世を愛してはいけません 2022年10月16日(日曜 朝の礼拝)
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世を愛してはいけません
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの手紙一 2章12節~17節
聖書の言葉
2:12 子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/イエスの名によって/あなたがたの罪が赦されているからである。
2:13 父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
2:14 子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが強く、/神の言葉があなたがたの内にいつもあり、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
2:15 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。
2:16 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。
2:17 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。ヨハネの手紙一 2章12節~17節
メッセージ
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今朝は、『ヨハネの手紙一』の第2章12節から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
12節から14節までをお読みします。
子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によって/あなたがたの罪が赦されているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
ここで、ヨハネは「子たちよ(子供たちよ)」、「父たちよ」、「若者たちよ」とそれぞれ2回呼びかけて、この手紙の読者である小アジアの教会の兄弟姉妹がどのようなものであるのかを記しています。「子たちよ(子供たちよ)」という呼びかけは、小さな子供たちというよりも、主にある兄弟姉妹を指しています。第2章1節で、ヨハネはこの手紙の読者全体に、「わたしの子たちよ」と呼びかけていました。また、第2章18節でも、ヨハネはこの手紙の読者全体に、「子供たちよ」と呼びかけています。ですから、「子たちよ(子供たちよ)」という呼びかけは、小さな子供たちのことではなくて、この手紙の読者である兄弟姉妹を指しているのです。ヨハネは、小アジアの教会の兄弟姉妹に「子たちよ(子供たちよ)」と呼びかけ、「イエスの名によってあなたがたの罪が赦されている」と記します。また、「あなたがたは御父を知っている」と記します。このことは、羽生栄光教会の兄弟姉妹である私たちにおいても言うことができます。私たちは、イエスの名によって罪を赦されている者であり、御父を知っている者であるのです。
また、ヨハネは「父たちよ」と呼びかけます。ここでの「父たち」は年配の兄弟姉妹を指しているようです。ヨハネは、「子供たちよ」と教会全体に呼びかけた上で、「父たちよ」、「若者たちよ」と世代ごとに呼びかけているのです。ヨハネは、年配の兄弟姉妹に「父たちよ」と呼びかけて、「あなたがたは初めから存在なさる方を知っている」と記します。「初めから存在なさる方」とは、御子イエス・キリストのことです(ヨハネ1:1~3参照)。ヨハネは、年配の兄弟姉妹に、「あなたがたは御子イエス・キリストを知っている」と記すのです。
さらに、ヨハネは「若者たちよ」と呼びかけます。ここでの「若者たち」は、若い兄弟姉妹を指しているようです。ヨハネは13節で、「若者たち」が「悪い者に打ち勝った」と記します。ここでの「悪い者」とは、神の敵である悪魔のことです。ヨハネは、「若者たち」が「悪魔に打ち勝った」と記すのです。しかし、それは、彼ら自身の力によるのではありません。といいますのも、14節でヨハネはこう記しているからです。「あなたがたは強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」。若者たちの強さの源、それは彼らの内にいつもある神の言葉にあるのです。若者たちの内に、神の言葉がいつもあるゆえに、彼らは強く、悪魔に打ち勝つことができるのです。このことは、イエス様がお受けになった荒野の誘惑のことを思い起こすならば、よく分かると思います。『マタイによる福音書』の第4章1節から11節までをお読みします。新約の4ページです。
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
イエス様は、悪魔の誘惑を、神の言葉、聖書の言葉によって、退けられました(申命記8:3、6:16、6:13)。イエス様は、御自分の内にある神の言葉によって、悪魔の誘惑を退け、悪魔に勝利されたのです。悪魔は、イエス様を「神の子なら」と言って誘惑しました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞いたイエス様に、40日間断食して空腹なイエス様に、「神の子なら、石がパンになるように命じてみよ」と誘惑したのです。悪魔は、イエス様に神の子としての超自然的な力を自分のために用いるようにと誘惑したのです。しかし、イエス様は、私たちの救い主として、私たちと同じ立場に身をおいて、神の言葉によって、悪魔の誘惑を退けられました。イエス様は、神の言葉に従うことによって、御自分が神の子であることを示されたのです。そして、このことは、今朝の御言葉でヨハネが「若者たち」に記していることでもあるのです。私たちは、どのようにして、悪魔の誘惑を退けることができるのか。それは、私たちの内にある神の言葉によってであります。私たちは、悪魔の誘惑を退けるために、神の言葉を心の内に蓄えなくてはならないのです(コロサイ3:16「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」参照)。聖書の御言葉を暗唱すること、心の板に刻むことは、悪魔の誘惑に勝利するために、必要不可欠なことであるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の442ページです。
15節から17節までをお読みします。
世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
ヨハネは、イエスの名によって罪を赦され、御父を知っている私たちに、「世も世にあるものも、愛してはいけません」と記します。また、初めから存在なさる方を知っており、神の言葉によって悪い者に打ち勝った私たちに、「世も世にあるものも、愛してはいけません」と記すのです。ここでの「世」は、神様が遣わされた御子イエス・キリストを受け入れない世であり、神の敵である悪魔が支配する世のことです(5:19「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです」参照)。御父を知っている私たち、御父を愛する私たちは、神の敵である悪魔が支配する世と世にあるものを愛してはいけないのです。人は神を愛するか、世を愛するかのどちらかであり、私たちは世ではなく、神を愛する者であるのです(マタイ6:24参照)。なぜなら、私たちは世に属する者ではなく、神に属する者であるからです(ヨハネ15:19「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した」参照)。イエス様は、世に属する者ではなく、神に属する私たちのために、『ヨハネによる福音書』の第17章で次のように祈られました。新約の202ページです。『ヨハネによる福音書』の第17章13節から19節までをお読みします。
しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。
ここで、イエス様は、御自分の弟子である私たちが「世に属していない者」であると語っておられます。イエス様が、世に属していないように、イエス様の弟子である私たちも世に属していないのです。その私たちのために、イエス様は、「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」と祈られたのです。イエス様は、私たちが、世にあって、真理の言葉によって聖なる者、神に属する者として歩むことができるよう祈られたのです。私たちが世にあって、世に染まらず、神の子として生きることを、イエス様は、御父に願われたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の442ページです。
ヨハネは、「世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません」と記します。「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです」。ここでの「世」は、「神の敵である悪魔が支配している世である」と申しました。それは言い換えれば、「神なしの世」、「神ではないものを神とする世」のことです。神などいないと主張して憚らない世、人間が神であるかのように振る舞う現代社会そのものであると言えるのです。ここで、ヨハネは、世の特徴として三つのことを記します。それは「肉の欲、目の欲、生活のおごり」です。「肉の欲」とは、自己中心的な人間の欲望のことです(性欲に限定されないあらゆる貪欲)。自己中心的な人間の欲望は目で見ることによって刺激されます(禁じられた木の実を見た女、バト・シェバの裸を見たダビデなど)。それゆえ、ヨハネは、「肉の欲」に続けて「目の欲」と記すのです。「生活のおごり」とは、お金や財産によって、これから何年も生きることができると考えるおごり高ぶりのことです(ヤコブ5:13~16参照)。そのような肉の欲、目の欲、生活のおごりといった世の誘惑に、私たちは、絶えずさらされているのです。『テモテへの手紙二』の第4章10節に、デマスという人が出てきます。デマスは、この世を愛して、パウロを見捨ててテサロニケに行ってしまいました。デマスは、世を愛して、イエス・キリストへの信仰を捨ててしまったのです。このデマスのようになる危険が、私たちにもあるのです。ですから、ヨハネは、「世も世にあるものも愛してはいけません」と記すのです。また、ヨハネが、「世も世にあるものも愛してはいけません」と記すのは、世も世にある欲も過ぎ去って行くからです(二コリント4:18参照)。このことは、私たちの人生のことを考えても分かります。世も世にある欲も、私たちがこの地上に生きている限りのことです。この世の支配者である悪魔は、束の間の繁栄を与えることはできても、永遠の命を与えることはできないのです(マタイ4:8、9参照)。なぜなら、イエス・キリストは、既に世に勝っている御方であるからです(ヨハネ16:33「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」参照)。そのイエス・キリストが栄光の主として再び来られるとき、この世の支配者である悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれるのです(黙示20:10参照)。世に属する者とは、この地上の生活のことだけを考えて、欲望を満たし、繁栄を楽しもうとする者たちのことです。世に属する者は、まことの神様を知りませんので、この地上のことだけを考えるのです。しかし、神に属する者は、この地上の生活を越えた永遠の視点で物事を考えるのです。この地上の何十年かの人生が永遠を決めるという視点をもって物事を考えるのです。それは、私たちが復活されたイエス・キリストを信じているからです。私たちは、「神の御心を行う人は永遠に生き続けます」という御言葉を真理として受け入れ、神の御心を行って、この地上を歩んでいます。それは、神の御心を行われたイエス・キリストが、十字架の死から復活されて、永遠に生きておられるからです。私たちキリスト者の人生は、この地上の生活だけで終わるのではなくて、死んだ後も続いていくのです。私たちは、主イエス・キリストが再び来られる日に、栄光の体で復活させられ、公に正しい者として受け入れられます。そして、御父とイエス・キリストがおられる新しい天と新しい地に、永遠にとどまることになるのです(黙示21、22章参照)。