誰のために労苦するのか 2022年11月13日(日曜 夕方の礼拝)
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誰のために労苦するのか
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- 村田寿和 牧師
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コヘレトの言葉 4章4節~8節
聖書の言葉
4:4 人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。
4:5 愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす。
4:6 片手を満たして、憩いを得るのは/両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ。
4:7 わたしは改めて/太陽の下に空しいことがあるのを見た。
4:8 ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで/誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。コヘレトの言葉 4章4節~8節
メッセージ
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月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第4章4節から8節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
4節から6節までをお読みします。
人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす。片方を満たして、憩いを得るのは/両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ。
コヘレトは、「人間が才能と知恵を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった」と記します。これまで、コヘレトは、労苦の結果について記してきました。第2章18節と19節で、コヘレトは、こう記していました。「太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた空しい」。このように労苦の結果について記したコヘレトが、今夕の御言葉では、人間が労苦する動機付けについて記すのです。「なぜ、人間は才能と知恵を尽くして労苦するのか。それは、仲間に対して競争心を燃やしているからだ」とコヘレトは言うのです。ここで「競争心を燃やしている」と訳されている言葉(キンアー)は、「妬み」とも訳せます。聖書協会共同訳では、「それは仲間に対する妬みによるものである」と翻訳しています。「仲間に競争心を燃やすこと」と「仲間を妬むこと」では、随分印象が違います。「仲間に競争心を燃やすこと」は、ライバルが切磋琢磨するような積極的な印象を受けます。けれども、「仲間を妬むこと」は、他人をうらやみ憎む消極的な印象を受けます。どちらにしても、その根底にあるのは、自分と他人を比べて、他人よりも良い生活がしたいという思いでしょう。人間が才能と知恵を尽くして労苦するのは、自分と他人を比べて、他人よりも良い生活をしたいためである。そして、コヘレトは、「これまた空しく、風を追うようなことだ」と言うのです。ここで、コヘレトが言っていることは、真実であると思います。人間が才能と知恵を尽くして労苦する動機付けの一つとして、仲間よりも良い生活をしたいという願望があります。しかし、それがすべてであれば、風を追うような空しいことであるのです。聖書は、神様が人間を御自分のかたちに似せてお造りになったこと(創世1:27参照)。神様が人間を祝福して、労働を命じられたことを教えています(創世1:28参照)。ですから、人間が才能と知恵を尽くして労苦する、おもな動機付けは、「神の栄光をあらわすこと」であるのです(一コリント10:31参照)。神の栄光をあらわすという、おもな動機付けを忘れるならば、どんなに才能と知恵を尽くして労苦しても、空しく、はかない、束の間のことであるのです。
コヘレトは、「仲間に対する妬みによって、労苦するのは空しい」と語りました。では、コヘレトは、何もしないこと、怠惰であることを勧めるのかと言えばそうではありません。コヘレトは、「愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす」と記します。「何もしないで、自分の肉しか食べ物がなくなってしまうような愚か者になるな」とコヘレトは言うのです。このことは、知恵の言葉である『箴言』も教えていることです。例えば、『箴言』の第6章6節から11節にはこう記されています。旧約の997ページです。
怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが/夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食糧を集める。怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ、眠りから起き上がるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ/しばらく手をこまぬいて、また横になる。貧乏は盗賊のように/欠乏は盾を持つ者のように襲う。
この『箴言』の御言葉と同じように、コヘレトは怠惰であること、何もしないことを戒めて、まじめに働くことを勧めているのです。
では、今夕の御言葉に戻ります。旧約の1038ページです。
「愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす」と記して、まじめに働くことを勧めたコヘレトは、続けてこう記します。「片手を満たして、憩いを得るのは/両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ」。これは「働きすぎるな」という戒めですね。「風を追うようなこと」とは、「目的を達成できない空しい努力」を意味します。両手を満たして、なお労苦する。そこには終わりがないわけです。いくらでも仕事はあるのです。ですから、私たちは、コヘレトの知恵の言葉に耳を傾けて、片手を満たして、憩いを得たいと願います。片手を満たして憩いを得る。そのことを生きる知恵として身につけたいと思います。そうでなければ、私たちは労働の奴隷となってしまうのです。神様は、御自分の民であるイスラエルに安息日をお与えになりました。それは、イスラエルの民を労働の奴隷状態から解放して、御自分の安息にあずからせるためであったのです。私たちには、今、週の初めの日である主の日が安息日として与えられています(ウェストミンスター小教理問答問59参照)。週の始めの日ごとに、教会に集い、神様を礼拝して、神様の安息にあずかる。そのような憩いのときを与えられているのです。
コヘレトは、「片手を満たして、憩いを得るのは/両手を満たして、なお労苦するよりも良い」と記しました。続く、7節と8節には、両手を満たして、なお労苦するひとりの男のことが記されています。
7節と8節をお読みします。
わたしは改めて/太陽の下に空しいことがあるのを見た。ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで/誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。
ひとりの男には、友も息子も兄弟もいませんでした。彼は友人を作ろうとせず、結婚して息子をもうけることもなく、兄弟とも疎遠であったのです。彼は仕事一筋の人間で、富を得ることが生きがいであったのです。ある研究者は、彼のことを「孤独な守銭奴(しゅせんど)」と呼んでいます(守銭奴は「金をためることだけを生きがいにしている人」の意味)。また、ある人は、「ワーカホリック(働くことが人生そのものとなっている人。働き過ぎの人。仕事中毒)」と呼んでいます。働いて富を得ることは生活のための手段ですが、この人は働いて富を得ることが人生の目的となっていたのです。手段が目的化していたのです。この男は、「自分の魂に快いものを欠いてまで/誰のために労苦するのか」と思いもせずに、際限なく労苦し、富を追い求めたのです。もし、この男が、立ち止まって、「私は自分の魂に快いものを欠いてまで、誰のために労苦するのか」と思うことができたならば、彼は「片手を満たして、憩いを得る」ことができたでしょう。しかし、彼はそのように思うことなく、際限なく労苦し、富を追い求めるので、コヘレトは、「これまた空しく、不幸なことだ」と言うのです。ここにも、コヘレトの労働観がよく表れています。コヘレトは、労苦することを必ずしも、空しいこと、不幸なこととは言いません。第2章24節で、コヘレトは、こう記していました。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは神の手からいただくもの」。このようにコヘレトは、自分の労苦によって魂を満足させることを、神様からの良い賜物であると理解しているのです。労苦して、生活するだけの富を得て、飲み食いによって魂を満足させて、憩いを得るのは、神様からの良き賜物であるのです。しかし、この男は、神様を抜きにして、際限なく労苦し、富に飽くことがない、貪欲に支配されてしまっていたのです。私たちは、自分の魂に快いものを求めて働いてよいのです。労苦によって得た収入で、自分の魂に快いものを買う。あるいは自分の魂に快いことをする。それは、神様からの賜物であるのです。それゆえ、私たちは、神様のことを忘れることなく、神様に感謝して楽しむのです。
今夕の説教題を「誰のために労苦するのか」と付けました。私たちは、誰のために労苦しているのでしょうか。そう聞かれたら、「自分のため、家族のため」と答えると思います。さらに、私たちは、「隣人のため、神様のため」と答えることができると思います。なぜなら、私たちは労苦して得た富の中から隣人に施しをし、神様に献金をささげているからです。私たちが労苦して得た富の中から献金をささげていることは、私たちが神様のために労苦していることを示しているのです。イエス様は、そのことを、「天に富を積むことである」と言われたのです(マタイ6:20参照)。「私たちはだれのために労苦するのか」。それは、自分のためであり、家族のためであり、隣人のためであり、神様のためであるのです。そのような私たちの労苦に報いて、神様は永遠の憩いを与えてくださいます。今夕は最後に、『ヨハネの黙示録』の第14章13節の御言葉を読んで終わります。新約の468ページです。
また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」霊も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」