虐げられる人を慰める者 2022年10月09日(日曜 夕方の礼拝)

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虐げられる人を慰める者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コヘレトの言葉 4章1節~3節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。
4:2 既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。
4:3 いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。コヘレトの言葉 4章1節~3節

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序.

 月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第4章1節から3節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.虐げられる人の涙

 1節をお読みします。

 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。

 コヘレトは「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」と言います。「虐げる」とは、「むごい扱いをして弱いものを苦しめる。虐待する」ことを意味します(明鏡国語辞典)。力ある者からむごい扱いを受けて苦しめられている弱い人の涙を、コヘレトは「見よ」と言うのです。ここで、コヘレトは、もはやイスラエルの王として語っていません。なぜなら、王は虐げられている人を保護する責任を負っていたからです。しかし、コヘレトは、虐げられる人の涙を見ても何もせず、「彼らを慰める者はない」と言うのです。ここでのコヘレトは、第2章で自分のために大事業を起こした王というよりも、私たちと同じ無力な人間として語っています。現代の世界においても、虐げられている人がたくさんいます。その虐げられている人たちに、私たちは何ができるでしょうか。私たちも「彼らを慰める者はない」と言わざるを得ないのではないかと思うのです。「虐げられる人の涙」と聞いて、皆さんは、どのような人の姿を心に思い描くでしょうか。私は、『ヨブ記』の第24章の御言葉を思い起こしました。そのところを開いて、読みたいと思います。旧約の806ページです。1節から12節までをお読みします。

 なぜ、全能者のもとには/さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が/神の日を見ることができないのか。人は地境を移し/家畜の群れを奪って自分のものとし/みなしごのろばを連れ去り/やもめの牛を質草に取る。乏しい人々は道から押しのけられ/この地の貧しい人々は身を隠す。彼らは野ろばのように/荒れ野に出て労し、食べ物を求め/荒れ地で子に食べさせるパンを捜す。自分のものでもない畑で刈り入れをさせられ/悪人のぶどう畑で残った房を集める。着る物もなく裸で夜を過ごし/寒さを防ぐための覆いもない。山で激しい雨にぬれても/身を避ける所もなく、岩にすがる。父のない子は母の胸から引き離され/貧しい人の乳飲み子は人質に取られる。彼らは身にまとう物もなく、裸で歩き/麦束を運びながら自分は飢え/並び立つオリーブの間で油を搾り/搾り場でふどうを踏みながらも渇く。町では、死にゆく人々が呻き/刺し貫かれた人々があえいでいるが/神はその惨状に心を留めてくださらない。

 ここには、コヘレトが見たであろう虐げられている人たちの姿が記されています。ヨブは「神はその惨状に心を留めてくださらない」と語ります。そして、コヘレトは、「慰める者はない」と語るのです。虐げられている人を励まし、力づける者はいない。また、虐げる者の力から、保護してくれる人もいないのです。それがコヘレトが生きている社会の現実であるのです。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の1038ページです。

2.痛烈な社会批判

 2節と3節をお読みします。

 既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。

 虐げられている人々を慰める者がいない世にあって、コヘレトは、「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりも幸いだ」と言います。既に死んだ人が幸いであると思えるほど、生きていくことは苦しいことであるのです。これは、痛烈な社会批判の言葉です。普通に考えれば、死んだ人より、生きている人の方が幸いです。しかし、既に死んだ人を幸いと言うほどに、虐げられている人にとって、生きていくことは苦しいことであるのです。さらにコヘレトは、こう言います。「いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」。既に死んだ人。生きている人。生まれて来なかった人。この三者の中で、最も幸福なのは誰でしょうか。コヘレトは、「生まれて来なかった者だ」と言います。なぜなら、生まれて来なかった者は、太陽の下に起こる悪い業を見ていないからです。これも痛烈な社会批判の言葉です。虐げられている者を慰める者がいない社会、虐げられている者を力ある者から保護する者がいない社会は、見るに耐えない悪が行われている社会であり、生きるに値しない社会であるとコヘレトは言うのです。しかし、だからといって、コヘレトは、この社会を変えようとはしません。虐げられている人を、自分が慰めようとはしないのです。また、ヨブのように、神様に訴えることもしません。1節に、「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」とあるように、コヘレトは見るだけであるのです。

 今夕の御言葉を読む時、私たちは、コヘレトの言葉を、「アーメン、そのとおり」と受け入れることはできません。なぜなら、虐げられている人を慰めるために、イエス・キリストが、この世界に来てくださったことを、私たちは知っているからです。イエス・キリストが虐げられている人を慰め、力ある者から保護してくださることを、私たちは信じているからです。ですから、私たちは、コヘレトのように、ただ見ているだけであることは許されないのです。確かに、私たちにできることは小さなことです。私たちにできることは、お祈りをして、わずかなものを施すだけであるかも知れません。しかし、その小さなことを信仰をもって行うことを、イエス様は弟子である私たちに求めておられるのです(マタイ10:42参照)。コヘレトは、「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ」と言いました。これは痛烈な社会批判の言葉であって、コヘレトは本気でそう思っているわけではありません。その証拠に、コヘレトは生きており、飲み食いや労苦を楽しんでいるからです(3:12、13参照)。このコヘレトの言葉は、自分の生まれた日を呪ったヨブやエレミヤの言葉とは、全然違うと思います。ヨブとエレミヤは、自分の生まれた日を呪いました(ヨブ3章、エレミヤ20章参照)。ヨブとエレミヤは、生きていく苦しみから、生まれて来なかった方がよかったと言ったのです。それは自分の体験としての実存的な言葉です。しかし、コヘレトは違います。コヘレトは、太陽の下に行われる虐げのすべてを見て、考察して、「生まれて来なかった者は、悪い業を見ていないので幸福だ」と言ったのです。ですから、私たちは、コヘレトの言葉を痛烈な社会批判の言葉として読むべきであるのです。

3.虐げられる人を慰める者

 私たちが生きている世界にも、虐げられている人たちがいます。目を覆いたくなるような悪が行われています。しかし、そのような世界に私たちは生きているのです。コヘレトがいみじくも言ったように、私たちはそのような世界で「生きて行かなければならない」のです。そのために、イエス・キリストは来てくださいました。神の御子が、私たちと同じ人となって、この世界に来てくださいました。それは、私たちの苦しみを御自分の苦しみとされるためであります(イザヤ63:9「彼らの苦難を常にご自分の苦難とし」参照)。イエス様は、私たちの苦しみを御自分の苦しみとされることによって、私たちを慰め、励まし、力づけてくださるのです。イエス様は、力ある者に虐げられて、十字架に磔にされて死なれました。イエス様を慰める人は誰もいなかったのです。しかし、そのイエス様を、神様が慰めてくださいました。神様は、イエス様を栄光の体で復活させられ、天へとあげられたのです。そのようにして、神様は、御自分が虐げられている人を慰める神であることを示されたのです。使徒パウロが記しているように、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」は「慰めを豊かに与えてくださる神」であるのです(二コリント1:3参照)。慰めを豊かに与えてくださる神が、私たちに二人の慰め主(パラクレートス)、イエス・キリストと聖霊を遣わしてくださったのです(ヨハネ14:16、ローマ8:27、34参照)。

 コヘレトは、「見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない」と言いました。しかし、イエス・キリストを信じる私たちは、虐げられている者を慰めてくださる神様がおられると大胆に言うことができます。「もっと生きていたい。生まれてきてよかった」と、私たちが言えるように、イエス・キリストはこの世界に生まれてくださいました。そして、虐げられている人を慰め、御自分も虐げられて、十字架の上で死んでくださり、三日目に復活してくださったのです。確かに、生まれて来なかったなら、悪い業を見なくて済んだことでしょう。しかし、生まれて来なかったなら、良い業を見ることもできなかったのです。私たちは、生まれて来たからこそ、教会に集い、イエス・キリストの福音を聞き、十字架につけられたイエス・キリストを信仰の目をもって見ることができたのです(ガラテヤ3:1参照)。私たちを造られた神様は、私たちが「生まれて来てよかった」と心から言える世界を、イエス・キリストにあって回復してくださいました。そして、イエス・キリストが再び来られるとき、新しい天と新しい地において、虐げられている人を完全に慰めてくださるのです。今夕は、その約束の御言葉を読んで終わりたいと思います。新約の477ページです。『ヨハネの黙示録』の第21章1節から4節までをお読みします。

 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

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