罪から清めてください 2022年11月27日(日曜 朝の礼拝)
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罪から清めてください
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- 村田寿和 牧師
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詩編 51編1節~21節
聖書の言葉
51:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
51:3 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。
51:4 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。
51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。
51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。
51:10 喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
51:11 わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。
51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。
51:13 御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。
51:15 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。
51:16 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
51:17 主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。
51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。
51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。
51:20 御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。
51:21 そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。詩編 51編1節~21節
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今朝は、『詩編』の第51編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
1節に、「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」と記されています。第51編は、ダビデがウリヤの妻バト・シェバと関係を持ち、そのことを預言者ナタンから叱責されたときに歌われた詩編であります。『サムエル記下』の第11章と第12章を読むと、ダビデが、ウリヤの妻バト・シェバと姦淫の罪を犯し、ウリヤをアンモン人と戦いの最前線に送って殺したこと。主が預言者ナタンを遣わされて、ダビデの罪を叱責されたことが記されています。主は預言者ナタンを通して、ダビデにこう言われました。「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ」(サムエル下12:9)。この主の御言葉を聞いて、ダビデは、「わたしは主に罪を犯した」と言うのです(サムエル下12:13)。ダビデはイスラエルの王でした。王様は、誰よりも主の御言葉に聞き従わねばなりません。しかし、王であるダビデが主の御言葉を侮り、ウリヤの妻であるバト・シェバと関係を持ち、ウリヤを殺して、バト・シェバを自分の妻にするという罪を犯したのです。ダビデは、「姦淫してはならない」(第七戒)、「殺してはならない」(第六戒)、「貪ってはならない」(第十戒)という戒めに背いて罪を犯してしまったのです。しかも、ダビデは、ナタンから叱責されるまで、自分が神様に対して罪を犯していることに気づきませんでした。ダビデは、人の目を気にするだけで、神様のことを忘れていたのです。ダビデは、ナタンから主の御言葉を聞いたとき、愕然としたと思います。主の御前に罪を犯していながら、そのことを気にも留めていなかった自分に愕然としたと思うのです。そのようなダビデの悔い改めの詩編として、私たちは、第51編を読み進めていきたいと思います。
3節から6節までを読みます。
神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
ダビデが、「神よ、わたしを憐れんでください」と願うとき、その「わたし」とは、「神様に背いて罪を犯したわたし」のことです。ダビデは、慈しみ深く、憐れみに富んでおられる神様に、「わたしを憐れんでください」と罪の赦しを願い求めます。また、聖なる神様に、「わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」と願うのです。
5節で、ダビデは改めて、主の御前に自分の罪を告白しています。「あなたに背いたことをわたしは知っています」。この罪の自覚こそ、神様に立ち帰るための第一歩です。ダビデは、ナタンの叱責を受けて、主の御言葉に心を貫かれて、「わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」と告白することができたのです。6節に、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました」と記されています。このダビデの言葉を読むと、ウリヤに対しても罪を犯したではないかと思われるかも知れません。もちろん、ダビデは、ウリヤに対しても罪を犯しました。しかし、ここでダビデが言っていることは、罪とは本来、神様に対するものであるということです。私たちが隣人に対して罪を犯すとき、その罪は神様に対する罪であるのです。ダビデは、ウリヤの妻バト・シェバと姦淫の罪を犯しました。この姦淫の罪は、バト・シェバの夫であるウリヤに対する罪です。そして、この姦淫の罪は、「あなたは姦淫してはならない」(第七戒)という掟を与えられた神様に対する罪であるのです。「あなたに、あなたのみに罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました」というダビデの言葉は、罪とは本来、神様との関係において犯されるものであることを、私たちに教えているのです。ダビデは、自分の罪を認めて、神様の裁きを正しい裁きとして受け入れます。『サムエル記下』の第12章を読むと、ナタンはダビデに、主から与えられる罰についても告げています。主の御言葉を侮り、ヘト人ウリヤを殺して、その妻を自分の妻としたダビデに対して、主は、ダビデの家から剣が去らないこと。ダビデの妻が太陽の下で隣人に渡されることを罰として言い渡すのです。その主の裁きを、ダビデは正しい裁きとして受け入れて、「わたしは主に罪を犯した」と告白するのです。
7節から10節までを読みます。
わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び踊るように。
ここでダビデは、生まれながらに神様の掟に背いてしまう性質があること、いわゆる原罪について告白しています。ダビデは、「母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあった」と言うのです。私たち人間は、誰もが罪を持って生まれて来るのです。8節は翻訳の難しいところです。聖書協会共同訳は、8節を次のように翻訳しています。「あなたは心の奥底に真実を望み/隠された所で知恵を授けてくださいます」。神様は私たちの心の奥底に真実を望まれます。しかし、私たちの心の奥底には偽りの心である罪があるのです。それゆえ、ダビデは、「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください」と願うのです。ヒソプの枝は、祭司が清めの儀式をするときに用いたものです。例えば、死者に触れて汚れを受けた人を清めるとき、祭司はヒソプの枝を水に浸して、水を振りかけました(民数19:18参照)。そのような祭儀的な清めに例えて、ダビデは、罪からの清めを願い求めるのです。ダビデは、神様に罪を赦され、罪から清められて、神様との親しい交わりに再び生きることができるようにと願うのです。10節に、「喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び踊るように」と記されています。ダビデは、神様に罪を赦されて、神様を礼拝する喜びにあずかることを祈り求めているのです。
11節から15節までを読みます。
わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。
ダビデは、罪の赦しと罪からの清めを願い求めるだけではなく、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と願います。ダビデは、「自分は母の胎内に宿ったときから罪の内にあった」と言いました(7節参照)。しかし、神様は人間の心の奥底に真実を求める御方であります。それゆえ、ダビデは「神様がわたしの内に清い心を創造してください。新しく確かな霊、罪の誘惑にも負けない霊を授けてください」と願うのです。「新しく確かな霊」とは、神の霊である聖霊のことです。その聖霊によって、神様が私たちの内に清い心を創造してくださいとダビデは願うのです(「創造し」と訳されるヘブライ語の「バーラー」は、神様だけを主語とする言葉である)。ダビデは、サムエルから油を注がれた者として、聖なる霊を授けられていました(サムエル上16:13「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」参照)。それゆえ、ダビデは、「御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください」とも願うのです。ここでダビデは、サウル王のことを念頭に置いていたのかも知れません。ダビデに先立って、サウルはサムエルから油を注がれていました。サウルにも聖霊が授けられていたのです。しかし、サウルは主の御言葉に聞き従わなかったゆえに、王権を取り上げられてしまいました(サムエル上15章参照)。主の霊はサウルから離れ、サウルは悪霊によってさいなまれる者となってしまったのです(サムエル上16:14参照)。そのようなサウルのことを念頭に置きながら、ダビデは、「御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください」と願ったのです。そして、事実、神様は、ダビデから王権を奪うことなく、聖霊を取り上げることはなさいませんでした。それは、神様の一方的な恵みによることであります。神様は、ダビデとその子孫との間に、契約を結んでくださいました。『サムエル記下』の第7章に、ナタンの預言、いわゆるダビデ契約が記されています。そのところを開いて、読みたいと思います。旧約の490ページです。12節から16節までを読みます。
「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」
神様がダビデとその子孫から慈しみを取り去らないのは、神様の一方的な恵みによるのです。そして、このダビデ契約は、ダビデの子孫としてお生まれになるイエス・キリストにおいて実現することになるのです。神様は、ダビデに約束されたように、ダビデの子孫としてお生まれになったイエス・キリストに、とこしえの王権を与えられたのです。イエス様が父なる神様の右に座しておられることは、ダビデ契約の実現であるのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の885ページです。
ダビデは、14節で、「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください」と記します。私たちは聖霊を授けられていても、罪を犯してしまいます。罪を犯すことにより、聖霊がまるで消えてしまったかのように思えることもあるのです(一テサロニケ5:19参照)。しかし、私たちは、ダビデの子孫であるイエス・キリストを通して聖霊を授けられているゆえに、聖霊を取り上げられることは決してないのです。神様は、ダビデに誓われた契約の真実のゆえに、御救いの喜びを私たちに再び味わわせてくださり、自由の霊によって支えてくださいます。「自由の霊」の「自由」とは神様に従う自由、罪を犯さない自由のことです。神様は、罪の奴隷として生まれて来た私たちを、イエス・キリストの十字架の血潮によって贖い、自由な霊を与え、神の子としてくださいました(ローマ8章参照)。それは、私たちが、神様に背いている者たちに、神様の道を教えるためであるのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われたイエス・キリストの福音を宣べ伝えるためであるのです(ヨハネ14:6参照)。
16節から19節までを読みます。
神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、わたしの唇を開いてください。この口はあなたの賛美を歌います。もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。
神様は、イスラエルに罪の赦しを与えるために、動物を犠牲としてささげる儀式律法を与えられました(レビ1~7章参照)。神様は、動物犠牲を命じることによって、罪の刑罰は死であり、罪は血(命)によって贖われることを教えられたのです(レビ17:11参照)。この動物犠牲は、だんだんと形式化していきました(詩50:13参照)。人々は、自分の犯した罪を悲しみ、悔いることなく、動物をささげるようになっていたのです。それゆえ、ダビデは、こう言うのです。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」。動物犠牲は、究極的には、世の罪を取り除く神の小羊、イエス・キリストを指し示すものでした。そのイエス・キリストの御名によって、私たちは、主の日の礼拝ごとに、罪を告白しているのです。声を合わせて、「私たちは、あなたの聖なる戒めに従わず、失われた羊のように御前から迷い出、思いと言葉と行いにおいて、罪を犯し、あなたの御怒りを招いたことを深く悲しんでおります」と言います。そのとき、私は、ふと思うのです。「本当に私は深く悲しんでいるだろうか」。もし、私たちが自分の罪を深く悲しむことなく、告白しているならば、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」というダビデの言葉を、心に刻みたいと思います。
20節と21節を読みます。
御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。
20節と21節は、後の時代に付け加えられた文章であると考えられています。紀元前587年に、バビロン帝国によって、エルサレムの神殿と城壁は破壊されました。そのエルサレムの神殿と城壁が再建されて、動物犠牲が再びささげられるようにとの願いが、付け加えられたと考えられています。ここで預言されている、神様に喜ばれる正しいいけにえ、焼き尽くす完全な献げ物も、究極的には、イエス・キリストにおいて実現しました。『ヘブライ人への手紙』が教えているように、永遠の大祭司であるイエス・キリストは、十字架において御自分の命を永遠の贖いとしてささげられたのです。そして、この預言の言葉は、イエス・キリストを信じる、私たちにおいても実現しています。イエス・キリストの使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第12章1節と2節でこう記しています。新約の291ページです。
兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
イエス・キリストの聖霊によって罪から清められ、自由な神の子とされた私たちは、自分自身を、神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしておささげすることができるのです。