神を畏れ敬う生活 2023年3月12日(日曜 夕方の礼拝)
問い合わせ
神を畏れ敬う生活
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
コヘレトの言葉 4章17節~5章6節
聖書の言葉
4:17 神殿に通う足を慎むがよい。悪いことをしても自覚しないような愚か者は/供え物をするよりも、聞き従う方がよい。
5:1 焦って口を開き、心せいて/神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。
5:2 夢を見るのは悩みごとが多いから。愚者の声と知れるのは口数が多いから。
5:3 神に願をかけたら/誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ。
5:4 願をかけておきながら誓いを果たさないなら/願をかけないほうがよい。
5:5 口が身を滅ぼすことにならないように。使者に「あれは間違いでした」などと言うな。神はその声を聞いて怒り/あなたの手の業を滅ぼされるであろう。
5:6 夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。
コヘレトの言葉 4章17節~5章6節
メッセージ
関連する説教を探す
月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第4章17節から第5章6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
今夕の御言葉で、コヘレトは、神を畏れ敬う生活について教えています。更に詳しく申しますと、第4章17節は、いけにえを献げることについて教えています。第5章1節と2節は、祈りについて教えています。第5章3節から6節までは誓願について教えています。そのことを念頭に置きつつ、今夕の御言葉を読み進めていきたいと思います。
第4章17節をお読みします。
神殿に通う足を慎むがよい。悪いことをしても自覚しないような愚か者は/供え物をするよりも、聞き従う方がよい。
新共同訳聖書は「慎むがよい」と翻訳していますが、聖書協会共同訳は「気をつけなさい」と翻訳しています(新改訳2017も同じ)。「慎む」と翻訳すると、神殿にあまり行かないように言われている印象を受けます。しかし、コヘレトは神殿に行くことに消極的ではありません。コヘレトは、「神殿に行くときには、足に気をつけなさい」と言っているのです(聖書協会共同訳)。すなわち、「神様を礼拝するのに、ふさわしい心備えをして行きなさい」と言っているのです。「悪いことをしても自覚しないような愚か者は/供え物をするよりも、聞き従う方がよい」。「愚か者」とは、悪を行っていながら、いけにえをささげることによって罪の赦しを与えられると考える者のことです。悪を行いならが、いけにえをささげて、また悪を行う者は、先ず聞き従うことを学ばねばならないのです。ここで、コヘレトが言っていることは、預言者イザヤが言っていることと同じですね。『イザヤ書』の第1章10節から17節までをお読みします。旧約の1061ページです。
ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ/わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪にわたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが、誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を/洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ/善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取するものを懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。
神様は、悪を行う人間が献げるいけにえを忌み嫌われます。いけにえをささげる前に、悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、わたしの裁きを実行せよと言われるのです。コヘレトが記していることも同じことです。悪を行いながら、いけにえを献げる愚か者は、先ず、神様の御言葉に聞き従うべきであるのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の1039ページです。
第5章1節と2節をお読みします。
焦って口を開き、心せいて/神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。夢を見るのは悩みごとが多いから。愚者の声と知れるのは口数が多いから。
コヘレトは、「神様に祈るとき、焦って口を開いて、多くの言葉を語ろうとするな」と記します。その理由をコヘレトは、「神は天にいまし、あなたは地上にいる」からだと記すのです。神様と私たち人間には、天と地ほどの違いがある。神様は、本来、私たちが語りかけることのできない偉大な御方であるのです。そのことを肝に銘じて、「言葉数を少なくせよ」と言うのです。このコヘレトの言葉は、イエス様の教えと似ています。実際に聖書を開いて確認しましょう。新約の9ページです。
『マタイによる福音書』の第6章7節と8節前半で、イエス様は、弟子たちにこう言われました。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない」。このように、イエス様も、多くの言葉で、くどくどと祈らないようにと言われました。しかし、そのようにイエス様が言われたのは、神様が、本来、語りかけることのできない偉大な御方だからではありません。イエス様が、「多くの言葉でくどくどと祈ってはならない」と言われたのは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」だからであるのです(6:8b参照)。コヘレトにとって、神様は天におられる、遠く離れた御方です。その天におられる神様が、イエス・キリストにあって、近く親しい、私たちの父となってくださったのです。「言葉数を多くして、くどくどと祈らずに、少ない言葉で祈りなさい」。このことは、コヘレトも、イエス様も教えておられることです。しかし、そのように教えられる理由は、まったく異なるのですね。天におられる父なる神様は、私たちに必要なものをご存じである。ですから、私たちは、心を安らかにして、少ない言葉で祈ることができるのです。そして、その少ない言葉の祈りとして、イエス様は、弟子である私たちに「主の祈り」を教えてくださったのです(マタイ6:9~13参照)。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の1039ページです。
3節から6節までをお読みします。
神に願をかけたら/誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ。願をかけておきながら誓いを果たさないなら/願をかけないほうがよい。口が身を滅ぼすことにならないように。使者に「あれは間違いでした」などと言うな。神はその声を聞いて怒り/あなたの手の業を滅ぼされるであろう。夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。
コヘレトは、「神に願をかけたら/誓いを果たすのを遅らせてはならない」「願をかけたら、誓いを果たせ」と記します。神様に願をかけることの具体例が、『創世記』の第28章に記されています。そこで、ヤコブは、誓願を立ててこう言いました。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」(創世28:20~22)。「神様がわたしの願いをかなえてくだされば、わたしは神様にこのようなことをします」。これが誓願です。誓願については、『申命記』の第23章22節から24節に記されています。このところは開いて読みたいと思います。旧約の317ページです。
あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなく、それを果たしなさい。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求め、あなたの罪とされるからである。誓願を中止した場合は、罪を負わない。唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに実行しなさい。
コヘレトは、この『申命記』の掟を念頭に置きつつ、「誓いの実行を遅らせるな」「誓ったことは必ず果たせ」と記しているのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の1039ページです。
神様に願いをかなえていただきながら、誓いを果たさないならば、それは神様を欺いたことになり、自らに滅びを招くことになります。それゆえ、コヘレトは、「願をかけておきながら誓いを果たさないなら/願をかけないほうがよい」と言うのです。神を畏れ敬うことなしに、空しい言葉を口にするなと言うのです。「口が身を滅ぼすことにならないように」とあるように、舌は災いのもとであるのです(ヤコブ3:6「舌は火です。舌は『不義の世界』です」参照)。
今夕の御言葉で、コヘレトは、いけにえを献げることにも、祈ることにも、誓願を立てることにも消極的ではありません。消極的という言葉を用いるならば、コヘレトは、神の言葉に聞き従わないでいけにえをささげること。心せいて、多くの言葉で祈ること。軽はずみな空しい誓願を立てることに消極的であるのです。また、積極的という言葉を用いるならば、コヘレトは、神の教えに聞き従う決意をもって、いけにえを献げること。落ち着いて、少ない言葉で祈ること。実行の伴う真実な言葉で誓願を立てることを積極的に勧めているのです。このコヘレトの勧めをイエス・キリストを信じる私たちに当てはめると、次のように言えると思います。自分の罪を憎み悲しんで、罪を告白すること。天の父なる神様への信頼をもって祈ること。神様の真実に生きる者として、真実な言葉を語ること。私たちは主イエス・キリストの父なる神を畏れ敬う者として、そのような生活を送っていきたいと願います。