世に打ち勝つ信仰 2023年2月05日(日曜 朝の礼拝)

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世に打ち勝つ信仰

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 5章1節~5節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
5:2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
5:3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。ヨハネの手紙一 5章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨハネの手紙一』の第5章1節から5節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節から5節までをお読みします。

 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

 1節に、「イエスがメシアであると信じる人」と記されています。また、5節に、「イエスが神の子であると信じる者」と記されています。私たちキリスト者は、イエスがメシアであり、神の子であると信じる者であるのです。そのことは、『マタイによる福音書』の第16章で、ペトロが言い表したことです。フィリポ・カイサリア地方で、イエス様は、弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。すると、シモン・ペトロが、弟子たちを代表してこう答えたのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」。このように、キリスト者とは、イエス様をメシアであり、神の子であると告白する者であるのです。ちなみに、「メシア」と訳されているギリシャ語は「キリスト」です。新共同訳聖書は、「キリスト」というギリシャ語を、ヘブライ語の「メシア」と訳しているのです。新共同訳聖書は、旧約との連続性を表すために、称号としての「キリスト」を「メシア」と訳しているのです(ちなみに固有名詞としてのキリストはキリストと訳している)。ヘブライ語では「メシア」であり、ギリシア語では「キリスト」ですが、これはどちらも「油を注がれた者」を意味します。イスラエルでは、預言者や祭司や王になる人の頭に油を注ぎました。イエス様は、お一人で預言者と祭司と王の務めを果たされる究極的なメシア、救い主であるのです。

 私たちキリスト者は皆、イエスがメシアであると信じています。また、イエスが神の子であると信じています。なぜ、多くの人が信じていないのに、私たちはイエスがメシアであり、神の子であると信じているのでしょうか。ヨハネは、その理由を、私たちが「神から生まれた者だからである」と記します。『ヨハネによる福音書』の第1章12節と13節には、こう記されています。新約の163ページです。

 言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 「言」とは、神の独り子であるイエス・キリストのことです。神の独り子であるイエス・キリストを受け入れた人は、神の子となる資格が与えられる。では、人は、自分の力でイエス・キリストを受け入れることができるかと言えば、できません。神によって生まれた人だけが、イエス・キリストを受け入れて、神の子となる資格を与えられるのです。

 『ヨハネによる福音書』の第3章には、イエス様とユダヤ人の議員であるニコデモとの対話が記されています。そこで、イエス様は、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない」(ヨハネ3:5)と教えられました。新たに生まれるとは、上から生まれること、神によって生まれることです。イエス様は、御自分の名によって洗礼を受け、神の霊によって新しく生まれなければ、神の国に入ることはできないと教えられたのです。ニコデモは、ファリサイ派に属しており、神の国に入るには、神の掟を守らねばならないと考えていました。しかし、イエス様は、神の国に入るには、私を信じて洗礼を受け、神の霊によって新しく生まれねばならないと教えられたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の446ページです。

 「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」とあるように、イエス・キリストを信じる私たちは、神から生まれた者です。神様は、イエス・キリストにとどまる私たちの父であられます。その霊的な事実を記した後で、ヨハネはこう記します。「そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」。これは、当時の家族愛を表す言葉のようです。「お父さんとお母さんを愛する人は、そのお父さんとお母さんから生まれた兄弟姉妹をも愛する」。そのような事が言われていたのです。そのような家族愛の教えを真理として、ヨハネは、「このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します」と記すのです。ここで注意したいことは、ヨハネが、「その掟を守るときはいつも」という言葉を、挿入していることです。ヨハネは、「わたしたちが神を愛するときはいつも、神の子供たちを愛します」とは記しませんでした。ヨハネは、「わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します」と記したのです。ヨハネは、愛することを単なる感情ではなく、神の掟と結びつけるわけです。そして、神の掟とは、「互いに愛し合いなさい」という掟であるのです。より正確に言えば、主イエス・キリストが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことであるのです(ヨハネ13:34「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」参照)。神を愛するとは、神の掟を守ることであります。その神の掟が「互いに愛し合いなさい」という掟であるゆえに、私たちは神の子供たちを愛するのです。神の子供たちとは、主イエス・キリストを信じる兄弟姉妹のことです。私たちが主にある兄弟姉妹として互いに愛し合うのは、私たちが神様を愛して、神様の掟を守っているからであるのです。

 3節に、「神を愛するとは、神の掟を守ることです」と記されています。ある説教者は、その理由を、「私たちが父なる神を愛するとき、そこには尊敬と服従が伴うからである」と説明しています。人間の父親のことを考えても、「お父さん」(父上)という呼びかけには尊敬と服従が伴っています。そうであれば、父なる神様に対して、私たちはなおさら尊敬の念と服従の意志を持つべきであります(ヘブライ12:9「わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか」参照)。神様を「アッバ、父よ」と呼ぶ、神の子とされている私たちは、尊敬と服従が伴った愛をもって、神様の掟を守るべきであるのです。

 「神を愛する者は神の掟を守る」。このことは、イエス様が弟子たちに言われたことでもあります。例えば、『ヨハネによる福音書』の第14章15節で、イエス様はこう言われました。新約の197ページです。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。また、第15章10節では、このようにも言われています。新約の198ページです。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたもわたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」。このイエス様の御言葉は、大切な二つのことを私たちに教えてくれています。一つは、イエス様は御父を愛するゆえに、御父の掟を守られたことです。「神を愛する者は神の掟を守る」ことは、イエス様において完全に実現したのです。二つ目は、神の掟を守ることは、神の愛にとどまるための手段であるということです。このことは、『出エジプト記』の第20章に記されている十の言葉(十戒)のことを考えるとよく分かると思います。十戒の序文は、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」であります。この序文において、神様は、イスラエルの民への御自分の愛を宣言しておられます。その神様の愛の宣言の後で、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」という掟が続くのです。イスラエルの民は、この掟を守ることによって、神様との愛の交わりに留まることができたのです。神様は御自分との愛の交わりに生きるようにと、イスラエルの民に掟を与えられたのです。このことは、主イエス・キリストによって与えられた新しい掟においてはっきりと示されました。なぜなら、主イエス・キリストの掟は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という掟であるからです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の446ページです。

 ヨハネは、「神を愛するとは、神の掟を守ることです」と記した後で、「神の掟は難しいものではありません」と記します。ここで「難しいもの」と訳されている言葉(バルース)は「重荷」とも訳せます(新改訳2017「神の命令は重荷とはなりません」参照)。「神の掟は重荷とはなりません」。そのように聞くと、おそらく多くの人が、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」というイエス・キリストの御言葉を思い起こされると思います(マタイ11:30参照)。なぜ、ヨハネは、「神の掟は難しいものではない。重荷ではない」と記すことができたのでしょうか。それは、私たちが神の掟を、私たちに代わって神の掟を完全に守られたイエス様から受けるからです。神の掟を完全に守られたイエス様の聖霊が、私たちに、助け主(パラクレートス)として与えられているからです。イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という掟を与えられました。私たちが生まれながらにもっている愛で、この掟を守ろうとするならば、この掟は難しいもの(実行不可能なもの)です。しかし、私たちにはイエス・キリストを通して聖霊が与えられています。聖霊において、私たちの心に神の愛が注がれています。ですから、私たちにとって、イエス・キリストの掟は難しいものではないのです(エレミヤが預言した新しい契約の文脈で、イエス・キリストが与えられた新しい掟を理解することが大切である)。

 神の掟は難しいものではない。その理由を、ヨハネはこう記しています。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです」。ここでの「世」は、神様によって造られていながら、神様に背いている世のことです。また、神の敵である悪魔が支配する世のことです(5:19参照)。世は、私たちが神の掟を守ることを妨げます。ですから、ヨハネは、第2章15節と16節で、こう記したのです。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです」。世は、私たちを誘惑し、私たちをイエス・キリストとの交わりから引き離そうとします。目に見えない神様よりも、目に見える豊かな生活を愛するように誘惑します。しかし、「イエスはメシアであり、神の子である」と信じる私たちは、世に打ち勝つ者であるのです。それは、私たちの主であるイエス・キリストが、十字架の死と復活によって、世に打ち勝たれた御方であるからです。イエス様は、弟子たちに対して、こう言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。世に勝っているイエス・キリストを信じるゆえに、私たちも世に勝っているのです。私たちも、ヨハネと声を合わせて、「世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です」と語ることができるのです。このヨハネの勝利宣言は、使徒パウロが『ローマの信徒への手紙』の第8章で記している勝利宣言と響き合うものです。パウロは、「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」と記しました(ローマ8:37)。その輝かしい勝利、神の愛の勝利をヨハネも記しているのです。イエスが神の子であると信じる私たちこそ、世に打ち勝つ勝利者であります。私たちは神の愛の勝利にあずかっている者として、互いに愛し合っているのです(神の愛の勝利にあずかる交わりは、イエス・キリストを信じて、互いに愛し合う交わりである)。

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