愛する者の確信 2023年1月29日(日曜 朝の礼拝)
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愛する者の確信
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの手紙一 4章13節~21節
聖書の言葉
4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。
4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。
4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。ヨハネの手紙一 4章13節~21節
メッセージ
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今朝は、『ヨハネの手紙一』の第4章13節から21節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
前回、私たちは、私たちが神の愛で互いに愛し合うとき、神の愛が私たちの内に全うされていることを学びました。独り子を与えられたほどの神様の愛は、私たちが互いに愛し合うとき、その目標に到達するのです。神様は、独り子イエス・キリストを十字架の死へと引き渡されることによって、御自分の愛と御自分の正しさを示されました。なぜ、神様は、独り子を十字架の死へと引き渡されたのか。それは、神様が愛なる御方であると同時に、正しい御方であるからです。神様の愛と義(正しさ)は、イエス・キリストの十字架によって貫かれました。イエス・キリストの十字架によって示された神様の愛は、神様の正しさに裏打ちされた愛であるのです。そのような神の愛で私たちが互いに愛し合うとき、神の愛は、私たちの交わりにおいて、目標に到達し、全うされるのです。神様の愛は、イエス・キリストにあって、互いに愛し合う交わりを生み出す創造的な愛であるのです。今朝の御言葉はその続きとなります。
13節をお読みします。
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。
私たちが主にある兄弟姉妹として互いに愛し合うとき、私たちは、神様が私たちに御自分の霊を与えてくださったことが分かります。なぜなら、私たちは、聖霊の結ぶ実である愛で、互いに愛し合っているからです。私たちは、神様から与えられた聖霊によって、私たちが神様の内にとどまり、神様も私たちの内にとどまっていることが分かるのです。イエス様は、「わたしが父の内におり、父がわたしのうちにおられる」と言われました(ヨハネ14:10)。それは、「聖霊において、イエス様が御父の内におられ、御父がイエス様の内におられる」ということです(聖霊による相互内在)。そのような神様との親しい交わりが、イエス・キリストの御名によって遣わされた聖霊において、私たちにも実現しているのです。イエス・キリストを信じて、互いに愛し合う私たちは、聖霊において、神様の内にとどまっているのです。また、神様は、イエス・キリストを信じて互いに愛し合う私たちの内にとどまっておられるのです。
14節と15節をお読みします。
わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。
ここでの「わたしたち」は、イエス様の声を耳で聞いて、イエス様のお姿を目で見て、イエス様の体に手で触れたヨハネたちのことです(1:1参照)。ヨハネたちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを信仰の眼(まなこ)で見て、そのことを証ししました(1:2参照)。そのヨハネたちの証しを信じて、私たちは「イエスは神の子である」と公に言い表しているのです。ここでの「イエス」は、ナザレの村で育ち、十字架に磔にされて死んだ、ナザレのイエスのことです。そのナザレのイエスが、神の子である。これは、驚くべき信仰の告白です。十字架に磔にされる。それは、木にかけられた者の死であり、神に呪われて死んだことを意味します(申命21:23参照)。その十字架に磔にされたイエスが神の子であると、私たちは公に言い表しているのです。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストが十字架の死から復活されて、天に上り、私たちに聖霊を遣わしてくださったからです。聖霊において、神様が私たちの内にとどまってくださり、私たちが神様の内にとどまっているからです。神様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたイエス様に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われました(マルコ1:11)。また、神様は、高い山において、ペトロとヤコブとヨハネに、白く輝くイエス様を指して、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と言われました(マルコ9:7)。その神様の霊、イエス・キリストの霊を受けて、十字架のもとにいたローマの百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです(マルコ15:39)。そのような聖霊のお働きによって、私たちも「イエスは神の子である」と公に言い表しているのです。
16節から19節までをお読みします。
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが神を愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
私たちは、イエス・キリストの十字架によって示された神様の愛を自分に対する愛として知り、また信じています。それゆえ、私たちも「神は愛です」と大胆に言うことができるのです。神様は愛ですから、愛にとどまる人は、神様の内にとどまり、神様もその人の内にとどまってくださるのです。神様の愛にとどまるとは、御子イエス・キリストが与えられた、「互いに愛し合いなさい」という掟を守ることです(ヨハネ15:10「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」参照)。私たちが主イエス・キリストの掟を守って、互いに愛し合うならば、私たちの内に神の愛が全うされており、裁きの日に確信を持つことができるのです。ヨハネはその理由を「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです」と記しています。イエス様が神様の御心をいつも行われているように、私たちが互いに愛し合うならば、私たちは神様の御心をいつも行っていると言えるのです。
ヨハネが、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」と記すとき、この御言葉は、誰よりも、私たちの主イエス・キリストに当てはまります。『マタイによる福音書』で、イエス様は、最も重要な掟について、次のように言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37〜39)。イエス様は、全身全霊で神様を愛すること。自分のように隣人を愛すること。この二つで一つの愛の掟が最も重要な掟であると言われました。そして、イエス様は、十字架の死によって、この愛の掟を完全に満たしてくださったのです。なぜ、イエス・キリストは十字架の死を死ぬことができたのでしょうか。それは、イエス様が全身全霊で神様を愛し、自分のように隣人を愛するお方であるからです。そのイエス様が十字架のうえで息を引き取られるとき、どのようなお気持ちであったのでしょうか。イエス様は、死を恐れて息を引き取られたのでしょうか。そうではありません。なぜなら、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出す」からです。そのことは、『ルカによる福音書』を読むと分かります。十字架にかけられたイエス様は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言われて、息を引き取られました(ルカ23:46)。イエス様は、父なる神様との愛の交わりの中で、心安らかに、息を引き取られたのです。
裁きの日の確信について、ヨハネは、これまでにも何度か記しました。第2章28節。「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子の来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません」。第3章21節と22節。「愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです」。そして、今朝の御言葉、第4章16節後半と17節で、ヨハネはこう記します。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます」。このように見ていくと、裁きの日に確信を持つことができる根拠が、私たちが神の掟を守っていることにあることが分かります。私たちは、主イエス・キリストの掟、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という掟を守っているゆえに、裁きの日に確信を持つことができるのです。その確信とは、罪に定められることはないという確信であり、正しい者として受け入れられるという確信です。そして、その確信は、神様の愛を源としているゆえに、文字通り確実であるのです。私たちは、聖霊によって注がれている神の愛で、イエス・キリストの新しい掟、「互いに愛し合いなさい」という掟を守っているのです(ヨハネ13:34「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」参照)。そのようにして、私たちは、イエス・キリストが実現してくださった新しい契約の祝福にあずかっているのです(エゼキエル36:26,27「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」参照)。
20節と21節をお読みします。
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
ここでヨハネは、教会を惑わせていた偽預言者たちのことを念頭においています。偽預言者たちは、主にある兄弟姉妹を憎んでいながら、神様を愛していると主張していました。しかし、ヨハネは、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は偽り者である。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができない」と記します。目に見えない神様への愛は、目に見える兄弟姉妹への愛によって具体的に表されるのです。ヨハネが、「神を愛する人は、兄弟姉妹をも愛すべきである」と記すとき、それは「兄弟姉妹を愛すること」が神から受けた掟であるからです(ここでの文脈では、兄弟姉妹を愛する根拠は、人が神のかたちに似せて造られているからではない)。つまり、ここで前提となっているのは、「わたしを愛する者はわたしの掟を守る」という原理、原則です(ヨハネ14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」参照)。神様を愛しているという人は神様から受けた掟を守るのです。すなわち、神様から受けた掟を守って、兄弟姉妹を愛するのです。その愛の交わりにとどまっているゆえに、私たちは罰を恐れることなく、裁きの日に、大胆に神様の御前に出ることができるのです。神様を愛し、兄弟姉妹を愛する者として、心安らかに、神様の御前に出ることができるのです。それこそ、イエス様のように、神様の御前に出ることができるのです。