束の間の王権 2023年2月12日(日曜 夕方の礼拝)

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束の間の王権

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コヘレトの言葉 4章13節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:13 貧しくても利口な少年の方が/老いて愚かになり/忠告を入れなくなった王よりも良い。
4:14 捕われの身分に生まれても王となる者があり/王家に生まれながら、卑しくなる者がある。
4:15 太陽の下、命あるもの皆が/代わって立ったこの少年に味方するのを/わたしは見た。
4:16 民は限りなく続く。先立つ代にも、また後に来る代にも/この少年について喜び祝う者はない。これまた空しく、風を追うようなことだ。コヘレトの言葉 4章13節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 今年も、夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めていきたいと思います。今夕は、第4章13節から16節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 13節から16節までをお読みします。

 貧しくても利口な少年の方が/老いて愚かになり/忠告を入れなくなった王よりも良い。捕らわれの身分に生まれても王となる者があり/王家に生まれながら、卑しくなる者がある。太陽の下、命ある者の皆が/代わって立ったこの少年に味方するのを/わたしは見た。民は限りなく続く。先立つ代にも、また後に来る代にも/この少年について喜び祝う者はない。これまた空しく、風を追うようなことだ。

 コヘレトは、「貧しくても利口な少年の方が/老いて愚かになり/忠告を入れなくなった王よりも良い」と記します。一般的には、「少年は経験が乏しいので愚かであり、老人は経験が豊富であるゆえに賢い」と言えます。しかし、コヘレトは、貧しい少年でも利口な者がおり、王であっても年を重ねることによって愚かになる事実を指摘するのです。ここでの「愚かさ」の特徴は、他人の忠告に耳を傾けないことです。知恵の言葉である『箴言』は、他人の言葉に耳を傾けることの大切さを教えています。例えば、『箴言』の第15章22節には、こう記されています。「計画は相談しなければ挫折し/多くの助言があれば実現する」(聖書協会共同訳)。しかし、年老いた王は、他人の助言に耳を傾けない愚かな者であったのです。老いて愚かになった王とは、誰のことでしょうか。皆さんは、「老いて愚かになった王」と聞いて、誰を思い浮かべるでしょうか。私は、コヘレトがなりすました、知恵で有名なソロモン王のことを思い浮かべました。ソロモンは、神様を畏れる賢い王でありました。しかし、ソロモンは晩年、多くの外国の女を愛して、異教の神々を崇める愚かな王になってしまったのです。ソロモンは他人の忠告に耳を傾けずに、自分の欲望のままに振る舞う愚かな王となってしまったのです(列王上11章参照)。ここで、コヘレトは、「貧しくて利口な少年」が誰で、「老いて愚かになった王」が誰であるかを記してはいません。ですから、それが誰であるかを確定することはできません。しかし、私は、コヘレトが語っている真理を、少しでも具体的に考えるために、その実例を聖書の中に求めることは、有益であると思います。

 14節に、「捕われの身分に生まれても王となる者があり」と記されています。「捕われの身分に生まれても王となる者」と聞いて、皆さんは誰を思い浮かべるでしょうか。私は、族長ヤコブとラケルの長男であるヨセフのことを思い浮かべました。ヨセフは、父ヤコブから特別に可愛がられていたことから、兄たちの妬みを買い、エジプトに奴隷として売り飛ばされてしまいました。さらにヨセフは、ポティファルの妻の偽証によって、牢獄に捕らえられてしまうのです。しかし、ヨセフは、夢の解き明かしにより、牢獄から解放されました。さらには、エジプトの王ファラオの夢を解き明かすことによって、エジプトの総理大臣になるのです(創世39~41章参照)。また、バビロンの軍隊によって、エルサレムから囚人として連れて来られたダニエルも、ペルシャ帝国の王に認められて、大臣の一人になりました(ダニエル6:3参照)。ヨセフとダニエルは、「捕われの身分に生まれても王となる者」の具体例と言えるのです。

 コヘレトは、「王家に生まれながらも、卑しくなる者がある」とも記します。「王家に生まれながらも、卑しくなる者」の具体例も、年老いて愚かになったソロモンであると言えます。ソロモンは、多くの外国の女を愛し、彼女たちが礼拝する異教の神々に自らも礼拝をささげたのです。このように見ますと、13節と14節が並行関係にあることが分かります。「貧しく利口な少年」は「捕らわれの身分に生まれて王となる者」であるのです。また、「年老いて愚かになった王」は「王家に生まれながら、卑しくなる者」であるのです。そして、15節で、コヘレトは、民衆が年老いて愚かになった王に代わる王として、貧しい利口な少年に味方するのを見たのです。民衆の声、世論によって、王が立てられていく。民衆は、利口で若い王のことを喜び祝ったことでしょう。しかし、時が経つにつれ、この少年のことを喜び祝う者はだれもいなくなるのです。ちょうど、エジプト人が多くの命を救ったヨセフのことを忘れてしまったように、民衆は少年のことも忘れてしまうのです(出エジプト1:8参照)。民衆に喜び祝われた王も、何世代か過ぎれば忘れられてしまう。そのような束の間の王権を思って、コヘレトは、「これまた空しく、風を追うようなことだ」と言うのです。

 今夕の説教題を「束の間の王権」としました。旧約聖書の『列王記』には、北王国イスラエルの王様と南王国ユダの王様の治世の移り変わりが記されています。束の間の王権が年代順に記されています。けれども、南王国ユダの王権について言えば、ダビデの子孫たちが王となる連続性があります。その背後には、ダビデの王権がとこしえに続くという主の約束、いわゆるダビデ契約があります。預言者ナタンは、ダビデに、こう言いました。「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(サムエル下7:11、12)。また、次のようにも言われました。「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」(サムエル下7:16)。この主の約束の実現として、ユダ王国はダビデの子孫によって統治されたのです。そして、ダビデ契約を完全に実現される王として、ダビデの子孫からイエス・キリストがお生まれになったのです。イエス・キリストは、ダビデのような王ではなく、ダビデを越えた御方として、御自分の民を罪と死の支配から解放し、永遠の命を与えてくださいました。イエス・キリストは、十字架のうえで命を捨てることによって、神の敵である悪魔を滅ぼし、神様の救いを実現してくださったのです。その証拠として、神様は、イエス・キリストを死から三日目に栄光の体で復活させられ、御自分の右の座へとあげられたのです。復活されたイエス・キリストは、弟子たちの前に現れて、こう言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18~20)。復活されたイエス・キリストは、天と地の一切の権能を授けられた王たちの王、主たちの主であるのです。そのことを『使徒言行録』は、「イエス・キリストが天にあげられ、父なる神の右の座に着かれた」と言い表したのです。天の父なる神の右の座に着かれたイエス・キリストは、父なる神様から聖霊を豊かに注がれました。イエス様からしたたり落ちて、その弟子たちに降るほどに、聖霊を豊かに注がれたのです。私たちキリスト者は、父なる神の右の座について、神様から聖霊を豊かに注がれたイエス・キリストをとおして、聖霊を与えられているのです。それゆえ、私たちはイエス様をメシア、キリスト、王と告白することができるのです。神様からあらゆる名にまさる名、主という名をいただいたイエス様を、私たちも「主」と告白する者とされているのです。私たちは、使徒信条において、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と告白します。イエス様は、神の独り子であり、私たちの主であり、キリスト(油注がれた王)であるのです。私たちには、イエス・キリストという王がおられるのです。ウェストミンスター小教理問答は、問26で、「キリストは、どのようにして王職を果たされますか」と問い、次のように告白しています。「キリストが王職を果たされるのは、私たちを御自身に従わせ、治め、守ってくださること、また御自身と私たちとのあらゆる敵を抑えて征服してくださることにおいてです」。キリストは、私たちの王として、聖霊と御言葉によって、私たちを御自身に従わせ、治め、守ってくださいます。また、神の敵である悪魔の働きを抑えて、征服してくださるのです。そのような王であるイエス・キリストが、世の終わりまで、私たちと共にいてくださるのです。父なる神の右に座しておられるイエス・キリストが、聖霊と御言葉において、私たちと共にいてくださるのです。

 イエス様は、『マタイによる福音書』の第18章20節で、こう言われました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。この御言葉は、教会の政治を行う長老たちの会議においても当てはまります。先程、『箴言』の御言葉、「計画は相談しなければ挫折し/多くの助言があれば実現する」という御言葉を読みました。私たち改革派教会は、教会政治として長老主義を採用しています。長老主義の一つの特徴は、物事を会議で決めることです。神様から召され、教会員から選ばれた教師と長老たちが、互いに助言し合って、神様の御心を祈り求めつつ決めるのです。その教師と長老たちから成る会議のただ中に、王であるイエス・キリストは、いてくださるのです。イエス・キリストの名によって教師と長老たちが集まり、会議を行う。その会議のただ中に、イエス・キリストが聖霊において臨在してくださり、その会議を導いてくださる。そのようにして、王であるイエス・キリストは、私たちを従わせ、治め、守ってくださるのです。

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