御子の内にとどまりなさい 2022年10月30日(日曜 朝の礼拝)
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御子の内にとどまりなさい
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの手紙一 2章22節~27節
聖書の言葉
2:22偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
2:23 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。
2:24 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。
2:25 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
2:26 以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。
2:27 しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。ヨハネの手紙一 2章22節~27節
メッセージ
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先程は、『ヨハネの手紙一』の第2章18節から27節までをお読みしました。今朝は、22節から27節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
22節と23節をお読みします。
偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。
ここで、ヨハネは、教会を惑わせている偽預言者たちについて記しています。偽預言者たちは、教会の交わりから去って行っただけではなく、教会の交わりにとどまっている人たちを、惑わそうとしていたのです(2:26参照)。偽預言者たちは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表しませんでした(4:2参照)。彼らは、イエス・キリストの神性(神の性質)を重んじるあまり、イエス・キリストが人となったことを否定していたのです。偽預言者たちは、「イエス・キリストは人となったように見えただけであり、純粋な霊であった」と主張していたのです。偽預言者たちは、人となられた神の御子であるイエスが、メシア、キリストであることを否定していたのです。新共同訳聖書は「メシア」と翻訳していますが、元の言葉は「キリスト」と記されています(正確にはクリストス)。聖書協会共同訳は「キリスト」と翻訳しています。メシア、キリストは、どちらも「油を注がれた者」という意味です。その昔、イスラエルにおいて、ある人を王の職務につけるとき、その人の頭に油を注ぐ儀式をしました。王になる人の頭に油を注ぐことによって、神の霊、聖霊が注がれたことを見えるかたちで表したのです。偽預言者たちは、人のように見えただけの純粋な霊であるイエスがキリストであることは認めていました。しかし、それは、イエスがキリストであることを否定することであるのです。なぜなら、イエスは、神の御子が人となられた御方であるからです。神の御子であり、まことの人であるイエスがキリストである。そのことを公に告白するとき、その人は、真理が証しするとおりに、御子を認めていると言えるのです。ヨハネが、偽預言者たちのことを「御父と御子を認めない者」と呼ぶとき、それは偽預言者たちが御子イエスを、真理が証しするとおりに正しく認めていないからです。人となられた神の御子であるイエス・キリストを公に言い表す者だけが、御父を持っているのです。新共同訳聖書は、「御父に結ばれていません」「御父にも結ばれています」と翻訳していますが、元の言葉を直訳すると「御父を持っていない」「御父を持っている」となります。ちなみに、聖書協会共同訳は、23節を次のように翻訳しています。「御子を否定する者は皆、御父を持たず、御子を告白する者は、御父を持っているのです」。「御父を持つ」とは、ヨハネ独自の言葉で、御父との交わりを持つこと、御父を交わりの中で知っていることを意味します。ここで思い起こしたいのは、『ヨハネによる福音書』の第1章12節の御言葉です。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。また、第1章14節にはこう記されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。言が肉となった御方、それがイエス・キリストであります。そのイエス・キリストを受け入れる人々は、神の子となる資格(特権)が与えられるのです。ですから、御子を公に言い表す人は、御父を持っていると言えるのです。しかし、御子を公に言い表さない人は、御父を持っていないのです。神の子となる資格を与えられるには、真理である御言葉と聖霊が証しするとおりに、御子を告白することが求められるのです。「人間イエスがメシアである」とか、「人間のように見えた霊であるイエスがメシアである」と告白しても、だめなのです。そのように告白しても、神の子となる資格は与えられず、御父を持つことはできないのです。前回の説教で、私は、『ウェストミンスター小教理問答』の問22と問23から、神と人との二つの区別された性質と神の御子としての一つの人格を持つ、二性一人格のイエス・キリストについてお話ししました。今朝は、私たちが成人洗礼を受け、信仰告白をしたときに、神と教会の前で誓約した「六つの誓約」から、確認したいと思います。第三の誓約で、私たちは、次のように誓約しました。「わたしは、主イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じ、救いのために福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼みます」。私たちは、イエス・キリストをどのような御方として信じているのか。それは、「神の御子また罪人の救い主として」であります。私たちは、イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じているのです。そして、救いのために福音において提供されているキリストのみを受け入れているのです。「救いのために福音において提供されているキリスト」とは、神の永遠の御子が、罪を別にして、私たちと同じ人となられたイエス・キリストのことです。私たちは、真理である御言葉と聖霊の証しによって、まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼むことを、誓約したのです。そのようにして、私たちは神の子となる資格を与えられ、御父を持つ者とされたのです。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白し、「天にまします我らの父よ」と祈る者とされたのです(使徒信条、主の祈りを参照)。
24節と25節をお読みします。
初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
「初めから聞いていたこと」とは、ヨハネが宣べ伝え、小アジアの兄弟姉妹が聞いた、イエス・キリストの福音のことです(1:1参照)。偽預言者たちは、キリストの教えを越えて教えていました(二ヨハネ9参照)。しかし、ヨハネは、初めから聞いていたキリストの教え、イエス・キリストの福音を、心にとどめなさいと言うのです。初めから聞いていたイエス・キリストの福音を心の内にいつもとどめるならば、私たちは御子の内に、また御父の内にいつもとどまることができるのです。そして、これこそ、御子イエス・キリストが約束された約束、永遠の命であるのです(ヨハネ10:27、28「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」参照)。私たちがイエス・キリストの福音を心の内にとどめるならば、私たちは聖霊において御子の内に、また、御父の内にとどまることができるのです。そのようにして、私たちは御父と御子との交わりである永遠の命に生きる者とされているのです。
26節と27節をお読みします。
以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。
前回の説教において、私は、この「油」は私たちを導いて真理をことごとく悟らせてくださる、真理の霊、聖霊であると申しました(2:20、ヨハネ16:13参照)。ここでは、もう一つの解釈を紹介したいと思います。ある研究者は「御子から注がれた油」を、イエス・キリストの御言葉を意味していると解釈しています。ヨハネが、「いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がある」と記すとき、その前提にあるのは、この手紙の読者たちがイエス・キリストの名によって洗礼を受けたことです。洗礼を受けたいと願う人は、その前に一定期間、信仰教育を受けます。洗礼を受ける人は、イエス・キリストの福音を学び、信仰を公に言い表して洗礼を受けるのです。私たちも洗礼を受ける前に、準備教育を受けます。私たちでしたら、六つの誓約について学び、使徒信条、十戒、主の祈りを暗唱するわけです。そして、小会で牧師と長老たちから試問を受けて、礼拝の中で洗礼を受ける、あるいは信仰告白をするのです。その最初に受けた教え、イエス・キリストの御言葉を、ヨハネは「御子から注がれた油」と言っていると解釈するのです。
私は、「御子から注がれた油」を聖霊と御言葉の両方を意味すると理解するのがよいと思います。なぜなら、御言葉と聖霊は一体的な関係にあるからです。イエス様は、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」言われました(ヨハネ6:63)。それゆえ、私たちの内にある御子から注がれた油とは、御子イエス・キリストの御言葉と聖霊であるのです。
誤解のないように申しますが、ここで、ヨハネは、御言葉の教師の存在を否定しているわけではありません。なぜなら、実際、ヨハネは御言葉の教師として、この手紙を記しているからです。ヨハネがここで言いたいことは、真理を真理として悟らせてくださるまことの教師は、御子から注がれた油、イエス・キリストの御言葉と聖霊であるということです。イエス様が、「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と言われたように、私たちのまことの教師は、イエス・キリストの御言葉と聖霊であるのです(マタイ23:10、ウェストミンスター信仰告白1章5節、10節も参照)。
少し具体的に考えてみましょう。もし誰かが、「イエスはただの人間であって、神の子ではない」と言って来たら、どうしますか。おそらく、聖書を開いて、イエス様が神の子であると反論するでしょう。例えば、『ヨハネによる福音書』の第20章を開いて、復活されたイエス様にお会いしたトマスが、「わたしの主、わたしの神よ」と言ったことを示して、「ここに、イエス様が、主であり、神であることが記されている」と反論することができるでしょう。そして、そのように反論することができるのは、私たちが御子から油を注がれているからなのです。イエス・キリストの聖霊と御言葉を与えられているからこそ、私たちは、聖書の御言葉から、イエスはただの人間ではなく、主であり、神の御子であると信じることができるのです。もし、御子から油を注がれていなければ、いくら聖書を示して、真実であると反論しても、真理として受け入れることはできないのです。御子イエス・キリストから油が注がれている。イエス・キリストの聖霊と御言葉が与えられている。それゆえ、私たちは、間違った教えに惑わされることなく、初めから聞いていたことを心にとどめて、御子の内にとどまることができるのです。
ヨハネは、今朝の御言葉の最後で、「だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」と記しています。御子イエス・キリストの内にとどまること。このことは、『ヨハネによる福音書』の第15章で、イエス様が弟子たちにお命じになったことでもあります。今朝は、そのところを読んで終わりたいと思います。新約の198ページです。
『ヨハネによる福音書』の第15章1節から4節までをお読みします。
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
ここで「つながる」と訳されている言葉(メノー)は、「とどまる」とも訳せます。弟子である私たちがイエス様の内にとどまること、それはぶどうの枝がぶどうの木(幹)につながっていることに例えられるのです。ぶどうの枝がぶどうの木(幹)につながっているとき、実を結ぶことができるように、私たちはイエス様の内にとどまっているとき、実を結ぶことができるのです。ここでの「実」は、聖霊の結ぶ実である、愛と喜びと平和などのことです(ガラテヤ5:22参照)。イエス様は、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と言われました。そして、そのことを実現するために、イエス様は私たちに油を注いでくださったのです。しかし、そのことは、私たちが自動的に、何の努力もせずに、イエス・キリストの内にとどまることができることを意味していません。私たちは、御子イエス・キリストから油を注がれている者として、イエス・キリストの福音を心にとどめなくてはならないのです。また、御言葉と共に働く聖霊に、謙虚になって、聞き従わなくてはならないのです。そのとき、私たちは、御子イエス・キリストが約束された約束、永遠の命に豊かにあずかることができるのです(その時と場所が主の日の礼拝である)。