神への信頼 2022年12月11日(日曜 朝の礼拝)

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神への信頼

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 3章19節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、
3:20 心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。
3:21 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、
3:22 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。
3:23 その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
3:24 神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。ヨハネの手紙一 3章19節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨハネの手紙一』の第3章19節から24節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 19節と20節をお読みします。

 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。

 「これによって」とは、直前の18節を受けています。ヨハネは、18節でこう記していました。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」。ヨハネは、私たちが行いをもって誠実に愛し合うならば、自分たちが真理に属していることを知り、神の御前で安心できると言うのです。「真理に属している」とは、「神に属している」ということです。私たちが行いをもって誠実に愛し合うならば、その私たちの内に神の愛がとどまっており、私たちは神様に属していることが分かるのです。それゆえ、私たちは、神様の御前に安心できるのです。「安心できる」と訳されている言葉(ペイソー)の元々の意味は、「納得させる」「説得する」という意味です。私たちは神様の御前に立つと聞けば、恐れや不安を抱くのではないでしょうか。しかし、ヨハネは、私たちが主にある兄弟姉妹として行いをもって誠実に愛し合うならば、自分が神様に属していることを説得させられて、心を安らかにすることができると言うのです(聖書協会共同訳参照)。たとえ、「心に責められることがあろうとも」、私たちは神様の御前で、心を安らかにすることができるのです。「心に責められることがある」とは、いわゆる良心の呵責のことです。私たち人間は、だれもが神のかたちに似せて造られており、その心に律法の要求する事柄が記されています。それゆえ、私たち人間は罪を犯すと、良心の呵責を覚えるのです(ローマ2:15参照)。たとえ誰も見ていなくても、自分のことを知っているもうひとりの自分が責めるのです。そのような心の責めがあったとしても、私たちは、神様の御前に、心を安らかにすることができるのです(ハイデルベルク信仰問答 問60参照)。なぜなら、神様は、私たちの心よりも大きく、すべてをご存じであるからです。私たちの心は、自分の罪を赦せずに、自分を責めるかも知れません。「お前は、キリスト者であると言うけれども、神様の掟に背いて、いつも罪を犯しているではないか。それでも、キリスト者と言えるのか」。このように、私たちの心は、私たちを責めるのです。しかし、神様は、そのような私たちの心よりも大きい御方であり、すべてを知っておられる御方であるのです。神様は、私たちが犯したすべての罪を知っておられます。神様は、私たちが罪深い者であることを知っておられます。そのうえで、神様は、私たちを愛してくださるのです。神様は、イエス・キリストにあって私たちのすべて罪を赦し、御前に正しい者、神の子として受け入れてくださるのです。神様は、私たち人間が罪深い者であることをよく知っておられる。それゆえ、神様は独り子イエス・キリストを救い主として、遣わしてくださったのです。その神様の御前に、私たちは心を安らかにすることができる。たとえ、心に責められることがあろうとも、イエス・キリストの十字架の血潮によって、すべての罪から清められた者として心を安らかにすることができるのです(ウェストミンスター小教理問答 問36参照)。

 21節と22節をお読みします。

 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。

 ヨハネが、「わたしたちは心に責められることがなければ」と記すとき、それは、良心の呵責がない人のことを言っているのではありません。良心の呵責に苦しみながらも、神様の大きな愛を知った人のことを言っているのです。私たちは、イエス・キリストを遣わしてくださり、十字架の死へと引き渡された神様の愛を知ることによって、心に責められることがない神の子とされたのです。イエス・キリストによって示された神の愛を知った私たちは、自分の心の責めからも解き放たれたのです。ですから、私たちは神様の御前で確信を持つことができるのです。「確信」と訳されている言葉(パルレーシア)は、「大胆さ」とも訳すことができます。『ヘブライ人への手紙』の第4章16節に、「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と記されているように、私たちは、大胆に恵みの座に近づくことができるのです。「天の父なる神様」と親しく呼びかけ、祈りをささげることができるのです。そして、その願いを神様は何でもかなえてくださると、ヨハネは言うのです。その理由を、ヨハネは、「わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです」と記します。「神の掟を守り、御心に適うことを行っている人の願いを神はかなえてくださる」。このことは、イエス様によって目を開かれた、生まれつきの盲人が言っていたことでもあります。聖書を開いて確認しましょう。新約の185ページです。

 24節から33節までをお読みします。

 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」

 このように、生まれつき目が見えなかった人は、イエス様が自分の目を見えるようにしてくださったのは、イエス様が神の御心を行う人であるからだと言うのです。そして、事実、イエス様は、いつも神様の御心に適うことを行われる御方であるのです(ヨハネ8:29「わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」参照)。イエス様を殺そうとしていたユダヤ人でさえも、イエス様に罪があると責めることはできなかったのです(ヨハネ8:46「あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか」参照)。イエス様は、神の御心に適うことをいつも行われるゆえに、文字通り心に責められることがありませんでした。それゆえ、イエス様は、確信をもって、神様に祈ることができたのです。神様は、そのようなイエス様の祈りを聞いてくださり、生まれつき盲人であった人の目を見えるようにしてくださったのです。イエス様は、肉体の目だけではなく、心の目を開いてくださり、御自分が神から遣わされた救い主であることを示してくださったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の444ページです。

 「神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられる」。このことは、イエス・キリストに結ばれて神の子とされた私たちにも当てはまります。私たちは、イエス・キリストに結ばれた神の子として、心の責めからも開放され、神の御心に適うことを行う者とされているからです。私たちは、イエス・キリストにあって、神の御前で確信を持って祈ることができる者とされたのです。イエス様は、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」と言われました(ヨハネ16:23)。そのイエス様の御言葉を信じて、私たちは父なる神様に願うことは何でもかなえられるとの確信をもって祈る者とされているのです。私たちがイエス様の名によって祈るとき、父なる神様は、私たちの祈りをイエス様の祈りとして聞いてくださり、かなえてくださるのです(ジュネーブ教会信仰問答 問252参照)。

 23節と24節をお読みします。

 その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった霊によって分かります。

 ヨハネは、22節で、「わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っている」と記しました。その掟とは何か。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」であるのです。細かいことを申しますが、22節の「掟」は複数形で記されています。他方、23節の「掟」は「その掟」とあるように単数形で記されています。神のもろもろの掟を要約する一つの掟、それが「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」であるのです(信仰と愛の掟)。こう聞きますと、「一つの掟ではなくて、二つの掟ではないか」と思われるかも知れません。しかし、神の子イエス・キリストの名を信じることには、その命令に従うことが含まれていますので、神の子イエス・キリストの名を信じることと互いに愛し合うことは一つの掟であるのです(信仰は信じて従う「信従」である)。ここでも、ヨハネは、教会を惑わせていた偽預言者たちを念頭に置いています。偽預言者たちは、イエス・キリストが人となって来られたことを否定していました(4:2参照)。彼らは、主にある兄弟姉妹を愛することなく、教会の交わりから去って行きました(2:19参照)。そのような偽預言者たちを意識しつつ、ヨハネは、「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」と記すのです。偽預言者たちは、その掟を守っていませんでした。しかし、ヨハネの共同体と彼らとの交わりを持っている私たちは、その掟を守っているのです。私たちは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方が命じられたように、互いに愛し合っているのです。それゆえ、私たちは、神の霊である聖霊が私たちの内にとどまっておられることが分かるのです。なぜ、私たちは神の子イエス・キリストの名を信じて、この方が命じられたように互いに愛し合っているのか。それは、私たちの内に、神の霊である聖霊がとどまっておられるからであるのです。私たちは、聖霊のお働きによって神の子イエス・キリストの名を信じて、聖霊のお働きによって互いに愛し合う者とされているのです。私たちは、イエス様を高く上げられ、主という名を与えられた神様の霊によって、「イエスは主である」と告白しているのです(フィリピ2:9、一コリント12:3参照)。また、私たちはイエス様を愛された神様の霊によって、イエス様とその兄弟姉妹を愛する者とされているのです(ヨハネ17:26、ローマ5:5参照)。

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