たとえ罪を犯しても 2022年9月25日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの手紙一 2章1節~2節
聖書の言葉
2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
2:2 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。ヨハネの手紙一 2章1節~2節
メッセージ
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序.前回の振り返り
『ヨハネの手紙一』は、イエス・キリストの使徒ヨハネが、紀元90年頃、エフェソで、小アジアの教会に宛てて記した手紙です。当時、小アジアの教会は、偽預言者たちに惑わされていました。偽預言者たちは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表しませんでした(4:2参照)。偽預言者たちはイエス・キリストが人となって来られたことを否定していたのです。偽預言者たちは、イエス・キリストは人間のように見えただけであり、純粋な霊であったと主張していたのです。
また、偽預言者たちは、「自分には罪がない。自分は罪を犯したことがない」と主張していました(1:8、10参照)。偽預言者たちは、神様との交わりを霊的なことと考え、罪を肉的なことと考えていました。霊の人は、もはや肉の罪と関わりがないと彼らは考えていたのです。そのような偽預言者たちの主張を念頭に置きつつ、ヨハネは、第1章8節から10節でこう記すのです。
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
偽預言者たちは、「自分には罪がない」と言っていました。しかしヨハネは、「自分に罪がないと言うなら、自分を欺いており、真理である神の言葉はその人の内にない」と記します。神様は、人間を神のかたちに似せて造られました(創世1:27参照)。それゆえ、人間の心には、神の律法の要求する事柄が記されているのです(ローマ2:15参照)。いわゆる良心(善悪を判断し、善を求める心)が与えられているのです。自分に罪がないと言う人は、良心の声に耳を傾けず、自分を欺いているのです。
また、偽預言者たちは、「自分は罪を犯したことがない」と言っていました。しかし、ヨハネは、「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」と記します。なぜなら、神様は、神の言葉である聖書において、すべての人が罪人であると教えているからです(詩14:3参照)。神様の御前に、すべての人は罪人であり、滅ぶべき存在であるのです。それゆえ、神様は、私たち人間を罪と滅びから救うために、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。すべての人間は、イエス・キリストを信じて自分の罪を公に言い表し、神様の御もとに立ち帰ることが求められているのです。そのとき、真実で正しい神様は、私たちのすべての罪を赦し、私たちをあらゆる不義から清めてくださるのです。
ここまでは、前回の振り返りです。今朝は、その続きである第2章1節と2節から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.罪を犯さないようになるため
第2章1節をお読みします。
わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
ヨハネは、手紙の読者たちに、「わたしの子たちよ」と親しく呼びかけます。ヨハネは、自分から福音を聞いて、イエス・キリストを信じ、真理に歩んでいる者たちに、「わたしの子たちよ」と親しく呼びかけるのです。これまで、ヨハネは、偽預言者たちの主張を念頭におきつつ、私たちには罪があり、私たちは罪を犯していると記しました。それゆえ、私たちにとって大切なことは、イエス・キリストの御名によって罪を公に言い表し、神様の赦しと清めをいただくことであると記したのです。そのように聞きますと、ある人は、「それなら罪を犯しても大丈夫だ。どんどん罪を犯そう」と考えるかも知れません(ローマ6:1参照)。そのような誤解をしないように、ヨハネは、「これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」と記すのです。ヨハネは、第1章7節で「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められる」と記しました。私たちは、主の日の礼拝ごとに、イエス・キリストの御名によって罪を告白します。そのようにして、私たちは、御子イエスの血によって、あらゆる罪から清められるのです。それは、私たちが再び罪を犯すためではありません。罪を赦されて、「さあ、これで安心して罪を犯せるぞ」と言って罪を犯すためではありません。そうではなくて、罪を犯さないようになるためであるのです。なぜなら、イエス・キリストは、私たちのすべての罪を赦し、私たちのあらゆる不義を清めるために、十字架の上で尊い命をささげてくださったからです。そのことに心を向けるとき、私たちは、罪を犯さないようにしようと決意するようになるのです(ヘブライ12:4「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」参照)。自分を罪に誘うものから遠ざかろうと決意するようになるのです(5:21「子たちよ、偶像を避けなさい」参照)。
2.たとえ罪を犯しても
しかし、そうは言っても、私たちは神の掟に背いて、罪を犯してしまいます。私たちは罪を犯さないようにしようと決意しても、罪を犯してしまう弱く愚かな者たちであるのです。そのような私たちに、ヨハネはこう言います。「たとえ、罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」。罪を犯してしまう私たちに、ヨハネは、御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられると言うのです(ローマ書の7章と8章の流れと似ている)。ここで「弁護者」と訳されているのは、「パラクレートス」という言葉です。「パラクレートス」とは、援助をするために「傍らに呼ばれた者」を意味します。それで「助け主」とも訳されます(口語訳参照)。ここで、注意したことは、『ヨハネによる福音書』の第14章で、イエス様が、聖霊のことを「別の弁護者」「別のパラクレートス」と呼ばれていることです。実際に開いて、確認したいと思います。新約の197ページです。『ヨハネによる福音書』の第14章15節から17節までをお読みします。
あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
イエス様が、「父は別の弁護者を遣わして」と言われるとき、御自分が父から遣わされた弁護者であることを前提にしておられます。イエス様は御自分のことを、父から遣わされた弁護者、パラクレートスであると認識しています。そうしますと、私たちには、二人の弁護者、パラクレートスが与えられていることが分かります。私たちには、天におられるイエス・キリストという弁護者と、私たちの内におられる聖霊という弁護者が与えられているのです。この二人の弁護者の働きについては、使徒パウロが『ローマの信徒への手紙』の第8章で記しています。そのところも、開いて読みたいと思います。新約の285ページです。
弁護者である聖霊のお働きについては、26節と27節に、こう記されています。
同様に、霊も弱い私たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
また、弁護者であるイエス・キリストのお働きについては、33節と34節に、こう記されています。
だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
私たちの内では、聖霊が執り成してくださり、天においては、イエス・キリストが執り成してくださっています。それゆえ、私たちを神様との愛の交わりから引き離す者は何もないのです。そして、ここに、私たちが神様に祈り、神様との交わりを持つことができる秘密があるのです。なぜ、私たちは神様に祈り、神様と交わりを持つことができるのか。それは、私たちの内で、聖霊なる神様が執り成してくださり、天ではイエス・キリストが執り成してくださっているからなのです。このような二人の弁護者のお働きによって、私たちは、神様との交わり、永遠の命に生かされているのです。
今朝の御言葉に戻りましょう。新約の441ページです。
「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」。私たちの弁護者であるイエス・キリストは、正しい方であられます。9節に、「神は真実で正しい方」とありました。イエス・キリストは正しい神様の御心に完全に従われた正しい方であるのです。それゆえ、イエス・キリストは、罪人である私たちを弁護することができるのです。また、イエス・キリストは、御自分の命によって私たちの罪を贖ってくださったゆえに、罪人である私たちを弁護することができるのです。
3.全世界の罪を償ういけにえ
2節をお読みします。
この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。
天の御父のもとにおられるイエス・キリストは、十字架の死から三日目に栄光の体で復活されたイエス・キリストであられます。わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえとして、御自身をささげられた御方であるのです。私たちを弁護してくださる御方は、正しい御方であり、私たちの罪を償ういけにえとして御自身をささげられた御方である。それゆえ、私たちが、イエス・キリストの御名によって、罪を公に言い表すならば、父なる神様は、私たちのすべての罪を赦し、私たちをあらゆる不義から清めてくださるのです。
ここでヨハネは、「わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」と記しています。これはどういう意味でしょうか。これは、神の御子であり、正しい人であるイエス・キリストの十字架の死は、全世界の人間の罪を贖う価値と力を持っているということです。今朝は「招きの言葉」として『詩編』の第49編を読んでいただきました。その8節と9節に、こう記されています。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う価は高く/とこしえに、払い終えることはない」。しかし、神の独り子であり、正しい人であるイエス・キリストの命は、全世界の人間の罪を贖ってあまりあるほどの価値と力を持っているのです(ウェストミンスター大教理問答 問38~40を参照)。それゆえ、私たちは、すべての人に、「どうぞ、イエス・キリストを信じて、罪の赦しを受けてください」と大胆に語ることができるのです。