このことにより、11節の「母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。」という言葉が出てきます。「あなたはわたしの神です。」(新改訳)と認定していますが、これはダビデの再確認の言葉であるとも言えます。先祖たちと神との関わり、そして今は、自らの存在と神との関わりを想い起こして得られたダビデの結論であり、再確認です。ダビデは窮地の底にあって、神の助けが遠く思われるとき、死の陰の谷(詩編23編)の底において、「あなたはわたしの神」と、その関係を新たに見いだしたのです。英語の聖書の11節は、 ‛from my mother’s womb you have been my God.’ (v.10b;NIV)となっており、 あえて言葉を補って訳してみると「母の胎にあるときからずっと、あなたは私の神です(でした)。」となります。私が生まれる時から今に至るまで、神との関係が変わりなく継続していることを確認しています。「あなたはわたしの神」これは、信仰の更新、契約の更新でもあるわけです。それは、先祖たちと神との関わりに続き、自分の出生から今にいたるまで神が関わってくださっていた、という、変えることのできない事実に基づいている言葉です。これがゆるぎない確信の根拠となります。
対照的な詩編 遠く離れておられる主;22編、近く共におられる主;23編
詩編23編は多くの方にとって親しみのある詩編だと思います。みずみずしく、主にある満ち足りた感覚を覚えます。ところが、繰り返し読んでいて、最初の印象からの深まりがないなあ、と思うことがありました。あるとき、この22編を読み学びますと、続く23編も経験の深いところから湧き出ている詩編であることに気づきました。詩編の編纂者は、もしかしたら意図してこの配列にしたのではないかとも考えています。
この22編については、22節までの前半部と23節以降の後半部に、その内容から区切られます。ここでは、主に前半部について取り上げることにします。本文に入る前に、この詩編の組み立てを見ておきましょう。
Ⅰ 窮地の底での苦難と嘆き、瞑想と祈り
22節までの前半部は、苦難と嘆き、それに続く瞑想(想起)と祈りが交互に3度繰り返される構成になっています。その一つ目は2-6節。2,3節が苦難と嘆き、続く4-6節が瞑想の部分、となります。これが一つ目。二つ目は7-12節、三つ目が13-22節で、三度繰り返されています。それぞれ後半部の瞑想(想起)と祈りの部分は、ダビデの主なる神との関わりにおいて、この詩編を展開する要(かなめ)となっています。それで、三つある苦難と嘆きの部分を先にまとめて見ることにします。そのあと瞑想(想起)と祈りの部分を順にみていきたいと思います。
Ⅱ 神の御業の確信
それから、この詩編の後半部分、23節以下について少しだけ触れておきます。この後半の部分は、この詩編の結語として、神の御業の確信を歌い上げています。23節に「語り伝え」、「賛美します」、26節の「誓いを果たそう」という言葉は、英語訳では 「I will・・・」となっています。「語り伝えます」、「賛美します」、「誓いを果たそう」という言葉は、ダビデの意志、決意を表している言葉になります。この詩編の締めくくりは、ダビデが窮地のただ中で得た信仰の確信の表明なのです。
窮地の底での苦難と嘆き
1 わたしを見捨て、遠く離れておられる主 (2、3節)
ダビデは孤立することをも恐れない信仰の勇士というイメージを私たちは持っていると思います。詩編27編で、主なる神はダビデにとって「命の砦」(詩編27:1)としていて、主が「命の砦」となってくださる。だから「わたしは誰を恐れよう。」(同)と言い表しています。けれども、この22編において、主なる神はダビデから「遠く離れ」、「見捨てられている」状況です。最後の砦、「命の砦」を失って、もはや彼のすべてが見捨てられている事態に陥っています。神に捨てられ、神が遠く離れているダビデの苦難の極みの状況は、ヨブの言葉からも推察できます。ヨブ記からいくつかの言葉を拾い上げてみると、ヨブ記30:17、「夜、わたしの骨は刺すように痛み、わたしをさいなむ病は休むことがない。」 肉体の辛さにとどまらず、ヨブ記30:20-21、「神よ。わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたはご覧にならない。あなたは冷酷になり、御手の力をもってわたしに怒りを表される。」 生きる気力も失せて、ヨブ記30:15「風に吹きさらわれ、私の救いは雲のように消え去った。」 ダビデもまた、窮地の底から精いっぱいの苦悩の叫びを上げています。「わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。」(3節)
2 わたしは虫けら (7-9節)
2節のように「なぜわたしをお見捨てになるのか。」と心の中より発する問いなら、まだ、主の応答を待つ余裕があるのかもしれません。ですが、ここに至って、「わたしを見る人」から「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」という嘲りの言葉を聞くに及んでは、事態は一層深刻な状況です。もはや「わたしは虫けら」と自己評価もこれ以上ないどん底です。どんな苦境に陥っても、「主はわが命の砦」であると確信できるなら、人間としての尊厳はぎりぎり保つことができるでしょう。しかし、主が遠く離れて救おうとされないなかで、周囲の人からの励ましではなく、嘲りの言葉を浴びせられるならば、もはや人間としての尊厳を保つのは、誰であれ難しくなります。人としての価値を自らに見出せない辛さには、もはや嘆くことしか残されていません。「人間の屑、民の恥」は、他人があざけって言っているのではなく、ダビデ自らが自分に発している言葉であるところに、深刻さの極まりが見て取れます。
3 わたしをさいなむ者が取り囲む (13-19節)
精神的な窮地に陥っているうえに、自分の身体も、自分の立場も窮地に陥っていることが、ここで言い表わされています。責め苦にさらされて、「さいなむ者が群がってわたしを取り囲」み(13-14、17-18節)、もはや人としての尊厳を保つ心根、性根も尽きて、「心は胸の中で蝋のように溶ける」(15節)と言っています。「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上あごにはり付く」(16節)と、疲労と極度の緊張を強いられます。「着物を分け、衣を取ろうと」(19節)するというのは、死が迫りつつあることを意味して、さいなむ者が彼の死を待っている、ということを表しています。
窮地の底での瞑想と祈り
つぎに、このような状況下でダビデはどうしたか、を見ていきます。主の前での瞑想(想起)、祈りの部分です。
1 あなたに依り頼んで救い出された民 (4-6節)
ダビデは先祖たちと神との関わりを思いめぐらしています。主はアブラハムと契約を交わされ、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。・・・」(創世記12:1-3) そうして、奴隷の地エジプトから導き出された民に、モーセは神の言葉を伝えました。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」(申命記7:6-8) この他にも、イスラエルの民が神により頼み、救われた出来事、ねんごろに取り扱ってくださった出来事を旧約聖書に見いだすことができます。これは、イスラエルの民の経験であり、神の約束であり、神と共に歩んだ歴史であります。それは、変えようのない経験、変えようのない約束、そして歴史です。そのことをダビデは思い起こし、思いめぐらしています。これが契機、きっかけになって、「あなたに依り頼んで、裏切られることはない。」(6節)という確信に至ります。ただし、この振り返りは、昔の方がよかったと懐かしむのとは違います。葦の海を渡り荒れ野に導かれた民が、現状に不満を抱き、エジプトにいたときの方がよかった、と昔のことを懐かしんで思い起こすのとは違います。自分たちがいい思いをして良かったこと、ではなく、主なる神が民になしてくださった経験、事実です。しかし、この段階でのダビデにとっては、時の隔たり、神との隔たりもまだ大きく残されたままです。
2 あなたはわたしの神です。(10-12節)
ここでは、自分の存在そのものについてダビデは思いめぐらしています。出生の時は、そもそも自分が意志を働かせて生まれてくるわけではありません。その時においてこそ、神の意志、神の思いを見いだすことができます。「わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。」(10節) 私がこの世に生を受けたそのこと自体が、神の変わることのない祝福であり、神が近くいまして御手を伸ばされたしるしなのです。「人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。」(詩編8編)という言葉と相通じるものがあります。
このことにより、11節の「母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。」という言葉が出てきます。「あなたはわたしの神です。」(新改訳)と認定していますが、これはダビデの再確認の言葉であるとも言えます。先祖たちと神との関わり、そして今は、自らの存在と神との関わりを想い起こして得られたダビデの結論であり、再確認です。ダビデは窮地の底にあって、神の助けが遠く思われるとき、死の陰の谷(詩編23編)の底において、「あなたはわたしの神」と、その関係を新たに見いだしたのです。英語の聖書の11節は、 ‛from my mother’s womb you have been my God.’ (v.10b;NIV)となっており、 あえて言葉を補って訳してみると「母の胎にあるときからずっと、あなたは私の神です(でした)。」となります。私が生まれる時から今に至るまで、神との関係が変わりなく継続していることを確認しています。「あなたはわたしの神」これは、信仰の更新、契約の更新でもあるわけです。それは、先祖たちと神との関わりに続き、自分の出生から今にいたるまで神が関わってくださっていた、という、変えることのできない事実に基づいている言葉です。これがゆるぎない確信の根拠となります。
ヴィクトール・E・フランクルという精神科医の著作に『夜と霧』という本があります。読まれた方もいらっしゃると思います。フランクルは第2次世界大戦中、ユダヤ人であったゆえにナチスの手によって強制収容所に送りこまれます。そこで、精神科医の目線で極限状態での人間のふるまいを考察し、終戦後この本を書き著しました。今なお読む人に深い感銘を与え続けている書です。その書で、収容所に入れられて間もない人々の様子を述べているところがあります。それまでの当たり前の人間的な生活から、ある日突然、人間としての価値が全く否定された言語に絶する、家畜と同じような扱いとなる収容所に入れられるのです。人はだれしも収容所の現実を受けとめることができません。それで、この収容所での自分の存在価値を考えることを止めてしまい、それまで大切にしてきた人間的な価値、倫理に生きようとするとしても、絶望しかないのです。その絶望から逃れるために、ただ過去の生活に思いを寄せることによって、現在目の前のことには目を閉じるのがよいと考えるようになります。それは、人間としての価値を今いるところで(この収容所で)表していく可能性まで捨ててしまうこと、と述べています。フランクルは、決してそのような人々を非難して言っているのではなく、心理的な自己防御としての反応の一つであると見ているのだと思います。しかし、フランクルは一方で、次のような光景も記しています。一日の労働が終わり、疲れ切って死んだようにバラックの土間に横たわっているとき、だれかが叫ぶ、日没の光景を見に来いとの声を聞いて、極度の疲労と寒さにもかかわらず、多くの人が夕景を見に集まります。皆が見事な夕空の景色に見入り、感動の沈黙が数分続いたのちに、誰かがこう言っているのをフランクも聞いていました。「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう。」冷たく荒涼とした収容所の施設を目の前にしながら、美しいものに心を開いて、感動を共有する、それをフランクルが次のように言っています。 「一人の人間が避けられ得ない運命と彼に課される苦悩とを自ら引き受けるというやり方の中に、なお、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれている」。つまり、収容所での非人間的な扱いの苦悩の中で、極度の疲労にもかかわらず、なお人は夕焼けの美しさに感動する心を持っている、と言っているのです。さて、ダビデは、フランクルが言う「人間としての存在価値」を保ちえない状況に陥っています。「わたしは虫けら」と嘆く苦難の中にいて、ダビデが見いだしたのは、神との変わらざる関係でした。それを言い表した言葉が「あなたはわたしの神」という言葉です。
c′主よ、あなただけは遠く離れないでください。(20-22節)
今、さいなむ者が取り囲む責め苦の中で、ダビデは、「主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。」(20節)と祈ります。これはただ主が近くいますことだけが、この時のダビデにとって全てであるということを言い表している言葉です。夜の闇の中で不安に陥った幼子が、ただ親がそばにいることだけを求めて、親を呼ぶのと近いものがあります。さらにこの祈りは続きます。「今すぐわたしを助けてください。」(20節)、「救い出してください。」(21節)、「わたしに答えてください。」(22節)必死な状況は変わりないのですが、子供が母親に全面的に信頼して願うのと似て、それまでの悲痛な叫びの懇願とは異なって聞こえてくるようです。「あなたはわたしの神」と主を見いだしたゆえに、主への信頼が呼び戻されています。その信頼ゆえに祈り求めるダビデの言葉です。
まとめ
ダビデが経験したような窮地に陥るとは限りませんが、イスラエルの民が主なる神と共に歩んできた歴史的経験、神がなされた業と約束を、私たちは聖書において想い起すことができます。さらに、私たちのために贖いを成し遂げられたキリストがなされたこと、語られたこと、その後の使徒たちが聖霊に導かれて行い、語ったことをもあわせて、聖書の言葉を想い起し、「あなたはわたしの神」という神との関わりを、時に応じて再確認して歩んでいく一年でありたいと願います。