罪がないと言うなら 2022年9月18日(日曜 朝の礼拝)
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罪がないと言うなら
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの手紙一 1章8節~10節
聖書の言葉
1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。ヨハネの手紙一 1章8節~10節
メッセージ
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『ヨハネの手紙一』は、イエス・キリストの使徒ヨハネが、紀元90年頃、エフェソで、小アジアの教会に宛てて記した手紙です。当時、小アジアの教会は、偽預言者たちによって、惑わされていました。第4章1節と2節で、ヨハネは、こう記しています。
愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。
偽預言者たちは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表しませんでした。偽預言者たちは、イエス・キリストが人となって来られたことを否定していたのです。偽預言者たちは、イエス・キリストは人間のように見えただけであり、純粋な霊であったと主張していたのです。そのような偽預言者たちの主張を念頭において、ヨハネは、この手紙を次のような言葉で書き始めました。第1章1節をお読みします。
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言葉について。
このようにヨハネは、偽預言者たちの教えを念頭に置きながら、福音宣教の初めからあった、イエス・キリストの福音を伝えるのです。
また、偽預言者たちは、外から来た者たちではなく、教会の中から出て来た者たちでありました。第2章18節と19節に、こう記されています。
子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。
このように、偽預言者たちは教会の仲間の中から出てきたのです。偽預言者たちは教会から去って行きました。この手紙の宛先である教会は、教会紛争、教会分裂を経験した教会であるのです。しかも、神学的な論争によって、教会分裂を経験したのです。そのような偽預言者たちの教えに惑わされないように、ヨハネは、第1章6節と7節を「わたしたちが」と一人称複数形で記すのです。
わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行っていません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
ここで、ヨハネは、偽預言者たちのことを念頭において記しています。偽預言者たちは、神様との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩んでいました。偽預言者たちは、完全に正しい神様との交わりを持っていると言いながら、平然と罪を犯していたのです。また、偽預言者たちは互いに交わりを持とうとはしませんでした。信仰生活が個人化していたのです。また、偽預言者たちは、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められることも否定していました。偽預言者たちによれば、イエス・キリストは肉体をとったように見えただけであり、純粋な霊でありました。それゆえ、偽預言者たちは、イエス・キリストの十字架の死による贖いをも否定していたのです。そもそも、偽預言者たちは、自分には罪がないと主張していたのです。
8節をお読みします。
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
ここでも、ヨハネは、偽預言者たちの主張を念頭においています。偽預言者たちは、「自分には罪がない」と主張していたのです。おそらく、彼らは神様との交わりを霊的なこと、罪を肉体的なことと考えて、このように主張していたと思われます。「神様との霊的な交わりに生きる自分たちは、もはや肉体的な罪と関わりのない者とされている」と偽預言者たちは、主張していたのです。しかし、ヨハネは、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いている」と記します。ここで、ヨハネは、自分に罪があることを知っているもうひとりの自分、良心のことを念頭においているようです。使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第2章で、律法を持たない異邦人にも、神の裁きの基準として良心が与えられていると記しています。『ローマの信徒への手紙』の第2章14節から16節までをお読みします。新約の275ページです。
たとえ律法を持たない異邦人も、命じるところを自然に行えば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法が要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
聖書によれば、すべての人は神のかたちに似せて造られています(創世1:27参照)。それゆえ、すべての人の心に、神の戒めである律法の要求する事柄が記されているのです。まことの神を知らない異邦人であっても、父と母を敬うことは善であり、人を殺すことは悪であることを知っています。それは、すべての人が神のかたちに似せて造られており、その心に律法の要求する事柄が記されているからなのです。それゆえ、律法を持たない異邦人であっても、神様の裁きから逃れることはできないのです。パウロは、15節の後半で、「彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」と記しています。「良心」と訳されている言葉(シュネイデーシス)の元々の意味は「共に見る」という意味です。良心とは「自分のことを見ているもうひとりの自分のこと」です。人の心に記されている律法の要求する事柄に違反するとき、そのことを見ているもう一人の自分がその罪を責めるわけですね。いわゆる良心の呵責にさいなまれるのです。自分の心の中で、自分の罪を責めたり、その罪を弁護したりする、そのような良心の呵責にさいなまれるのは、人の心に律法の要求する事柄が記されているからなのです。今朝の御言葉で、使徒ヨハネが「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いている」と記すとき、この良心のことを言っているわけですね。偽預言者たちは、自分の罪を告発する良心の声に耳を傾けず、自分を欺いて、自分には罪がないと言っていたのです。
今朝の御言葉に戻りましょう。新約の441ページです。
「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」。ここでの「真理」とは「神の言葉」のことです(ヨハネ17:17「あなたの御言葉は真理です」参照)。ここでの「真理」が「神の言葉」であることは、10節との並行関係に注意すると、よく分かります。「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」。偽預言者たちは、「自分たちは罪を犯したことがない」とも主張していたようです。しかし、「もし、私たちが偽預言者に惑わされて、『罪を犯したことがない』と主張するならば、それは神様を偽り者とすることであり、神の言葉は私たちの内にない」とヨハネは言うのです。「罪がない、罪を犯したことがない」と主張するならば、自分を欺くだけではなく、神様を偽り者とすることである。なぜなら、真理である神の言葉は、すべての人間に罪があること。すべての人間が罪を犯していると教えているからです。そうのことをはっきりと示しているのが、『創世記』の第6章から第8章に渡って記されているノアの洪水の物語であります。なぜ、神様は洪水を起こされたのでしょうか。その理由が、『創世記』の第6章5節から8節に記されています。旧約の8ページです。
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。
神様は、人をご自分のかたちに似せて、お造りになりました。そのことは、人が神様を礼拝する者として、神様の御心に従って世界を保ち、治める者として造られたことを教えています。しかし、エデンの園で、はじめの人アダムが禁じられた木の実を食べたことにより、アダムの子孫であるすべての人が、良き創造の状態から堕落してしまったのです。人は、常に悪いことばかりを心に思い計る者となってしまったのです。そのような人間を、神様はこの地上からぬぐい去るために、洪水を起こされるのです。しかし、神様は、ノアに目を留められました。そして、ノアに、これから起こることを告げ、箱舟を作るように命じられるのです。
40日40夜に渡って降り続いた雨により、洪水は地上のすべてのものを覆いました。地上から水が引いたことを確かめたノアは、神様の御言葉に従って、箱舟から出ました。箱舟から出たノアが最初にしたこと、それは主のために祭壇を築くことでした。『創世記』の第8章20節から22節までをお読みします。
ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」
ノアは、焼き尽くす献げ物をささげながら、次のように祈ったのではないでしょうか。「どうか、神様、人に対して大地を呪うことは二度としないでください。人が心に思うことは、幼いときから悪いのです。ですから、どうか、神様、人に対して大地を呪うことは二度としないでください」。そのようなノアの祈りを神様は聞いてくださり、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と御心に言われたのです。「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかり心に思い計っていた」。これが、神様が洪水を起こされた理由でした。しかし、洪水の後でも、人が心に思うことは常に悪いことばかりであるのです。地上から人間をぬぐい去るという洪水によっては、人の心を清めることはできないのです。それで、神様は、時満ちて、御子を女から生まれさせてくださいました(ガラテヤ4:4参照)。そして、神の独り子であるイエス・キリストの十字架の血によって、人の心を清めてくださったのです。「自分には罪がない」「自分は罪を犯したことがない」と言うことは、神の言葉である聖書全体が教えている罪と罪からの救いの約束を否定し、さらには、神様が遣わしてくださった救い主イエス・キリストの十字架の贖いを否定することであるのです。
今朝の御言葉に戻りましょう。新約の441ページです。
9節をお読みします。
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
私たちは、「自分に罪がない」とか「自分は罪を犯したことがない」と言ってはなりません。むしろ、私たちは、自分の罪を認めて、公に言い表すべきであるのです。私たちは、礼拝の始めの方で、声を合わせて罪を告白し、罪の赦しの宣言を受けます。それは、この9節の御言葉に基づいているわけです。ヨハネが「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」と記す、その神とは、私たちを罪から救うために、独り子イエス・キリストを遣わしてくださった父なる神であります。父なる神様は、私たち人間の心が幼いときから悪いことをご存知であります。その私たち人間の心をあらゆる不義から清めるために、御子イエス・キリストを遣わしてくださり、十字架の死へと引き渡されたのです。ですから、神様は、私たち人間が自分の罪を公に言い表し、ご自分のもとに立ち帰ることを待っておられるのです(悔い改めとは神のもとに立ち帰ること)。『ルカによる福音書』の第15章に記されている放蕩息子(失われた息子)の父親のように、神様は、私たちが、自分の罪を公に言い表して、立ち帰ることを待っておられるのです。神の真実、神の正しさは、それほど深いのです。罪ある者を裁いて、罰を与えることだけが、神の真実、神の正しさであるならば、だれも罪を公に言い表すことはできません(エデンの園でのアダムとエバ)。しかし、神の真実、神の正しさは、イエス・キリストの十字架の血によって、罪ある者を清め、正しい者とする正しさであるのです。イエス・キリストにあって、罪を赦し、あらゆる不義から清めてくださる創造的な正しさなのです。ですから、私たちは、公に、神様の御前に、自分の罪を言い表すことができるのです。そして、私たちは、すべての罪を赦されて、あらゆる不義から清められた者として、新しい一週間を歩み出して行くのです。