唯一の福音 2023年3月12日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ガラテヤの信徒への手紙 1章6節~10節
聖書の言葉
1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。
1:8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。
1:9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
1:10 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。ガラテヤの信徒への手紙 1章6節~10節
メッセージ
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先週から、イエス・キリストの使徒パウロが記した『ガラテヤの信徒への手紙』を学び始めました。今朝は、第1章6節から10節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
通常、パウロは、挨拶の言葉に続けて、神様への感謝の言葉を記します。例えば、『コリントの信徒への手紙一』では、挨拶の言葉に続けて、パウロは次のように記しています。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」(一コリント1:4)。しかし、『ガラテヤの信徒への手紙』において、パウロは、神様への感謝の言葉を記していません。パウロは、感謝の言葉を記すことなく、「わたしはあきれ果てています」「わたしは驚いています」と記すのです(新改訳2017参照)。
6節と7節をお読みします。
キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。
ここでの「キリストの恵みへ招いてくださった方」とは、父なる神様のことです。ガラテヤの信徒たちがイエス・キリストを信じることができたのは、父なる神様が彼らをキリストの恵みへと招いてくださったからです。そのことは、私たちにおいても当てはまります。私たちが、イエス・キリストを信じることができたのは、父なる神様が私たちをキリストの恵みへ招いてくださったからであるのです。しかし、ガラテヤの信徒たちは、自分たちをキリストの恵みへと招いてくださった神様から離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていたのです。「ほかの福音」と聞くと、福音がいくつもあるように思われるかも知れません。そのような誤解をされないように、パウロは、こう記します。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」。ガラテヤの信徒たちが乗り換えようとしているほかの福音とは、福音でも何でもない。それはキリストの福音を覆そうとしているものであるのです。福音とは、「良い知らせ」を意味します。イエス・キリストの福音とは、「イエス・キリストを信じるならば、あなたは救われる」という良い知らせであるのです。しかし、ある人々は、イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、律法を守らなければ救われないと教えていたのです。『使徒言行録』の第15章を読むと、そのように主張する者たちのことが記されています。『使徒言行録』の第15章1節から5節をお読みします。新約の242ページです。
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
このように、ユダヤ人キリスト者たちの中には、異邦人キリスト者も割礼を受けて、モーセの律法を守るべきだと主張する者たちがいたのです。そのような者たちが、エルサレムから来て、ガラテヤ地方の諸教会を惑わせていたのです(使徒15:24参照)。
今朝の御言葉に戻ります。新約の342ページです。
ある人々は、イエス・キリストを信じることに加えて、割礼を受けて、モーセの掟を守るように教えていました。そして、ガラテヤの信徒たちは、ある人々の教えを信じて、割礼を受けようとしていたのです。ある人々は、自分たちが福音を宣べ伝えていると考えていました。また、ガラテヤの信徒たちも、自分たちは依然として、イエス・キリストの福音を信じていると考えていました。しかし、パウロは、イエス・キリストを信じることに加えて、割礼を受けて、モーセの掟を守らなければ救われないという、ある人々の教えを、キリストの恵みへ招いてくださった神様からあなたがたを引き離す教えであると言うのです。さらには、キリストの福音を覆す教えであると言うのです。そのような教えを福音として告げ知らせることは、神の呪いに値する行為であるのです。
8節と9節をお読みします。
しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
パウロは、ガラテヤの信徒たちを惑わせていた、ある人々を直接呪うのではなく、「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」と記します。それは、かつてパウロが告げ知らせた福音が、イエス・キリストの啓示によって知らされた唯一の福音であるからです。今朝は読んでいただきませんでしたが、11節と12節に、次のように記されています。
兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。
パウロがガラテヤの信徒たちに告げ知らせた福音。それは、人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた福音でした。ですから、たとえパウロたち自身であれ、天使であれ、かつてパウロが告げ知らせた福音に反する教えを福音として宣べ伝えるならば、呪われるべきであるのです。「呪われるべきである」と訳されている言葉は、「アナセマ」という言葉です。「アナセマ」という言葉は、「神から見捨てられよ」とも訳せます(一コリント12:3「イエスは神から見捨てられよ」参照)。パウロは、かつて告げ知らせた福音に反する教えを宣べ伝える者たちに、それが自分自身であっても、天使であっても、呪われるがよい、神から見捨てられるがよいと言うのです。なぜなら、ある人々が告げ知らせている教え、イエス・キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、モーセの律法を守らなければ救われないという教えは、聞く人々を律法の呪いへと引き渡す教えであるからです。キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました(3:13参照)。それにもかかわらず、律法を守って救われようとするならば、その人は、キリストの死を無意味なものにしてしまい、律法の呪いの死を死ぬことになるのです。パウロの「呪われるがよい」という言葉を読んで、言い過ぎではないかと思うかも知れません。しかし、かつてパウロが告げ知らせた福音に反する教え、「イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守らなければ救われない」という教えは、聞く人々を律法の呪いへと引き渡す教えであるのです。それゆえ、パウロは繰り返し、「あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」と記すのです。
10節をお読みします。
こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
このところを、パウロは、ある人々からの中傷の言葉を念頭に置いて記しているようです。ある人々は、パウロがイエス・キリストを信じるだけで救われるという「割礼なしの福音」を宣べ伝えているのは、人に取り入ろうとしているからだと中傷していました。ちなみに、「取り入る」という言葉の意味は、「目上の人などに気に入ってもらおうと、ごきげんを取ること」です(福武国語辞典)。ある人々は、パウロは、割礼なしの福音を宣べ伝えることによって、人々から気に入られようとご機嫌を取っていると、根拠のない悪口を言っていたのです。また、ある人々は、パウロは、人に気に入られようとあくせくしていると中傷していたのです。ここで、「気に入る」と訳されている言葉(アレスコー)は、「喜ばせる」とも訳すことができます。ある人々は、パウロが人を喜ばせようとしてあくせくして、割礼なし福音を宣べ伝えていると中傷していたのです。しかし、もちろん、そうではありません。パウロは、人ではなく神に取り入ろうとして、また、人ではなく、神に喜んでいただくために、割礼なしの福音、唯一のイエス・キリストの福音を宣べ伝えたのです。それは、パウロが人の僕ではなく、キリストの僕であるからです。ちなみに、ここで「僕」と訳されている言葉(ドウロス)は「奴隷」とも訳すことができます。パウロはキリストの奴隷として、キリストから示された唯一の福音、人は律法の行いによってではなく、イエス・キリストへの信仰によって救われるという唯一の福音を宣べ伝えているのです(2:16参照)。
パウロは、「もし、今なお人を喜ばせようとしているなら、わたしはキリストの僕ではない」と記します。「今なお」という言葉は、かつてのパウロが人を喜ばせようとしていたことを示しています。いつパウロは、人を喜ばせようとしていたのでしょうか。それは、パウロがイエス・キリストを信じる前、ユダヤ教徒として割礼を宣べ伝えていたときです(5:11「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう」参照)。パウロによれば、イエス・キリストを信じるだけで救われるという福音よりも、律法を守って救われるという教えの方が、人を喜ばせるのです。イエス・キリストを信じるだけで救われます。救いは神様の一方的な恵みとして与えられますという福音よりも、あなたは律法を守るならば救われますという教えの方が、人間の自尊心をくすぐるのです。人に取り入り、人の気に入ろうとしてあくせくしているのは、パウロではありません。イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守らなければ救われないと教えているある人々の方であるのです。イエス・キリストへの信仰によってのみ救われるという福音を告げ知らせるパウロこそ、人ではなく神様に喜んでいただこうと努めているキリストの僕であるのです。パウロだけではありません。神様に喜んでいただくために、イエス・キリストの福音を宣べ伝えている私たちもキリストの僕であるのです。
今朝の御言葉で問われていることは、私たちは誰を喜ばせようとして福音を宣べ伝えているのかということです。また、誰を喜ばせようとして、礼拝を行っているのかということです。人間のためなのか。それとも神のためなのか。そのような究極的な二者択一が迫られているのです。そして、もし、私たちが「神に喜ばれるためである」と答えることができないなら、私たちはキリストの僕ではないのです。パウロが「神の僕」とは記さずに「キリストの僕」と記していることには深い意味があると思います。キリストは、十字架の死に至るまで神様に従われた、まさしく神の僕でありました(フィリピ2:8参照)。そのキリストの僕になることによって、私たちは神の僕になるわけです。キリストの抜きで、神の僕になるのではなくて、キリストの僕になることによって神の僕になるのです。私たちは、人間の奴隷ではなく、イエス・キリストの奴隷として、ただ、イエス・キリストに喜んでいただくために、日曜日ごとに教会に集い、礼拝をささげ、福音を宣べ伝えているのです。そして、神様は、私たちがささげる礼拝を喜んで受け入れてくださり、私たち一人一人を祝福してくださるのです。