墓に葬られたイエス 2022年8月21日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
墓に葬られたイエス
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
マルコによる福音書 15章40節~47節
聖書の言葉
15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
15:42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、
15:43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。
15:44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。
15:45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。
15:46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。
15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。マルコによる福音書 15章40節~47節
メッセージ
関連する説教を探す
今朝は最初に、イエス様の死がどのような死であったのかを御一緒に確認したいと思います。イエス様は、最高法院において、自らを神の子、メシアとする、神を冒涜する者として、死刑の判決を受けました。また、ローマの総督ピラトによって、「ユダヤ人の王」として十字架につけられました。十字架刑はローマ帝国の処刑方法ですが、ユダヤ人は、木にかけられた、呪われた者の死として恐れていました。イエス様は、9時に十字架につけられ、すべての人から嘲りの言葉を浴びせられました。そして、昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続きました。この暗闇は、十字架につけられたイエス様のうえに、主の日の裁きが臨んでいたことを示しています。預言者アモスは、「主の日は闇であって、光ではない」と語りました(アモス5:20)。その主の日の闇、主なる神様の恐るべき裁きが、十字架につけられたイエス様のうえに臨んでいたのです。罪のないイエス様が、御自分の民のすべての罪を担って、主の日の裁きをお受けになられたのです。それゆえ、イエス様は、大声でこう叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。イエス様は、御自分の民の罪を担って、神に見捨てられるという絶望の死を死んでくださいました。そのようにして、『イザヤ書』の第53章の預言が成就したのです。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った」(イザヤ53:11)。この主の僕こそ、十字架につけられたイエス・キリストであるのです(マルコ10:45参照)。それゆえ、イエス・キリストを信じる私たちは、罪の裁きとしての死を死ぬことはないのです。イエス・キリストが、私たちに代わって、罪の刑罰としての死を死んでくださいましたから、私たちは罪の刑罰としての死を死ぬことはないのです。もちろん、私たちキリスト者も死を経験いたします。しかし、その死は、罪の刑罰としての死ではありません。イエス・キリストを信じる私たちの死は、神から見捨てられるという絶望の死ではないのです。私たちが死ぬ時も、十字架の死から復活されたイエス・キリストが聖霊において共にいてくださるのです。『マタイによる福音書』の最後で、復活されたイエス・キリストは弟子たちに、こう言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。復活されたイエス・キリストは、私たちが死ぬ時も、共にいてくださいます。そして、そのイエス・キリストにおいて、神が共にいてくださるのです(マタイ1:23参照)。ですから、私たちは、平安に死ぬことができるのです。死を通して、罪の支配から完全に解放され、イエス・キリストがおられる天国に行くことができるという希望をもって死ぬことができるのです(ルカ23:43参照)。このことを見事に告白しているのが、『ハイデルベルク信仰問答』の問42であります。
問42 キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたちも死ななければならないのですか。
答 わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪の死滅であり、永遠の命への入口なのです。
イエス・キリストを信じる私たちもやがて死にます。しかし、その死によって、罪が滅ぼされ、天国に入ることができるのです。それは何度も申しますように、イエス・キリストが、十字架のうえで、私たちの罪を担って、罪の刑罰としての死を死んでくださったからであるのです。
イエス様が大声を出して息を引き取られると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。この垂れ幕は、聖所と至聖所を隔てる垂れ幕であると考えられています。神様が臨在される至聖所には、年に一度大祭司だけが犠牲の血を携えて入ることができました(ヘブライ9:7参照)。しかし、イエス様が死なれたことによって、誰でも神様に近づくことができる道が開かれたのです。神殿の垂れ幕が上から裂けたことは、神様が垂れ幕を裂いてくださったことを示しています。『ヘブライ人への手紙』は、イエス様を永遠の大祭司と呼び、イエス様の十字架の死を永遠の贖いと呼んでおります。イエス様は、永遠の大祭司として、御自身を、永遠の贖いのいけにえとしてささげられたのです。神様は、そのいけにえを受け入れてくださいました。それゆえ、もはや、神殿祭儀は不要となったのです。十字架と復活の主イエス・キリストの御名によって、すべての人が神様と親しく交わることができるようになったのです。
イエス様が十字架のうえで息を引き取られたのを見た百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と言いました。ローマの百人隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と言うほどの出来事が十字架の上で起こったのです。また、この百人隊長は、イエス様のはき出された霊を受けることにより、このように言うことができたのです。私たちも同じですね。私たちが、イエス・キリストを神の御子と告白することができたのは、御言葉と聖霊によって、十字架につけられたイエス・キリストを示されたことによるのです。使徒パウロは、『ガラテヤの信徒への手紙』の第3章で、こう記しています。「ああ、物分かりが悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わせたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」。ここで、パウロは、ガラテヤの信徒たちに、福音を聞いて、十字架につけられたイエス・キリストを信じて聖霊を受けたことを思い起こさせようとしています。私たちがイエス・キリストを神の御子と信じたのも同じです。私たちは、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架について死んでくださったことを示されたゆえに、イエス様を神の御子、罪人の救い主と信じて、洗礼を受けたのです。イエス・キリストの御名によって洗礼を受けることにより、イエス・キリストと結ばれ、イエス・キリストの死と復活にあずかる者とされたのです(ローマ6章参照)。
そのようなイエス・キリストの十字架の死を、遠くから見つめる者たちがいました。それが婦人の弟子たちであります。男の弟子たちではなくて、女の弟子たちが、イエス様の十字架を見守っていたのです。この婦人の中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいました。この婦人たちは、ガリラヤにおられたときから、イエス様に従って、仕えていた人々でした。彼女たちは、イエス様の食事の準備などをしていたのでしょう。そのような婦人たちの奉仕によって、イエス様は、神の国の福音を宣べ伝えることができたのです。そして、この婦人たちが、イエス様が十字架のうえで死なれたこと、イエス様が墓に葬られたこと、イエス様が復活されたことの証人、証し人となるのです。当時、ユダヤの裁判において、婦人の証言は無効とされていました。それほど、婦人は軽んじられていたのです。しかし、神様は、婦人たちを、イエス様の死と葬りと復活の証人とされるのです。
イエス様が十字架につけられて死なれたのは、安息日の前日である準備の日でした。安息日は土曜日ですから、その前日である準備の日とは金曜日のことです。金曜日に、イエス様は十字架につけられて死なれたのです。ユダヤでは日没から一日が始まります。「既に夕方になった」とありますから、安息日が始まろうとしていたのです。そこで、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエス様の御体を渡してくれるように願い出ました。律法によれば、死体は必ずその日のうちに埋めることになっていました(申命22:22参照)。何よりも、ヨセフは、イエス様の御体が、木にかけられたままになっていることに耐えられなかったのでしょう。おそらく、ヨセフは、最高法院の議員の一人であったのでしょう。彼は、イエス様をピラトの手に引き渡した者たちの一人であったのです(15:1参照)。そのヨセフが、勇気を出してピラトのところへ行き、イエス様の御体を葬らせてほしいと願い出たのです。これは、本当に勇気のいることであったと思います。イエス様は、ローマ皇帝に反逆するユダヤ人の王として、処刑されました。そのイエス様の御体を渡してほしいと願い出ることは、自分の身に危険を招く行為であります。また、イエス様の御体を葬ったことが、他の議員たちに知れたら、議員としての身分を失いかねないのです。しかし、ヨセフは、勇気を出して、イエス様の御体を渡してくれるようにピラトに願い出たのです。その理由を福音書記者マルコは、こう記しています。「この人も神の国を待ち望んでいたのである」。神の国とは、神の王国、神の王的な御支配のことです。ヨセフは神が王として支配されることを待ち望む者であったゆえに、イエス様の御体を葬ることを願い出ました。ヨセフは、神様が王として支配されるならば、イエス様の御体が十字架につけられたままであってはいけない。あるいは、囚人用の共同墓地に葬られるようなことがあってはいけないと考えたのです。そして、勇気を出して、ピラトのところに行き、「イエスの体を私に渡してください」と願い出たのです。十字架につけられた者の中には、死ぬまで2、3日かかる者もいました。それで、ピラトは、イエス様がもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねました。そして、イエス様が死んだことを百人隊長に確認したうえで、遺体をヨセフに下げ渡したのです。イエス様は、死んだように見えたのではなく、確かに死なれたのです(43節の「遺体」は「体」を意味するソーマという言葉が用いられているが、45節の「遺体」は「死体」を意味するプトーマという言葉が用いられている)。
ヨセフは、亜麻布を買い、イエス様を十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしました。このように、イエス様の御遺体は、安息日が始まる前に、ヨセフの手によって葬られたのです。そして、マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエス様を納めた場所を見つめていたのです。
今朝は説教の初めに、イエス様の十字架の死の意味を確認しました。イエス様は、私たちのメシア、王として、私たちの罪を担って、罪の刑罰としての死、律法の呪いの死を死んでくださいました。それによって、私たちキリスト者にとって、死がまったく違ったものとなったことを、『ハイデルベルク信仰問答』の問42を通して確認しました。それと同じことが、お墓についても言えるのです。イエス・キリストを信じる私たちにとって、墓に葬られることがまったく違う意味を持つようになったのです。イエス・キリストを信じる前、墓は最後の場所でした。しかし、イエス・キリストが死んで、墓に葬られ、三日目に復活してくださったことにより、墓は最後の場所ではなくなったのです。イエス・キリストが朽ちることのない栄光の体で復活させられ、墓から導き出されたように、イエス・キリストを信じる私たちも、栄光の体で復活させられ、墓から導き出されるのです(一テサロニケ4:17参照)。私たちの教会には、春日部の地に、せんげん台教会と南越谷コイノニア教会と共同で使用しているお墓があります。「春日部栄光墓苑」という立派なお墓が与えられています。そのお墓には、主にある兄弟姉妹が葬られています。そのお墓の前に立つとき、私たちはその兄弟姉妹のことを思い起こします。そして、その兄弟姉妹に先立って、イエス・キリストがお墓に葬られたことを思い起こすのです。私たちは、自分の死を思うとき、不安な気持ちになります。しかし、私たちに先立って、イエス・キリストは死んでくださり、墓に葬られてくださいました。イエス・キリストは、私たちが受けるべき罪の刑罰としての死、律法の呪いの死を死んでくださり、墓に葬られたのです。そして、私たちに先立って、私たちの初穂として復活され、墓から導き出されたのです。それゆえ、私たちにとって、お墓は、復活を待ち望む休憩所となったのです。『ウェストミンスター小教理問答』の問37はそのことを見事に言い表しています。
問37 信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。
ウェストミンスー信仰基準が作成された17世紀のイギリスでは、遺体を土に埋める土葬であったのでしょう。その姿は、復活まで墓の中で休んでいるように見えるわけです。私たちは、火葬にされて、骨になって、お墓の中に納められます。しかし、骨になっても、私たちはキリストに結びつけられたまま復活まで墓の中で休むのです(キリストに結びつけられていることが復活の根拠)。『エゼキエル書』の第37章に、神の霊が吹きつけると、枯れた骨に肉と皮膚が生じて、生き返った幻が記されています。無から有を生じさせる神様は、骨からでも栄光の体を生じさせることができるのです。
私たちの主であるイエス・キリストは、十字架の死を死んでくださり、墓に葬られ、三日目によみがえられました。それゆえ、私たちキリスト者は、平安と希望を持って、死と向き合うことができるのです。また、平安と希望をもって葬りの式を執り行うことができるのです。私たちは、イエス・キリストを信じて死んだ兄弟姉妹の体をあたかもイエス・キリストの体であるかのように葬ることができるし、葬るべきであるのです。