古くて新しい掟 2022年10月09日(日曜 朝の礼拝)

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古くて新しい掟

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 2章7節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:7 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。
2:8 しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。
2:9 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。
2:10 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。
2:11 しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。ヨハネの手紙一 2章7節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨハネの手紙一』の第2章7節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 7節と8節をお読みします。

 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。

 使徒ヨハネは、この手紙の読者である兄弟姉妹を「愛する者たち」と呼びかけます。使徒ヨハネは、この手紙の読者である兄弟姉妹を愛しているのです。そのことをはっきりと示したうえで、ヨハネは、「新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟」について記します。「新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟」とは何でしょうか。それは、イエス様が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことです。第3章11節にこう記されています。「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです」。また、第3章23節にこう記されています。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」。また、『ヨハネの手紙二』の5節にこう記されています。「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです」。ヨハネは、兄弟姉妹を愛する者として、「互いに愛し合う」という掟について記すのです。なぜ、ヨハネは、「新しい掟ではなく」と記したのでしょうか。それは、教会を惑わせていた偽預言者たちが、キリストの教えを越えて、新しい教えを教えていたからです(二ヨハネ9参照)。偽預言者たちは、「神を知っている自分たちには罪がない、自分たちは罪を犯したことがない」と教えていました。彼らはそのような自分たちの教えを、「新しい教え」として教えていたのです。それで、ヨハネは、「わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です」と記したのです。ヨハネが私たちに書いているのは、キリストの教えを越えた、新しい掟ではなく、キリストの教えである、私たちが初めから受けていた古い掟であるのです。この手紙の宛先である小アジアの教会は、『ヨハネによる福音書』に記されているイエス様の教えを知っていました。この手紙の読者たちは、イエス・キリストの掟、「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」という掟を聞いて、イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、教会の一員とされたのです。私たちも同じですね。私たちもイエス様から「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という掟を、信仰生活の初めから与えられているのです。イエス様が「互いに愛し合いなさい」という掟を弟子たちに与えられたのは、紀元30年頃です。この手紙が執筆されたのが紀元90年頃と考えられていますから、60年も昔のことです。そのような意味で、この掟は「古い掟」であり、既に聞いたことのある言葉です。しかし、ヨハネは、その古い掟を「新しい掟として書いている」と言うのです。ヨハネは7節で、「新しい掟ではなく」と記しました。しかし、8節では「新しい掟として書く」と記すのです。「互いに愛し合いなさい」という掟は、イエスの教えを越える新しい掟ではありません。しかし、イエスの掟であるゆえに、決して廃れることのない新しい掟であるのです。「互いに愛し合いなさい」という掟が「新しい掟」であることは、「イエスにとっても、あなたがたにとっても真実である」とヨハネは記します。そして、その理由を、「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」と記すのです。この御言葉は、『ヨハネによる福音書』の第1章4節と5節を思い起こさせます。そこにはこう記しています。「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。ヨハネが、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」と記すとき、その光とは、人となられた神の御子、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは、十字架の死によって、私たちの救いを成し遂げてくださり、復活され、天の父のもとへ帰られました。そのようにして、闇が去り、まことの光が輝いている、新しい時代が到来したのです。ヨハネが、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の掟を「新しい掟」と呼ぶとき、私たちは、イエス様御自身が「新しい掟を与える」と言われたことを忘れてはなりません。そのことを聖書から確認しましょう。新約の196ページです。『ヨハネによる福音書』第13章34節で、イエス様は弟子たちにこう言われます。

 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 このようにイエス様は、「互いに愛し合いなさい」という掟を「新しい掟」として与えられたのです。「新しい掟」について考えるとき、私は、イエス様が新しい契約を実現された御方であることと結びつけて考えるのがよいと思います。「新しい掟」とは、イエス・キリストにおいて実現した新しい契約の民に与えられている掟であるということです。新しい契約については、『エレミヤ書』の第31章に記されています。そこには、神様がイスラエルの家と新しい契約を結ばれること。そして、新しい契約は、神様が御自分の民の胸の中に律法を授け、彼らの心にそれを記すことによって結ばれると記されています。また、『エゼキエル書』の第36章を読むと、新しい契約においては、神様が御自分の民に新しい心と霊を与えてくださり、掟に従って歩むことができるようにしてくださると記されています。『エレミヤ書』の第31章と『エゼキエル書』の第36章に預言されている新しい契約を、イエス・キリストは、十字架の血潮によって結んでくださいました。『ルカによる福音書』によれば、イエス様は、過越の食事の席において、弟子たちにこう言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20)。また、『ヘブライ人への手紙』の第8章には、エレミヤが預言した新しい契約が、大祭司イエス・キリストにおいて結ばれたことが、はっきりと記されています。イエス様は、新しい契約を結ばれた御方として、弟子である私たちに、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」と言われるのです。そして、そのとき、思い出したいことは、弟子である私たちも新しい契約の祝福にあずかる者とされている。心に律法を授けられ、聖霊を与えられ、神の掟に従って生きる者とされているということです。使徒パウロは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と記しました(二コリント5:17)。キリストに結ばれている私たちは、新しい契約に生きる、新しく造られた者であるのです。私たちは、新しい契約に生きる、新しく造られた者として、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を与えられているのです。今朝の御言葉に戻ります。新約の442ページです。

 9節から11節までをお読みします。

 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。

 ヨハネが、「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」と記すとき、教会を惑わせている偽預言者たちを念頭において記しています。偽預言者たちは、「自分たちは光の中にいる。光である神との交わりの内に生きている」と主張していました。しかし、偽預言者たちは兄弟姉妹を憎んでいました。この偽預言者たちは、この手紙の宛先である教会の仲間の中から出て来た者たちです。第2章18節と19節にこう記されています。「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました」。偽預言者たちは、他の兄弟姉妹を見下して、教会の交わりから去って行きました。彼らは、主イエスの掟、「互いに愛し合う」という掟に背いて、兄弟姉妹を憎んでいたのです。それゆえ、ヨハネは、偽預言者たちが「今もなお闇の中にいる」と記すのです。ヨハネは、神の掟である「互いに愛し合う」という掟を守っているかどうかによって、その人が光の中にいるか、それとも闇の中にいるかを判断するのです。「互いに愛し合うこと」。このことは、コロナ禍にあって、密を避けて、マスクをして礼拝をしている私たちには難しいことかも知れません。しかし、私たちが教会の交わりから遠ざかることなく、礼拝に出席し続けるならば、私たちは互いに愛し合っていると言えるのです。ヨハネは、教会の交わりから去って行った偽預言者たちを、兄弟姉妹を憎む者と呼びました。そうであれば、教会の交わりに留まり続ける私たちは、兄弟姉妹を愛する者であるのです。

 兄弟姉妹を愛する人は、「互いに愛し合いなさい」という神の掟を守る者ですから、いつも光である神様との交わりの中にいます。昼に歩けばつまずかないように、光の中にいる人は、つまずくことがありません。ここでの「つまずき」は、イエス・キリストへの信仰を失ってしまうことを指しています。私たちが互いに愛し合い、教会の交わりに留まり続けるならば、私たちはイエス・キリストへの信仰を失ってしまうことはないのです。しかし、もし、私たちが教会の交わりから去って行くならば、私たちは兄弟姉妹を憎む者となり、闇の中にいる者となってしまうのです。「闇が去って、既にまことの光が輝いている」にもかかわらず、イエス・キリストの新しい掟に従わず、兄弟姉妹の交わりから去って行くならば、その人は、闇の中にいるのです。そして、それはとても危険なことです。なぜなら、闇の中を歩む者は、自分がどこへ行くかを知らないからです。兄弟姉妹を愛し、教会の交わりに留まり続ける私たちは、光の中におり、自分がどこへ行くのかを知っています。私たちは、自分が、父なる神様とイエス・キリストがおられる天の御国に行くことを知っているのです。しかし、兄弟姉妹を憎み、教会の交わりから去って行くならば、私たちは自分がどこへ行くのか分からなくなってしまうのです。

 私たち改革派教会の創立20周年宣言に、次のような文書があります。「教会の生命は、礼拝にある。キリストにおいて神ひとと共に住みたもう天国の型としての存する教会は、主の日の礼拝において端的にその姿を現わす」。私たちがささげている礼拝は天国の型、天国の前味であるのです。ですから、地上で礼拝をささげている私たちは、天上においても、同じように神様を礼拝することが分かるのです(黙4、5章参照)。しかし、もし、私たちが教会の交わりから去って行き、兄弟姉妹と共に礼拝をささげなくなってしまうならば、死んだ後、自分がどこへ行き、何をするのかが不確かなものとなってしまうのです。ヨハネは、今朝の御言葉の最後、11節後半で、「闇がこの人の目を見えなくしたからです」と記します。目がよく見える人(視力がいい人)でも、光がない闇の中では何も見ることができないように、闇は私たちの目を見えなくしてしまうのです。それゆえ、私たちにとって大切なことは、「互いに愛し合う」という掟を守って兄弟姉妹を愛し、教会の交わりの中に留まり続けることであるのです。そのとき、私たちは、光の中を、手を携えて歩んで行くことができるのです。

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