命の言葉を聞いてください 2022年9月04日(日曜 朝の礼拝)

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命の言葉を聞いてください

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 1章1節~4節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。ヨハネの手紙一 1章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

 先週で『マルコによる福音書』の学びを終えましたので、今朝から『ヨハネの手紙一』を、ご一緒に読み進めていきたいと思います。

 使徒パウロが記した『ガラテヤの信徒への手紙』の第2章9節に、エルサレム教会の柱と目されるおもだった人たちとして、「ヤコブとケファとヨハネ」の三人の名前が記されています。「ヤコブ」は、十二使徒のヤコブではなくて、イエス様の弟のヤコブのことです。「ケファ」は十二使徒のペトロのことです(ケファはアラム語で岩という意味)。「ヨハネ」は十二使徒のヨハネのことです。ヤコブとケファとヨハネ、この三人が書いた手紙が、新約聖書におさめられています。『ヤコブの手紙』は、2019年9月から2020年10月に渡って、ご一緒に学びました。また、『ペトロの手紙一』は、2020年11月から2022年3月に渡って、ご一緒に学びました。ヤコブとケファ(ペトロ)の教えについて学びましたので、残るヨハネの教えをご一緒に学びたいと思います。

 今朝は、『ヨハネの手紙一』からの最初の説教ですので、この手紙が誰によって、いつ、どこで、誰に宛てて記されたのかをお話したいと思います。

 この手紙が誰によって記されたのかは、本文の中に記されていません。しかし、その文体や思想から、『ヨハネによる福音書』を記したのと同じ人物であると考えられています。伝承では、十二使徒の一人であるゼベタイの子ヨハネであると考えられています。私も、この手紙を使徒ヨハネが記した手紙として読み進めていきたいと思います。使徒ヨハネは、最も長生きした使徒であると言われています(ヨハネ21:23「この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった」参照)。他の使徒たちが殉教の死を遂げていく中で、ヨハネは生き永らえて、イエス・キリストを証ししました。伝承によれば、ヨハネは、晩年を小アジアのエフェソで過ごしたと言われております。それで、この手紙は、使徒ヨハネが90年頃、エフェソで、小アジアの教会に宛てて記したと考えられています。『ヨハネの手紙一』には、差出人も宛先も挨拶の言葉も記されていません。ですから、文書の形式としては手紙であることが疑われてきました。しかし、その本文を読むと、執筆者は宛先の教会のことをよく知っており、明確なメッセージが記されていますので、内容としては、立派な手紙であると言えるのです。

 前置きはこれぐらいにして、今朝の御言葉を読み進めていきたいと思います。

 1節から4節までをお読みします。

 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。ーーこの命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。ーーわたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

 「初めからあったもの」とは何でしょうか。それは、ヨハネたちが「聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手でふれたもの」であり、伝えることができるものです。それは、「命の言」です。2節に、「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」とあります。ですから、この命は、イエス・キリストのことであります。ヨハネは、福音書の序文を背景にしながら、この手紙の序文を記しています。実際に開いて確認しましょう。新約の163ページ。『ヨハネによる福音書』の第1章1節から5節までをお読みします。

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 ヨハネが、「初めに言があった」と記す時、その「はじめ」とは、天地万物が造られる前の「初め」であります。聖書の最初の書物である『創世記』は、「初めに、神は天地を創造された」という御言葉から始まります(創世1:1)。その天地が創造された初めよりも前に、つまり、時間が創造される前に、「言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とヨハネは記すのです。この「言」(ロゴス)とは、人となる前の神の御子のことであります。私たちは、誰でも、男と女の交わりによって生まれてきます。私たちがいつから存在するようになったかと言えば、それは母親の体内に宿ったときからです。しかし、聖霊によって、おとめマリアの胎に宿られたイエス・キリストはそうではありません。イエス・キリストは、時間が造られる前から、神と共におられる、神その方、神の独り子であられるのです。ヨハネは、人となられる前の独り子なる神を、言(ロゴス)と言い表したのです。そのことが14節にはっきりと記されています。

 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であった、恵みと真理とに満ちていた。

 また、17節と18節には、こう記されています。

 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 「言は肉となった」とは、独り子である神が、人の性質を取られた(人性を摂取された)ということです。それゆえ、イエス・キリストは、まことの神でありつつ、まことの人であるのです(二性一人格のイエス・キリスト)。神様は、肉となった独り子である神、イエス・キリストにおいて、ご自身をお示しになられたのです。そして、使徒ヨハネは、イエス・キリストから教えを聞き、イエス・キリストのお姿を見、そのお体に触れたのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の441ページです。

 ヨハネが、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」と記すのには、理由があります。それは、手紙の宛先である小アジアの教会が、偽預言者たちによって惑わされていたからです。第4章1節と2節に、こう記されています。

 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。

 このように、偽預言者たちは、イエス・キリストが肉となって来られたことを否定していたのです(二ヨハネ7「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです」も参照)。偽預言者たちは、イエス・キリストは人のように見えただけであり、霊であったと主張していたのです。偽預言者たちの考え方の根本には、霊を善、肉を悪とする霊肉二元論があります。そのような偽預言者たちの主張を念頭に置きながら、ヨハネは、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手でふれたものを伝えます」と記しているのです(ガラテヤ1:1「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と同じように、序文において内容を先取りしている)。

 ヨハネは、「すなわち、命の言について」と記していますが、2節によれば、この命は「イエス・キリスト」のことであります。ですから、「命の言」とは、「イエス・キリストの言葉」「イエス・キリストの福音」と言うことができます(ヨハネ6:68「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」参照)。そうしますと、『ヨハネの手紙一』において、「初めからあったもの」の「初めは」は、「天地万物が造られる前の初め」ではなくて、「福音宣教の初め」であることが分かるのです。『マルコによる福音書』は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉をもって、書き出されました(マルコ1:1)。ヨハネが伝えようとしているのも、イエス・キリストの教えを源とする、初めからあったもの、使徒たちが聞いて、見て、触れたイエス・キリストの福音であるのです。偽預言者たちは、純粋な霊である、人のように見えただけの、新しいキリストを宣べ伝えていました。それに対して、使徒ヨハネは、福音宣教の初めから宣べ伝えられている使徒たちの証言に基づくイエス・キリストの福音を伝えるのです(ローマ6:17「教えの規範」、一コリント15:3「わたしも受けたもの」参照)。

 ただイエス・キリストを信じていればよいのではありません。使徒たちが証しするイエス・キリストを信じなければならないのです(六つの誓約の③「あなたは、主イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じ、救いのために福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼みますか」参照)。そうでなければ、御父を本当に知ることはできないのです(2:23参照)。

 3節には、ヨハネがイエス・キリストの福音を伝える目的が記されています。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたに伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」。ここで、「交わり」と訳されているギリシャ語は、「コイノーニア」という言葉です。コイノーニアとは、「共有すること」「分かち合うこと」を意味します。私たちは、今、時間と場所を共有しています。また、御言葉の恵みを共有しています。そのような共有によって、私たちの交わりは成り立っているのです。ここで、ヨハネは、最も本質的なことを言っています。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」。教会の交わりの本質は、御父と御子イエス・キリストとの交わりである。私たちは、御父と御子イエス・キリストを共有している交わりであるのです。このことは、キリスト教会だけに言えることです。私たち教会は、御父と御子イエス・キリストとの交わりである永遠の命を共有する交わりであるのです。その永遠の命を、あなたがたも共有してほしいとヨハネは願っているのです。ヨハネだけではありません。御父と御子イエス・キリストは、一人でも多くの人が福音を聞いて、信じて、永遠の命を共有してほしいを願っているのです(ヨハネ12:50「父の命令は永遠の命である」参照)。その御父と御子イエス・キリストの願いを、私たちも共有させていただいて、初めからあったイエス・キリストの福音を宣べ伝えているのです。

 4節で、ヨハネは、この手紙を書き送る目的を記しています。「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」。福音とは「良い知らせ」「喜びの知らせ」であります。その福音を宣べ伝えるとき、宣べ伝えている私たち自身が、喜びに満ちあふれるのです。私たちは福音を宣べ伝えることによって、福音にあずかる者となるからです。私たちは、御父と御子イエス・キリストとの交わりを分かち合いながら、喜びに満ちあふれて、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていきたいと願います。

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