何事にも時がある 2022年8月14日(日曜 夕方の礼拝)
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何事にも時がある
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- 村田寿和 牧師
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コヘレトの言葉 3章1節~15節
聖書の言葉
3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3:3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
3:4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
3:6 求める時、失う時/保つ時、放つ時
3:7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
3:8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
3:9 人が労苦してみたところで何になろう。
3:10 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
3:11 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
3:12 わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と
3:13 人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。
3:14 わたしは知った/すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。
3:15 今あることは既にあったこと/これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。コヘレトの言葉 3章1節~15節
メッセージ
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序.
月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第3章1節から15節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.何事にも時がある
1節から8節までをお読みします。
何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時/殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時/泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時/石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時/求める時、失う時/保つ時、放つ時/裂く時、縫う時/黙する時、語る時/愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
コヘレトは、知恵の教師でありますが、その知恵の教師にふさわしい言葉がここに記されています(12:9「コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた」参照)。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」。これは、私たちがそのまま受け入れるべき真理であると思います。コヘレトが、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と記すとき、それは言うまでもなく、神様によって定められた時のことであります。時間も神様によって創造された被造物であり、神様の御手によって導かれているのです。『創世記』の第1章1節に、「初めに、神は天地を創造された」と記されています。神様は、天地万物を時間と共にお造りになったのです。
コヘレトは、2節から8節に、神様が定められた28の時を記します。これは「時の詩(うた)」と呼ばれるもので、14の対になる組み合わせから成り立っています。「生まれる時、死ぬ時」と反対の意味の言葉を組み合わせています。また、この組み合わせは、好ましい時と好ましくない時が対になっていると読むこともできます。「生まれる時、死ぬ時」は、好ましい時と好ましくない時の組み合わせでもあるのです。コヘレトは、このような時の詩(うた)を記すことにより、確かに、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」ことを、示しているのです。
2.神のなさることは、すべて時に適って美しい
9節から13節までをお読みします。
人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と/人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。
9節に、「人が労苦してみたところで何になろう」とあります。この9節は、唐突な印象を受けますが、1節から8節までを受けて記されています。コヘレトは、「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」のだから、人が労苦してみても何の益もないと言うのです。それはここでの時が、人間にはどうしようもない神が定められた時であるからです。人間はだれも、自分の生まれる時や死ぬ時を選ぶことはできません。8節の後半に、「戦いの時、平和の時」とありますが、これも個人の選択を越えていますね。外国から攻められれば、戦わざるを得ないわけです。また、国が戦争を始めれば戦わざるを得ないわけです。そのように、私たちの人生に起こる出来事には、私たちにはどうすることもできない時があるのです。それゆえ、コヘレトは、「人が労苦してみたところで何になろう」と言うのです。この言葉は、諦めの言葉のようにも読めますが、すべての時を定めておられる神様への信頼の言葉でもあります。10節に、「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた」とあります。「神が人の子らにお与えになった務め」とは、私たちそれぞれの人生のことでしょう。私たちが毎日を生きること。それは神様から与えられている務めであるのです。コヘレトは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めたうえで、こう記します。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」。新共同訳は訳出していませんが、元の言葉を見ると「美しい」という言葉(ヤーフェ)が記されています。新改訳2017は、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と翻訳しています。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」。これは、すべての時を定めておられる神様への信頼の言葉であります。コヘレトは、人生には、好ましくない時があることを知りながら、それでも、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と言うのです。コヘレトは、定められた時の背後に、すべてのものをはなはだ良く造られた神様がおられることを信じているのです(創世1:31「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」参照)。
また、コヘレトは、神様が「永遠を思う心を人に与えられる」と記します。神様は、永遠(オーラーム)を人の心に与えられたのです(直訳)。神様が人の心に与えられた永遠とは何でしょうか。それは、今日の生活から明日の生活を予想する能力であると思います。私たちが、現在の生活から将来の生活へと思いを馳せることができるのは、神様が、私たち人間の心に、永遠を与えてくださったからであるのです。しかし、それでもなお、私たちには、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることはできません。私たちは、今日の生活から明日の生活の予想を立てますが、実際には、明日何が起こるか分からないのです。そのことを踏まえて、コヘレトは、「わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ」と記すのです。しかし、ここでもコヘレトは、神様のことを忘れてはいません。コヘレトが語る幸福は、神様の賜物としての飲み食いであり、労苦による満足であるからです。神様への奉仕として働き、神様に感謝して飲み食いすること。これこそ、人間にとって最も幸福なことであるのです。
3.神は人間が神を畏れ敬うように定められた
14節と15節をお読みします。
わたしは知った/すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。今あることは既にあったこと/これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。
コヘレトは、「すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、完全なものである」と記します。このことは、ウェストミンスター小教理問答の言葉で言うと、神の聖定について当てはまります。「神の聖定」とは、神の御意思の熟慮による永遠の決意(計画)であり、これによって神様は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです(問7参照)。そして、この聖定が、創造の御業と摂理の御業によって実行されるのです。神様が創造されたものを保ち、統べ治められる摂理の御業について考えるとき、そこには、人間の自由意志も第二原因として用いられます(ウェストミンスター信仰告白3:1、5:2参照)。コヘレトは、第二原因としての人間の自由意志については、まったく触れていません。といいますのも、コヘレトが扱っている時は、人間(個人)の意思によってはどうすることもできない、神が定められた時であるからです。神が定められた時について、コヘレトは永遠に不変であり、完全であると言うのです。人間はそのような神の時間の中に生きる者として、神を畏れ敬うのです。よく言われますが、歴史を英語でヒストリーと言います。ヒストリーとはヒズ・ストーリー、彼の物語です。この彼とは神様のことですね。歴史は神様の物語である。その神様の物語の中に、私たちのそれぞれの人生の歴史も編み込まれているのです。
15節に、「今あることは既にあったこと/これからあることも既にあったこと」と記されています。これは、第1章9節で、コヘレトが言っていたことですね。「かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」。そのような歴史における出来事の循環は、なぜ起こるのでしょうか。コヘレトは、「神が追いやられたものを尋ね求められるからだ」と言うのです。「追いやられたもの」とは「かつて起こったこと」ですね。神様がかつて起こったことを尋ね求められるゆえに、かつて起こったことは、これからも起こるのです。これも、私たち人間には見極めることのできない神様がなされる御業であるのです。
結.永遠を思う心と主イエス・キリストを信じる信仰
今夕は、説教の結びとして、すべての時を定めておられる神様が、救い主イエス・キリストを遣わしてくださったことに想いを向けたいと願います。イエス・キリストが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたように、イエス・キリストの出来事は、神様の時が満ちて起こった出来事であるのです(マルコ1:15)。また、『ヨハネによる福音書』を読みますと、「イエスの時」という言葉が何度も出てきます。第8章20節には、「だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである」と記されています。また、イエス様は、御自分の時を知っておられました。第17章で、イエス様は天を仰いでこう言われました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。この「時」とは、イエス様が十字架に上げられる時のことです。イエス様は、神の御子として、時を完全に見極めておられます。そのイエス様から、私たちは、「今がどのような時であるのかを見極めるように」と言われているのです(ルカ12:54〜56参照)。では、今は、どのような時なのでしょうか。イエス・キリストの使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第13章で、次のように記しています。新約の293ページです。第13章11節から14節までをお読みします。
更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
私たちは、終わりの時を生きています。主イエス・キリストが再び来られる日を待ち望みながら、与えられた務めである人生を一日、一日と生きています。神様を礼拝しながら、一日一日を生きているのです。先程、私は、神様が人の心に与えられた永遠とは、今日の生活から明日の生活を予想する能力であると申しました。そのような永遠を与えられているゆえに、私たちは、この地上で、礼拝をささげているように、天上でも、礼拝をささげることができると信じているのです(詩73:25「地上であなたを愛していなければ/天で誰がわたしを助けてくれようか」参照)。主イエス・キリストを信じる信仰は、神様が与えてくださった永遠を思う心と深く結びついているのです。