最も幸福なこと 2022年9月11日(日曜 夕方の礼拝)
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コヘレトの言葉 3章16節~22節
聖書の言葉
3:16 太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。
3:17 わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。
3:18 人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。
3:19 人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、
3:20 すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。
3:21 人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。
3:22 人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。コヘレトの言葉 3章16節~22節
メッセージ
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序.
月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第3章16節から22節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.神の裁きとしての死
16節と17節をお読みします。
太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。
コヘレトは、裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを見ました。「裁きの座」と「正義の座」とは、どちらも法廷のことです。イスラエルにおいて裁判は神に属することでありました。『申命記』の第1章16節と17節で、モーセは次のように語っています。「わたしはそのとき、あなたたちの裁判人に命じた。『同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである』」。しかし、コヘレトは、その裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを見たのです。法廷において、裁判人たちは人の顔色をうかがい、不正な裁きをしていたのです。そのような有様を見て、コヘレトは、こうつぶやきました。「正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」。神の名によって開かれる法廷は、神様が正しい人を保護し、悪い人を裁かれる場であります。その法廷が正しく機能していないのを見て、コヘレトは、「正義を行う人も悪人も神は裁かれる」とつぶやくのです。これは、どういう意味でしょうか。私たちでしたら、神様による死後の裁きのことを考えると思います。しかし、コヘレトは、死後の裁きのことを言っているのでありません。太陽の下での、正義を行う人と悪を行う人に対する神の裁きのことを言っているのです。ここで、コヘレトは「定められた時」について語っています。第3章1節に、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」とありました。神様は、正義を行う人も悪を行う人も裁かれる時を定めておられるのです。そして、その裁きとは、「死」であるのです。エデンの園で、神様は、禁じられた木の実を食べたアダムに、こう言われました。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創世3:17~19)。「塵にすぎないお前は塵に返る」。これは死ぬということです。神様は、前もって、アダムにこう言われていました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世2:16、17)。この神様の御言葉のとおり、善悪の知識の木から食べたアダムは、死ぬ者となってしまったのです。地上の法廷で、悪を行う人が罰を免れても、死という神の裁きを免れることは決してできません。悪を行う人だけではなくて、正しいことを行う人も、神様の裁きである死を免れることはできないのです。ただイエス・キリストを信じる人だけが、神の裁きとしての死を免れることができるのです。なぜなら、イエス・キリストは正しい人でありながら、御自分の民に代わって神の裁きとしての死を十字架のうえで死んでくださったからです。イエス・キリストを信じる者の死は罪の裁きとしての死ではなくて、有限である被造物としての死であるのです。
2.人間も動物に過ぎない
18節から21節までをお読みします。
人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物になんらまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。
コヘレトは、「神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ」とつぶやきます。「神が人間を試される」とは、何を意味しているのでしょうか。一つの推測は、17節の神の裁きである死のことです。人間は、自分も必ず死ぬという厳粛な事実を前にして、自分も動物に過ぎないことを悟るのです。「自分も動物に過ぎないことを悟る」とは、「自分も神の息吹によって生かされている被造物に過ぎないことを悟る」ということです。神様から息吹を取り上げられれば、人間も動物も息絶え、元の塵に返るのです(ヨブ34:15、詩104:29参照)。コヘレトは、「人間は動物に何らまさるところはない」と言いますが、それは、人間も動物と同じように死ぬという点においてであります。人間と動物を比較したとき、人間の方がまさっている点をいろいろとあげることができます。たとえば、神様は、御自分にかたどって人をお造りになり、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配するようにと祝福して、お命じになりました(創世1:26~28参照)。このように、人間は動物に比べて勝っている点があるのですが、神の息吹を取り去られれば塵に返るという点においては同じである、何らまさるところはないとコヘレトは言うのです。人間も動物も同じひとつのところ、死者の領域である陰府に行くのです。死は、賢者と愚者の違いを無くしてしまうだけではなく、人間と動物の違いをも無くしてしまうのです。
20節の後半に、「すべては塵から成った。すべては塵に返る」と記されています。確かに『創世記』の第1章と第2章を読みますと、動物も人間も土の塵から造られたことが記されています(1:24、2:7参照)。そして、先程、お読みしたように、神様は禁じられていた木の実を食べたアダムに、「塵にすぎないお前は塵に返る」と言われたわけです。アダムだけが塵に返るのではなくて、アダムの子孫である人間と、アダムの支配の下にある動物も塵に返ることになったのです。人間も、動物も、塵から成り、塵に返る。確かにそうですが、当時の人々は、人間の霊は上に昇り、動物の霊は下に降ると考えていました。しかし、コヘレトは、この考え方にも疑問を呈します。「人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう」と言うのです。第12章7節に、「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」という有名な御言葉があります。これによれば、コヘレトは、人間の霊が上に昇ること、神様のもとに行くことは信じていたようです。コヘレトが問題としているのは、「動物の霊も神様のもとに行くのではないか」ということです。これは興味深い考え方ですね。私たちは、イエス・キリストの再臨によって、新しい天と新しい地が到来し、永遠に神様とイエス・キリストと共に住むことができると信じています。その新しい天と新しい地には、おそらく人間だけではなくて、動物もいると思います。もちろん、聖書は、人間の救いの書物ですから、動物の救いについては記していません。最近は、ペットも家族同然のように考えられていますので、自分のペットが死んだ後どうなってしまうのかと心配する人がいるかも知れません。そのような人にとって、「人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう」という御言葉は、ひとつの慰めになると思います。しかし、だからといって、「あなたのペットも天国に行けますよ」とは断言できません。先程も申しましたように、聖書は人間の救済の書物であって、動物がどうしたら天国に行けるかということを記していないからです。新しい天と新しい地に、動物はいると思いますが、その動物が、自分のペットであるかどうかは分からないのです。
3.最も幸福なこと
22節をお読みします。
人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。
死んだ後のことは、よく分からない。それゆえ、コヘレトは、「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った」と記します。そして、そのことも神様から与えられる分、割り当てであるのです(3:13参照)。ここにあるのは、「今を楽しめ」という考え方です。神様によって与えられている命、人生の日々を楽しむこと。それが人間にとって最も幸福なことであるとコヘレトは言うのです。
以前に、『コヘレトの言葉』の一つの主題(テーマ)は、幸福論であると申しました。ここで「幸福」と訳されている言葉(トーブ)は、「良い」とも訳されます(創世1:31「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」参照)。コヘレトは、これまで人間にとって幸福なこと、良いことについて記してきました。第2章24節と25節には、こう記されていました。
人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ。
また、第3章12節と13節には、こう記されていました。
わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と/人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。
ここでコヘレトは、飲み食いすること、自分の労苦によって満足することが、人間にとって最も幸福なこと、最も良いことであると語っています。そして、それはどちらも、神様の手からいただく、神様の賜物であるのです。コヘレトが飲み食いについて語るとき、それは神様抜きの飲み食いではありません。神様の賜物として感謝していただく飲み食いであります。自分の労苦によって満足することも同じです。神様を抜きにしての労苦ではなく、神様から与えられている体や才能を用いて、神様に仕えるように働くところの労苦のことです。そのことを念頭において、22節を読む必要があります。「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った」。ここでも、コヘレトは、神様抜きで自分の業や楽しみを語っているのではありません。コヘレトは、神様の御心に適う自分の業によって楽しみを得ることを語っているのです。
コヘレトは、「死後どうなるかを、誰が見せてくれよう」と記しました。しかし、イエス・キリストを信じる私たちは、死んだ後、神様とイエス・キリストがおられる天の国に行くことができることを知っています。また、終わりの日には、イエス・キリストと同じように栄光の体で復活させられ、新しい天と新しい地に永遠に住むことができることを知っています。ですから、私たちは、終わりの日に与えられる報いを期待しながら、神様の御心に適う自分の業によって楽しみを得ることができるのです(ヘブライ11:6参照)。私たちは、罪の欲望を満足させる業によってではなくて、神様の御心に適う業によって楽しみを得るができる者とされているのです。その楽しみの最たるものが、私たちが今ささげている礼拝であるのです。