祈りの確信 2023年2月19日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの手紙一 5章13節~17節
聖書の言葉
5:13 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。
5:15 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
5:16 死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。
5:17 不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。ヨハネの手紙一 5章13節~17節
メッセージ
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序.
今朝は、『ヨハネの手紙一』の第5章13節から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.ヨハネがこの手紙を書き送った目的
13節をお読みします。
神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
ここには、使徒ヨハネが、この手紙を書き送った目的が記されています。『ヨハネによる福音書』にも、同じようなことが記されていました。『ヨハネによる福音書』の第20章30節と31節に、こう記されています。新約の210ページです。
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
小見出しに「本書の目的」とありますように、ここには、ヨハネがこの福音書を書いた目的が記されています。『ヨハネによる福音書』は、私たちが、イエスは神の子メシアであると信じるために、また、イエスの名により命を受けるために書かれたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の447ページです。
ヨハネは、福音書を、私たちがイエスは神の子であると信じて、命を受けるために書きました。そして、ヨハネは、この手紙を、神の子の名を信じている私たちが、永遠の命を得ている(原文では「持っている」)ことを悟らせるために書いたのです(聖書協会共同訳「あなたがたが永遠の命を持っていることを知ってほしいからです」参照)。それは、偽預言者たちによって、教会が惑わされていたからです。偽預言者たちは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表しませんでした(4:2参照)。彼らは、イエス・キリストが人となって来られたことを否定して、人のように見えただけの純粋な霊であるイエス・キリストを教えていたのです。そのような偽預言者たちによって、惑わされていた教会に宛てて、ヨハネはこの手紙を書き送ったのです。まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストを信じる私たちに、永遠の命を持っていることを悟らせるために、ヨハネはこの手紙を書き記したのです。「悟る」とは「ものの本質や意味などを(直感的に)はっきりと理解する」ことを意味します(明鏡国語辞典)。ヨハネは、この手紙を、神の子イエス・キリストを信じる私たちが、永遠の命を持っていることをはっきりと理解するために、書き記しました。私たちは、この手紙を最初から少しずつ学んできました。その目的は、神の子イエス・キリストを信じる私たちが、永遠の命を持っていることをはっきりと理解するためであったのです。
2.祈りの確信
14節と15節をお読みします。
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事が何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
ここには、神の子の名を信じて、永遠の命を持っている私たちの「祈りの確信」が記されています。永遠の命とは、御父と御子イエス・キリストとの交わりに生きることです。神の子イエス・キリストを信じる私たちは、神の子となる資格を与えられ、父なる神様との親しい交わりに生きる者となりました。父なる神様との親しい交わり、それは祈りです。私たちは「天の父なる神様」と呼びかけ、感謝と願いを述べて、「主イエス・キリストの御名によって」祈ります。イエス・キリストにとどまる私たちと父なる神様との交わりは、そのような祈りによって端的に表されるのです。永遠の命を持っている私たちは、神様との親しい交わりである祈りの中に生きる者とされているのです。その祈りの中に生きる者として、ヨハネは、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」と記すのです。この祈りの確信の根本には、イエス・キリストにあって、私たちの父となってくださった神様への全幅の信頼があります(アッバ父よと叫ぶ御子の信頼!)。ここで注意したいことは、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら」と言われていることです。永遠の命を持っている私たちにとって、祈りとは「何事であれ神の御心に適うことを私たちが願い求める」ことであるのです。それゆえ、私たちは、「神は聞き入れてくださる」と確信することができるのです。このことは、イエス様が教えられたことでもあります。イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第15章7節で、こう言われました。新約の198ページです。
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすれば与えられる。
ここでイエス様は、私たちが、イエス様につながっていること、イエス様の言葉を心の内にとどめていることを条件として、「望むものは何でも願いなさい。そうすれば与えられる」と言われています。イエス様につながれて、イエス様の言葉が心の中にあるとき、私たちは、神様の御心に適ったことを願うことができるのです。少し具体的にお話ししたいと思います。私たちは、神様に病気が癒やされることを祈りますね。それは、神様が癒し主であり、病の癒しが神様の御心に適うことであると信じているからです。福音書を読むと、イエス・キリストが病気に苦しむ多くの人を癒やされたことが記されています。それゆえ、私たちは病の癒しを神の御心に適ったこととして願うことができるのです。また、病の癒しが神の御心に適うことであるゆえに、神様は聞き入れてくださると確信することができるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の447ページです。
ヨハネは、15節で、「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」と記しました。宗教改革者のジャン・カルヴァンは、注解書において、「神様に願ったことは既にかなえられたと信じて、苦しみの中で忍耐し、心を安らかにするように」と記しています。先程の「病の癒し」の願いについて言えば、「神様が病を癒してくださったと信じて、お医者さんから治療を受け続け、心を安らかにしている」ということでしょう。父なる神様は、私たちの願い事を聞き入れてくださり、既にかなえてくださっている。そのように聞くと、本当かしら?と疑問に思うのではないでしょうか。神様は時間と空間を超越した永遠の次元におられます。その永遠の次元において神様は、私たちの願い事を既にかなえてくださっている。それが、私たちが生きている間に、この地上で実現するかどうかは分かりません。しかし、主イエス・キリストが再び来られるとき、私たちは、神様が私たちの願い事を既にかなえてくださっていたことを知るようになるのです。『ヨハネの黙示録』は、主イエス・キリストの再臨に続いて、最後の審判が行われ、新しい天と新しい地が到来することを教えています。その新しい天と新しい地には、もはや病も死も、悲しみも嘆きも労苦もないのです。その病も死もない世界で、私たちは、「病を癒してください」という願いを、神様が既にかなえてくださっていたことを知るのです。
未信者の家族の救いについても同じことが言えると思います。私たちの祈りの課題として、未信者の家族の救いがあると思います。聖書は、すべての人がイエス・キリストを信じて救われることが神の御心であると教えています(一テモテ2:4「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」参照)。特に、聖書は、家族の救いを約束しています(使徒16:31「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」参照)。それゆえ、私たちは神様の御心に適ったこととして、未信者の家族の救いを祈り求めることができるのです。そして、神様は私たちの祈りを聞き入れてくださったと確信することができるのです。そのことが、私たちが生きている間に、この地上で実現することもあるでしょう。未信者の家族が教会に通い出して、洗礼を受けてキリスト者となる。それは、本当に大きな恵みです。しかし、そのような事が、私たちが生きている間に、この地上で起こらなくとも、永遠の次元におられる神様は、私たちの願いを既にかなえてくださっていることが分かるのです。そして、新しい天と新しい地において、未信者であると思っていた家族が、イエス様の救いにあずかっている姿を思い浮かべ、信じることができるのです。そのような信仰に生きているからこそ、私たちは未信者の家族のために、心を配り、祈り続けることができるのです。ある人は、「神に願ったことは既にかなえられていることが分かるなら、祈らなくなるのではないか」と思われるかも知れません。しかし、神様との交わりは毎日のことです。永遠の命を持っている私たちは毎日祈るのです。その祈りの中で、私たちが願っている、病の癒しや家族の救いのことを祈るのは、むしろ当然のことであると思います。イエス・キリストを信じて神の子とされている私たちは、神様が既に私たちの願いをかなえてくださっていることを信じるからこそ、毎日祈るのです。永遠の次元で、既にかなえられている願いが、私たちが生きている間に、この地上で実現することを祈り求めるのです。そのような祈りによって、私たちは忍耐を学び、心に安らぎを与えられているのです。
3.死に至る罪と死に至らない罪
16節と17節をお読みします。
死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。
ここで、ヨハネは兄弟姉妹のために祈る、とりなしの祈りについて記しています。「罪を犯している兄弟姉妹を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命を与えてくださる」とヨハネは言うのです。罪を犯している兄弟姉妹のために祈るとは、具体的にはどのようなことを祈るのでしょうか。それは、「兄弟姉妹が自分のしていることを罪と認めて、その罪を犯さないようになるように」ということです。そのような祈りをもって、私たちは兄弟姉妹の罪を指摘すべきであるのです。『マタイによる福音書』の第18章で、イエス様は、いわゆる教会訓練について教えておられます。その最初の段階は、「二人だけのところで忠告する」ことです。それで聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行き、忠告する。それでも聞き入れなければ、教会に申し出るのです。そのような教会訓練の根本にある御言葉が、「罪を犯した兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば神はその人に命を与えてくださる」という御言葉であるのです。
ヨハネは、「死に至らない罪」と「死に至る罪」について記しています。ここでの「死」は、神様の裁きによる永遠の滅びのことを意味しています。「死に至る罪」とは何でしょうか。これにはさまざまな解釈があります。おそらく、ヨハネは、イエス・キリストが人となって来られたことを否定する偽預言者たちのことを念頭に置いているのでしょう。イエス・キリストが人となって来られたことを否定する偽預言者たちは、イエス・キリストの十字架の贖いをも否定しました。それゆえ、彼らの罪は償われることなく、彼らは自分の罪のゆえに死ぬことになるのです。
不義はすべて罪であり、罪の報酬は死であります。ですから、本来は、すべての罪が死に至るのです。しかし、まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストを信じる私たちは、イエス・キリストの十字架の血潮のゆえに、死に至ることがない。永遠の滅びに定められることはないのです。それゆえ、私たちは、イエス・キリストの御名によって、自分の罪を言い表して、罪の赦しをいただくことができるのです。そのようにして、私たちは、神様との永遠の命の交わりに、日々、生きることができるのです。