誠実に愛し合おう 2022年12月04日(日曜 朝の礼拝)
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ヨハネの手紙一 3章11節~18節
聖書の言葉
3:11 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
3:12 カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
3:13 だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。
3:14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
3:15 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
3:17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。
3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。ヨハネの手紙一 3章11節~18節
メッセージ
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今朝は、『ヨハネの手紙一』の第3章11節から18節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
前回学んだ10節にこう記されていました。「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です」。ここには、ヨハネの二元論がよく表れています。ちなみに、「二元論」とは「異なった二つの原理であらゆるものを説明しようとする考え方」のことを言います(デジタル大辞泉)。ヨハネによれば、この世界には、神の子たちと悪魔の子たちしかいないのです。そして、神の子たちと悪魔の子たちを区別する基準は、正しい生活をしているかどうかであるのです。正しい生活とは、神様の掟に従った生活であり、とりわけ、自分の兄弟を愛する生活であるのです。ここでの兄弟は、主イエス・キリストにある兄弟姉妹のことです(マルコ3:34、35参照)。神様を父とし、イエス様を長兄とする兄弟姉妹のことです。ヨハネは、「自分の兄弟を愛さない者は神に属していない」と記しました。その理由が、続く11節に記されています。
11節をお読みします。
なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
「互いに愛し合うこと」。この掟は、第2章7節に記されていた「古い掟」のことです。さらには、『ヨハネによる福音書』の第13章と第15章で、イエス様が弟子たちに命じられた掟のことです。『ヨハネによる福音書』の第13章34節と35節で、イエス様は弟子たちにこう言われました。新約の196ページです。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。
また、第15章12節から14節でも、イエス様は弟子たちにこう言われました。新約の199ページです。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
このイエス様の掟を踏まえて、ヨハネは、「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです」と記したのです。イエス・キリストを信じて洗礼を受けて、教会の一員となった私たちも、「互いに愛し合いなさい」という教えを、初めから聞いているのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の444ページです。
12節と13節をお読みします。
カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。
カインについては、『創世記』の第4章に記されています。カインは、アダムとエバの最初の息子であり、弟のアベルを殺して、地上をさまよう者となります。実際に、聖書を開いて確認しましょう。旧約の5ページです。第4章1節から12節までをお読みします。
さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
アダムとエバから産まれたカインが弟のアベルを殺したことは、アダムとエバの罪がカインにも受け継がれていたことを示しています。罪の支配は、アダムとエバだけではなく、アダムから普通の仕方で産まれてくる全人類に及ぶのです。イエス様を除いた、すべての人が罪を持って産まれて来るのです(詩51:7参照)。カインが弟のアベルを殺したきっかけは、主への献げ物でした。主はアベルとその献げ物に目を留められましたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした。ここで注意したいことは、神様がご覧になったのは献げ物だけではないということです。神様は、「アベルとその献げ物に目を留められ」ました。しかし、「カインとその献げ物には目を留められ」ませんでした。神様が先ずご覧になるのは、献げ物をささげる人の心であるのです。その心が献げ物によって表されるのです。カインは土の実りを主のもとに献げ物として持ってきました。他方、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来ました。アベルは、最上のものを献げたのです。神様は、アベルの心とその心の表れである最上の献げ物に目を留められたのです。しかし、カインの心とその心の表れである献げ物には目を留められませんでした。それで、カインは激しく怒って顔を伏せたのです。カインの激しい怒りは、神様にではなくて、弟のアベルに向けられます。神様は、顔を伏せるカインにこう言われます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。ここで、神様は、カインの罪をほのめかしておられます。さらには、罪が戸口で待ち伏せていると警告を与え、罪を支配するようにお命じになるのです。神様は、カインに「激しい怒りの感情を抑えて罪を犯さないようにしなさい」と言われたのです。しかし、カインは、激しい怒りに身を任せて、弟のアベルを襲って殺してしまうのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の444ページです。
カインは悪い者に属して、自分の兄弟を殺してしまいました。ヨハネによれば、悪魔の子たち、自分の兄弟を愛さない者たちの元祖(最初の人)がカインであるのです。ヨハネは、カインが自分の兄弟を殺した理由について、こう記します。「なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」。悪い者は、正しい者に我慢ができない。それで、悪い者は正しい者を殺してしまうのです。同じことが、イエス様を殺したユダヤ人たちにおいても言えます(ヨハネ3:20参照)。ユダヤ人たちは、イエス様を殺してしまいました。それは、ユダヤ人たちの行いが悪く、イエス様の行いが正しかったからです。神の御心をいつも行うイエス様に、悪い者に属する者たちは我慢ができないのです。そして、同じことが、イエス様を信じる私たちにも言えるのです。イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第15章18節と19節で、弟子たちにこう言われました。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。自分の行いが悪い者は、行いの正しい者を憎む。そのことがカインとアベルの関係に、また、ユダヤ人たちとイエス様の関係に、さらには、世の人々と私たちキリスト者の関係において言えるのです。それゆえ、ヨハネは、「だから、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません」と記すのです。世の人々から憎まれても、イエス・キリストを信じる信仰を捨ててはいけないと言うのです(ヨハネ16:1「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」参照)。
14節と15節をお読みします。
わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第5章24節で、こう言われました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」。このイエス様の御言葉を念頭に置きつつ、ヨハネは、「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています」と記します。そして、その根拠を、「兄弟を愛しているからです」と記すのです。死から命へと移ったことのしるし、それは主にある兄弟姉妹を愛することであるのです。ヨハネが、「愛することのない者は、死にとどまったままです」と記すとき、教会を惑わせていた偽預言者たちのことを念頭に置いています。偽預言者たちは、イエス・キリストが肉となって来られたことを否定していました(4:2参照)。偽預言者たちは、ヨハネの共同体の中から出て行った者たちでありました(2:19参照)。その偽預言者たちも、「自分たちは死から命へと移っている」と主張していたのでしょう。しかし、ヨハネは、主にある兄弟姉妹を愛していない偽預言者たちは、死にとどまったままであると言うのです。
「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」というヨハネの言葉は、極端に思えます。おそらく、ヨハネは、イエス様の山上の説教を念頭に置いているのでしょう。イエス様は、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と言われました(マタイ5:28)。それと同じように、「兄弟を憎む者は、既に心の中で、その兄弟を殺してしまっている」と言えるのです(マタイ5:21、22参照)。ヨハネは、「あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません」と記します。永遠の命とは、御父と御子イエス・キリストとの交わりですから、兄弟を憎む者に、永遠の命がとどまっていないことは自明の理であるのです(自明とは「証明するまでもなく明かであること。わかりきっていること」の意味)。
16節から18節までをお読みします。
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しないものがあれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
ヨハネは、兄弟を愛する者として、イエス様のことを記します。十字架の死から復活されたイエス・キリストは、弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼ばれました(ヨハネ20:17「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と』」参照)。イエス様は、弟であり、妹である私たちのために、命を捨ててくださいました(ヨハネ10:10、11参照)。そのことによって、私たちは愛を知ったのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われたイエス様の大きな愛を、私たちは、自分に対する愛として知ったのです(ヨハネ15:13)。私たちの兄であり、友であるイエス様の大きな愛が、聖霊において私たちの内にとどまっているのです。それゆえ、私たちも兄弟のために命を捨てるべきであるのです。イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とお命じになりました。イエス様が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うとは、兄弟姉妹のために命を捨てることであるのです(罪は自分のために他者を犠牲にする。愛は他者のために自分を犠牲にする)。兄弟姉妹のために自分の命を捨てることができるほどの愛を、私たちはイエス様からいただいているのです。そうであれば、世の富を持ちながら、兄弟姉妹が貧しく困っているのを見て、憐れみの心を閉ざすことはできません。ヨハネは、「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」と記します。愛が言葉や口先だけのものであれば、それは観念的なものです。わたしは兄弟姉妹のために命を捨てると言っても、そのような状況はなかなかありませんので、どこか抽象的です。しかし、生活に困っている兄弟姉妹に必要なものを与えることは、具体的です。そのような具体的な行いをもって、誠実に愛し合おうと、ヨハネは、私たちに言っているのです。私たちが行いをもって誠実に愛し合うとき、私たちの内に神の愛がとどまっていることが分かります。それは、私たちがイエス様の愛をもって愛し合っているからであるのです。