反キリストに警戒せよ 2022年10月23日(日曜 朝の礼拝)
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反キリストに警戒せよ
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの手紙一 2章18節~22節
聖書の言葉
2:18 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。
2:19 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。
2:20 しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。
2:21 わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。
2:22 偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。ヨハネの手紙一 2章18節~22節
メッセージ
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先程は、『ヨハネの手紙一』の第2章18節から27節までを読んでいただきました。今朝は、18節から22節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
18節と19節をお読みします。
子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。
使徒ヨハネは、この手紙の宛先である小アジアの兄弟姉妹に、「子供たちよ」と親しく呼びかけます。そして、「終わりの時が来ている」と言うのです。「終わりの時」とは、ヨハネ独自の言葉ですが、「終わりの日々」を意味します(「終わりの時」は「終わりの時代」の意味)。「終わりの日々が来ている」。このことを、使徒ペトロも、ペンテコステの日の説教において、大胆に語りました。復活されたイエス様が天に昇られてから10日後のペンテコステの日に、聖霊はイエス様の弟子たちに降りました。すると、弟子たちは、いろいろな国の言葉で、神の偉大な業について語り出したのです。ある人は、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲りましたが、ペトロは、その意味するところを、預言者ヨエルを通して言われていたことの実現として解き明かしたのです。ヨエルは、次のように預言していました。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(使徒2:17)。ペトロは、イエス・キリストの弟子たちに神の霊、聖霊が注がれたことにより、終わりの日々が来たことを宣言したのです(「終わりの時」は原文を直訳すると「終わりの日々」となる)。私たちは、ヨハネが「終わりの時」と言っており、「終わりの日」と言っていないことに、注意したいと思います。旧約聖書において、終わりの日は、イスラエルの神ヤハウェが全世界の王として、正しい裁きを行われる日であると考えられていました(イザヤ13:6参照)。預言者たちは、終わりの日を「主の日」と呼び、その日が来ると預言したのです(マラキ3:19~24参照)。そして、主の日は、イエス・キリストが十字架にかけられた日に密かに来たのです。イエス・キリストは、すべての人の罪を担って十字架の死を死んでくださいました。そして、神様は、そのイエス・キリストを死者の中から三日目に栄光の体で復活させられたのです。そのようにして、神様は、イエス・キリストを信じる者に、罪の赦しと永遠の命を与えることを確証してくださったのです。主の日は、イエス・キリストにあって、救いの日として到来したのです。しかし、イエス・キリストによって成し遂げられた救いは、まだ完成していません。私たちはすでに救われていますが、完全に救われているわけではないのです。その救いを完成するために、イエス・キリストは再び来てくださいます(ヘブライ9:28参照)。栄光の人の子として、全世界を裁かれる主として来てくださるのです。その日こそが「終わりの日」であるのです。私たちは、聖霊の時代である終わりの日々を、イエス・キリストが再臨される終わりの日を待ち望みつつ、生きているのです(黙示22:20参照)。
使徒ペトロは、聖霊降臨の出来事によって、終わりの日々が到来したと語りました。そして、ヨハネは、反キリストの出現によって、終わりの時が到来したと語ります。この手紙の宛先である小アジアの兄弟姉妹たちは、終わりの時に、反キリストが現れると聞いていました。これは、おそらく、イエス様の教えを背景にしているのでしょう。『マルコによる福音書』の第13章で、イエス様は、世の終わりについて教えられました。そこで、イエス様は、次のように言われています。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(マルコ13:5)。また、次のようにも言われています。「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」(マルコ13:21、22)。このイエス様の教えを背景にして、ヨハネは、「多くの反キリストが現れていることによって、終わりの時が来ていることが分かる」と言うのです。「反キリスト」という言葉も、ヨハネ独自の言葉です。元の言葉では、「アンチキリスト」となります。アンチは「何々に反対する」という意味です。偽預言者たちは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表しませんでした(4:2参照)。偽預言者たちは、イエス・キリストの神性(神の性質)を重んじるあまり、イエス・キリストは人のように見えただけで、純粋な霊であったと教えていたのです。そのような偽りのキリストを宣べ伝えることによって、彼らはキリストに反対していたのです。しかも、反キリストたちは、ヨハネが牧会する、ヨハネの共同体の中から出て来たのです。自分たちの教会の仲間から、イエス・キリストが肉となって来られたことを否定する反キリストが現れたことは、衝撃的なことです。そのことを、どのように理解したらよいのでしょうか。ヨハネは、「彼らはもともと私たちの仲間ではなかった。彼らはもともと私たちに属する者ではなかった」と言うのです。ここで思い起こしたいのは、イスカリオテのユダのことです。ユダは、十二人のうちの一人であり、人の目には、イエス様に属する者のように見えました。しかし、そのユダが、実はイエス様に属さない者であることが、イエス様を引き渡すことによって明らかになるのです。ユダは悪魔であり、滅びの子であったのです(ヨハネ6:70、17:12参照)。そのユダと同じことが、教会の中から出て来た反キリストたちについても言えるのです。何度も申しますように、この手紙の宛先である小アジアの教会は、教会紛争、教会分裂を経験した教会でした。教会の仲間の中から、イエス・キリストが肉となって来られたことを否定する反キリストたちが出て来たのです。そのとき、「なぜ、教会でそのような争いが起こるのか」と訝る人もいたと思います。しかし、イエス様が選ばれた十二人の中に滅びの子がいたことを考えるならば、それほど訝る必要はないのかも知れません。つまり、教会は、その初めから、滅びの子を含み持っていたということです。イエス様が、天の国のたとえで教えられたように、教会という麦畑には、良い麦ばかりではなく、毒麦も一緒に育っているのです(マタイ13章参照)。反キリストたちは、ヨハネたちの交わりから去って行きました。彼らはヨハネたちの交わりから去っていくことによって、自分たちが神に属していないことを明らかにしたのです。なぜなら、ヨハネたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりであるからです(1:3参照)。反キリストたちは、ヨハネたちの交わり、御父と御子イエス・キリストとの交わりから去って行くことによって、自分たちが、神に属する者ではなく、世に属する者であることを明らかにしたのです(4:5参照)。
20節から22節までをお読みします。
しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とはイエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
ヨハネが、「あなたがたは聖なる方から油を注がれている」と記すとき、「聖なる方」とは「神様」、もしくは「イエス・キリスト」を指しています。また、「油」とは「神の霊、聖霊」のことを指しています。『ヨハネによる福音書』を読むと、父なる神様がイエス・キリストの御名によって聖霊を遣わしてくださると記されています(ヨハネ14:26参照)。また、イエス・キリストが御父のもとから聖霊を遣わしてくださると記されています(15:26参照)。父なる神様も、イエス様も聖霊を遣わしてくださる御方であるのです。ただし、そこで大切なことは、父なる神様は、必ず、イエス・キリストを通して聖霊を注いでくださるということです。ペンテコステの日に、イエス・キリストの弟子たちだけに、聖霊が注がれたことは、そのことを意味しているのです。「イエスがメシア、油注がれた者である」と告白する私たちにも、油が注がれています。油と言われる聖霊は、真理の霊であり、私たちを導いて真理をことごとく悟らせてくださる御方であります(ヨハネ16:13参照)。それゆえ、私たちも皆、真理を知っているのです。私たちは、聖霊を持っており、真理を知っているからこそ、人となられた神の御子、イエス・キリストを信じているのです。
反キリストと呼ばれている偽預言者たちは、間違ったイエス・キリストを宣べ伝えていました。彼らは、人のように見えただけの霊であるイエス・キリストを宣べ伝えていたのです。では、聖書が教えているイエス・キリストとは、どのような御方なのでしょうか。そのことを、『ウェストミンスター小教理問答』から確認したいと思います。
問21 神の選民のあがない主とは、どなたですか。
答 神の選民の唯一のあがない主は、主イエス・キリストです。このかたは、神の永遠の御子でありつつ人となられました。それで、当時も今もいつまでも、二つの区別された性質、一つの人格をもつ、神また人であり続けられます。
問22 キリストは、神の御子でありつつ、どのようにして人になられたのですか。
答 神の御子キリストが人になられたのは、聖霊の御力によって処女マリアの胎に宿り・彼女から生まれながらも・罪はないという仕方で、真実の体と理性的霊魂をおとりになることによってでした。
まことの神であり、まことの人であるイエス・キリスト。神性と人性という二つの性質と、神の御子としての一つの人格を持つ、二性一人格のイエス・キリストこそ、聖書と聖霊が証しするイエス・キリストであるのです。
ヨハネは、「すべて偽りは真理から生じないことを知っている」と記すことにより、イエスがメシア(キリスト)であることを否定し、御父と御子を認めない、反キリストたちが、真理の霊である聖霊を持っていないことをほのめかしています。偽預言者たちは、まことの神であり、まことの人であるイエスがメシア(キリスト)であることを否定していました。偽預言者たちは、イエス・キリストが人となって来られたことを否定していたのです。それゆえ、彼らは御父をも認めない者であるのです。聖書と聖霊が証しするイエス・キリスト、人となられた神の御子であるイエス・キリストを認めるとき、その人は、御父をも認める者となるのです。なぜなら、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」からです(ヨハネ1:18)。人となられた神の御子であるイエス・キリストを正しく知ることなくして、御父を正しく知ることはできません。それゆえ、イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第14章6節と7節で、こう言われたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」。イエス・キリストを知る人は、御父をも知ることができます。そして、そのイエス・キリストとは、神の御子であり、まことの人であるイエス・キリストであるのです。私たちと同じ肉体を持った、十字架の上で血を流されたイエス・キリストであるのです(5:6参照)。
今朝の説教題を「反キリストに警戒せよ」としました。現代の日本で活発なキリスト教の異端(間違った教え)は、エホバの証人であります。エホバの証人は、イエス・キリストを神の子と言いますが、イエス・キリストが父なる神様と同質・同等であることを認めません(『讃美歌21』の147ページ、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」の「父と同質であって」を参照)。エホバの証人の教えによれば、イエス・キリストは最初の被造物という意味で神の子であるのです。エホバの証人は、二性一人格のイエス・キリストを否定し、三位一体の神を否定する異端(間違った教え)であるのです。そのことを心に留めるとき、「反キリストに警戒せよ」という言葉が、私たちに無関係ではないことが分かります。二性一人格のイエス・キリストと三位一体の神を否定する教えは間違った教え、異端です。そのような間違った教えに惑わされることがないように、私たちは聖書と聖霊が証しする二性一人格のイエス・キリストと三位一体の神を信じて歩んで行きたいと願います。