているからです(ローマ6:3、4「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」参照)。
律法に対しては死んで、神に対しては生きるようになったパウロは、その生きる原理、原動力が変わりました。 かつてのパウロを生かしていた原理、原動力は、律法の実行によって義とされようとする律法への熱心でした。しかし、イエス・キリストを信じて、律法から解放されたパウロは、イエス・キリストへの信仰によって生きる者とされたのです。イエス・キリストへの信仰とは、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰」であるのです。かつてイエス様は、弟子たちにこう言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:13、14)。また、イエス様は、次のようにも言われました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。イエス様は、その御言葉の通り、私たちを愛して、私たちの贖いとして、十字架の死を死んでくださいました。それゆえ、イエス・キリストを信じるとは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子を信じることであるのです。そのような信仰に生きるとき、私たちはイエス・キリストを愛し、イエス・キリストの御心に従って歩みたいと心から願うようになるのです。復活されて、今も活きておられるイエス・キリストの聖霊に導かれて歩みたいと心から願うようになるのです。
21節を読みます。
わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
このパウロの言葉の背景には、ガラテヤの諸教会を惑わしていた偽教師たちの主張があると考えられています。偽教師たちは、「パウロは、神の恵みである律法を無にしている」と中傷していました。そのような彼らの中傷を念頭に置きつつ、パウロは、「わたしは、神の恵みを無にはしません」と記すのです。ただし、ここでパウロが言う「神の恵み」とは、「わたしを愛し、わたしのために身を献げてくださった神の御子イエス・キリストの命」のことです。偽教師たちは、イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守らなければ救われないと教えていました。しかし、もし、そうであるならば、キリストの死は無意味になってしまうと言うのです。なぜ、神は、御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになったのか(4:4参照)。なぜ、神の御子であるイエス・キリストは、律法の呪いの死を死んでくださったのか。それは、だれ一人として、律法を実行することによっては神の御前に正しい者とされないからです。私たち人間が神の御前に正しいとされるのは、ただイエス・キリストへの信仰によるのです。私たちを愛して、私たちのために身をささげてくださった神の御子イエス・キリストを信じること。それこそ、神の御前に、人間の取るべき正しい態度であるのです。