ひとりよりもふたりが良い 2022年12月11日(日曜 夕方の礼拝)
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ひとりよりもふたりが良い
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- 村田寿和 牧師
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コヘレトの言葉 4章9節~12節
聖書の言葉
4:9 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。
4:10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
4:11 更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして暖まれようか。
4:12 ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。コヘレトの言葉 4章9節~12節
メッセージ
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今夕は、『コヘレトの言葉』の第4章9節から12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
前回学んだ8節で、コヘレトは、友も息子も兄弟もない、ひとりの男のことを記しました。この男は、友を作らず、結婚して子供をもうけず、兄弟とも疎遠でありました。この男は、際限なく労苦し、富を追い求めたのです。ある研究者は、この男のことを孤独な守銭奴(金をためることだけを生きがいにしている人)と呼んでいます。そのようなひとりの男のことを記した後で、コヘレトは、「ひとりよりもふたりが良い」と記すのです。
9節から12節までをお読みします。
ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。
ここでコヘレトは、旅をして働く人のことを念頭においているようです。町から町へ移動する商人(あきんど)のことを考えると分かりやすいと思います。コヘレトは、ひとりで労苦して得る報いよりも、ふたりで共に労苦して得る報いの方が良いと記します。このことは、私たちにもよく分かることではないかと思います。ひとりでは、誰とも労苦を分かち合うことはできませんが、ふたりなら労苦を分かち合い、励まし合うことができます。また、ひとりで報いを得ても、その喜びを誰とも分かち合うことができませんが、二人なら報いを分かち合い、喜び合うことができます。私は先程、旅をしている商人のことを考えたら、分かりやすいと申しました。けれども、9節を結婚の勧めとして解釈する研究者もいるのです。その研究者は、「ひとりよりもふたりが良い」という御言葉に、神様がアダムに言われた御言葉を重ねて聞き取るのです(創世2:19)。そのところを開いて確認したいと思います。旧約の3ページです。
神様は、御自分のかたちに似せて、人をお造りになりました。そして、はじめの人アダムをエデンの園に住まわせ、そこを耕し守るようにされたのです。神様は、アダムに、働くことを命じられたのです。アダムはエデンの園を管理する務めを与えられていたのです。そのアダムに、神様は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われました。そして、神様はアダムのあばら骨から女を造り、アダムと女は「ふたりは一体となる」と言われる夫婦となったのです。アダムと女は、共に労苦し、共に報いを受ける者となりました。しかし、その報いは良いものばかりではありませんでした。なぜなら、アダムと女は、共に罪を犯し、その罪の報いを共に受ける者となったからです。エデンの園においての労働は楽しいものであったと思います。けれども、罪を犯したアダムと女は、エデンの園から追放され、顔に汗を流して、不毛な大地を耕す者となったのです。アダムと女が罪を犯したことによって、労働は苦しみが伴うものとなったのです。アダムと女は、文字通り、共に労苦するものとなりました。二人は、苦しみも喜びも共にする者となったのです(たとえば、カインが産まれた喜びなど)。そのことは、私たちのそれぞれの夫婦においても言えるのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の1038ページです。
「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い」。確かに、この御言葉は、夫婦においても当てはまります。しかし、12節まで読み進みますと、ふたりが三人になりますので、9節から12節全体を夫婦のことだと解釈することは難しいと思います。やはり、旅をしている商人たちというイメージが良いと思います。
旅をしていると、倒れてしまうことがあります。あるいは、穴に落ちてしまうことがあります。そのとき、ひとりでは起き上がれない。あるいは、穴から出ることができないことがあるかも知れません。しかし、一緒に歩んでくれる友がいれば、その友が助け起こしてくれる。その友が穴から引き上げてくれるのです。コヘレトは、「倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ」と記しています。「倒れる」とは、実際に、転んで、地面に倒れてしまうということだけではなくて、さまざまな困難によって心が折れるような体験をも意味しています。皆さんも、それぞれの人生を振り返るときに、倒れるような経験をされていると思います。そのとき、助け起こしてくれた人がいたと思うのです。それは親であるかも知れませんし、友人であるかも知れません。しかし、もし、倒れても起こしてくれる人がいなければ、それはコヘレトに言われるまでもなく、不幸ですね。誰にも相談できない。誰にも助けてと言えない。そのような孤独をかかえて生きている人も多いのではないでしょうか。しかし、私たちには、倒れたときに助け起こしてくださる友がおられます。それが、イエス・キリストです。イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第15章12節から15節で、こう言われました。新約の199ページです。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
イエス様は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われました。そして、弟子である私たちを友と呼んでくださるのです。イエス様は、私たちを友として愛してくださり、十字架のうえで自分の命を捨ててくださったのです。イエス様は、私たちが友のいない不幸を味わうことがないように、私たちの友となってくださいました。イエス様は、聖霊と御言葉において、いつも一緒にいてくださり、私たちを慰め、励まし、力づけてくださる友であるのです。また、イエス様は、私たちに、教会という、主にある友の集まりを備えてくださいました。私たちは、「主にある兄弟姉妹」でありますが、「主にある友」でもあるのです。倒れてしまったら、主にある友に相談して、祈ってもらい、助けてもらう。そのように人生を分かち合って、私たちは生きているのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の1038ページです。
11節に、「更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして暖まれようか」と記されています。ひとりで旅をしていて、夜眠るときなかなか暖まらない。しかし、ふたりで身を寄せて寝れば暖かいのです(列王上1:2参照)。このことも、私たちは体験として知っていると思います。
12節に、「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」と記されています。ここでは、ふたりが三人になっています。旅をしていると強盗などに襲われることがあります。そのとき、三人いれば、ひとりが襲われても、ふたりで立ち向かうことができます。『ルカによる福音書』の第10章に、「善いサマリア人のたとえ」が記されています。その譬え話に出てくる、強盗に襲われて半殺しにされた人も、ひとりであったから立ち向かうことができなかったわけです。ひとりよりもふたりが良い。ふたりよりも三人が良い。このことを説得するために、コヘレトは、一つの格言を記します。「三つよりの糸は切れにくい」。一本の糸はすぐに切れてしまいますが、三つよりの糸はたやすく切れないのです。そして、同じことが困難に直面した私たちにも言えるのです。一人では耐えられないことでも、二人なら、そして、三人なら耐え忍ぶことができるのです。ある研究者は、「ひとりよりもふたりが良い。ふたりよりも三人が良い」というコヘレトの言葉について、このことは、祈りにおいても同じであると言っています。イエス様は、『マタイによる福音書』の第18章19節と20節で、こう言われました。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。私たちは、一人で祈るときよりも、二人または三人で心を合わせて祈るとき、より確かな祝福にあずかることができるのです。