わたしたちは神の子
- 日付
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 ヨハネの手紙一 3章1節~3節
3:1 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。ヨハネの手紙一 3章1節~3節
先程は、『ヨハネの手紙一』の第2章28節から第3章3節までを読んでいただきました。前回は第2章28節と29節を中心にしてお話しましたので、今朝は第3章1節から3節までを中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
第3章1節をお読みします。
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、私たちが神の子と呼ばれるほどで、事実またそのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
ここで、ヨハネは、「私たちは神の子である」と記しています。これは、直前の29節を受けてのことです。29節にはこう記されていました。「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです」。ヨハネは、御子イエス・キリストが正しい方であるように、義を行う者も神から生まれた者であると言うのです。神から生まれるとは、水と霊によって新しく生まれることを意味しています。このことは、『ヨハネによる福音書』の第3章で、イエス様が、ユダヤ人の議員であるニコデモに教えられたことです。実際に聖書を開いて確認しましょう。新約の167ページです。
第3章3節で、イエス様はニコデモにこう言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(「新たに」と訳されているアノーセンは「上から」とも訳せる)。また、第3章5節で、こう言われました。「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。イエス様は、神の御子の権威を持って、「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」。「水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない」と言われました。新たに生まれるとは、水と霊によって生まれることであるのです。この「水」とは「洗礼」のことを指しています。「イエス・キリストは神の御子、罪人の救い主です」と公に告白して、洗礼を受ける。そのとき、その人は神の霊である聖霊によって、新しく生まれた者であるのです。私たちも、公に信仰を言い表し洗礼を受けた者として、あるいは、幼児洗礼を受け、公に信仰を言い表した者として、聖霊によって新しく生まれた者であるのです。そのようにして、私たちは神の子とされたのです。『ヨハネによる福音書』の第1章12節に、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と記されていました。神の子となる資格は、「イエス・キリストは神の御子、罪人の救い主である」と公に言い表して、洗礼を受け、聖霊によって新しく生まれるという仕方で与えられるのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の443ページです。
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」。このところを聖書協会共同訳は、次のように翻訳しています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです」。ヨハネは、「私たちが神の子供と呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちに与えてくださったかを考えなさい」と記しているのです。私たちが神の子と呼ばれ、事実、神の子となるために、父なる神様は、私たちに大きな愛を、すばらしい愛を与えてくださったのです(口語訳、新改訳2017も参照)。神様は、私たちを神の子とするために、神の御子を人として遣わしてくださり、御子イエス・キリストを十字架の死へと引き渡されました(4:9参照)。私たちに対する父なる神様の愛は、独り子をお与えになるほどの愛であるのです(ヨハネ3:16参照)。そのような大きな愛を与えられて、私たちは神の子とされたのです。私たちが神の子とされたこと。それは、父なる神様の大きな愛の賜物であるのです。父なる神様は、独り子イエス・キリストをお与えになるほどの愛によって私たちを神の子としてくださり、御自分との親しい交わりに生きる者としてくださったのです。
「私たちは神の子である」。この事実を、世は知りません。イエス・キリストと御父を知らない世に属する人々は、私たちが神の子であることを知らないのです。『ヨハネによる福音書』において、ユダヤ人たちは、イエス様が神の御子であることを知りませんでした。それと同じように、世の人々は、私たちが神の子であることを知らないのです。それは、世の人々がイエス・キリストを遣わされた御父を知らないからであるのです。
2節をお読みします。
愛する者たち、私たちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
ヨハネは再び、イエス・キリストの再臨について記します(2:28参照)。「御子が現れるとき、神の子である私たちは、御子に似た者となる」とヨハネは記すのです。私たちが御子に似た者となる。このことは、神様の最初からの目的でありました。パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第8章29節と30節で、こう記しています。
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
御子に似た者となる。それは、長兄であるイエス様に、その弟であり、妹である私たちが似た者となることであるのです。
「御子が現れるとき、御子に似た者となる」。このことは、肉体において、言うことができます。パウロは、『フィリピの信徒への手紙』の第3章20節と21節で、こう記しています。
わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
このパウロの言葉によれば、御子が現れるとき、私たちは御子と同じ栄光ある体へと変えられるのです。すでに死んでいるならば、御子と同じ栄光ある体で復活させられるのです。復活の体については、『コリントの信徒への手紙一』の第15章に、詳しく記されています。ここは開いて読みたいと思います。新約の322ページです。第15章42節から49節までをお読みします。
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときは弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
私たちの体は、土でできたアダムの似姿であります(創世5:3「アダムは130歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた」参照)。それゆえ、私たちの体は朽ちる、卑しい、弱いものであるのです。しかし、御子が現れるとき、私たちは、天に属するイエス・キリストの似姿へと変えられるのです。それは、朽ちることのない、輝かしい、力強い体であるのです。44節と46節に「霊の体」とあります。霊の体とは「神の霊である聖霊が完全に支配される体」のことです。私たちは、今すでに聖霊を与えられ、神の子とされています。けれども、私たちの内には罪が残っており、神様の掟に完全に従うことができないのです。しかし、聖霊が完全に支配される霊の体に復活するとき、私たちは神様の掟を完全に行うことができるのです。イエス様は、いつも神様の御心に適う正しいことを行われました(ヨハネ8:29参照)。そのイエス様と同じように、私たちはいつも神様の御心に適う正しいことを行う者となるのです。私たちは、体が御子イエス・キリストに似た者となるだけではなくて、存在そのものが御子イエス・キリストに似た者となるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の443ページです。
「御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています」。その理由をヨハネは、「なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」と記します。ここには、「人は見たものに似たものとなる」という考え方があります。私たちは、イエス様のお姿を、また、そのお顔を見たことはありません。聖書と聖霊が証しするイエス・キリストを信じておりますが、そのお姿を見たことはないのです。しかし、御子が現れるとき、私たちは栄光の体に変えられて、御子イエス・キリストをありのままに見ることができるのです。「ありのままに見る」とは、どういうことでしょうか。それを知る手がかりが、『ヨハネによる福音書』の第17章24節の御言葉にあります。イエス様は、そこでこう祈られました。
「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」
御子をありのままに見るとは、天地創造の前から持っておられる、神の栄光に満ちた御方として御子イエス・キリストを見ることであるのです(マルコ9章の「山上の変貌」を参照)。
3節をお読みします。
御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
「この望み」とは、「御子が現れるとき、御子をありのままに見て、御子に似た者となるという望み」のことです。御子が現れるとき、御子をありのままに見て、御子に似た者となる。これこそ、神の子とされている私たちの望みであるのです。そのことに望みをかけている私たちは、御子が清いように、自分を清めるべきであるのです。自分を清めるとは、罪を犯さないようにするということです。御子イエス・キリストは罪を犯しませんでした(ヨハネ8:46参照)。その御子イエス・キリストのように、私たちも罪を犯さないようにすべきであるのです。
その昔、神様は、シナイ山でイスラエルの民にお会いするに先立って、モーセに、民を聖別するようにお命じになりました(出エジプト19:14参照)。イスラエルの民は、モーセの言葉に従い、衣服を洗い、女から遠ざかり、自分を聖別して、神様にお会いする準備をしたのです。それと同じようなことが、私たちにも求められているのです。御子に望みをかけている私たちは、御子イエス・キリストにお会いする備えを、今、この地上ですべきであるのです。そして、その備えとは、御子が清いように、自分を清めること。神の掟に背かないようにすることであるのです。以前、私は説教において、「私たちの罪の贖うために、イエス・キリストが命を捨ててくださったことに思いを向けるならば、私たちは罪を犯さないようにしようと決意することができる」と申しました。これは言わば、私たちの心の目を過去に起こった出来事に向けることであります。しかし、今朝の御言葉では、私たちの心の目を将来に向けて、御子をありのままに見ることを待ち望みつつ、罪を犯さないようにしようと決意することが求められているのです。
御子が来られるとき、御子をありのままに見て、御子に似た者とされる。そう聞いて、それなら、この地上では欲望のままに罪を犯してもよいではないかと思うかも知れません。しかし、そうではないのです。なぜなら、私たちは父なる神様の大きな愛をいただいて、既に神の子とされているからです。神の子である私たちは、御子に似た者となることを待ち望みながら、この地上をイエス様が歩まれたように歩んでいくのです(2:6参照)。私たちの罪のために十字架の死を死んでくださった御子イエス・キリストが、再び天から来てくださる。そのイエス・キリストにお会いする備えとして、私たちはいつも御子の内にとどまり、御子が清いように、自分を清めて歩んでいきたいと願います。