神に見捨てられた神の子 2022年8月14日(日曜 朝の礼拝)

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神に見捨てられた神の子

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 15章33節~39節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。マルコによる福音書 15章33節~39節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イエス様が午前9時に、十字架につけられたこと。そのイエス様を通りかかった人々や祭司長たちが侮辱したことを学びました。イエス様は、一緒につけられた者たちからも罵られたのです。イエス様は、誰からも理解されることなく、すべての人から罵られたのです。しかし、そのイエス様と一緒に、父なる神様がおられました。それゆえ、イエス様は、人々からの侮辱を耐え忍ぶことができたのです。しかし、今朝の御言葉において、イエス様は、父なる神様からも見捨てられることになるのです。

 33節に、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記されています。神様によって、昼の十二時に全地は暗くなったのです。この暗闇は、何を意味しているのでしょうか。暗闇と聞いて、思い起こすのは、『出エジプト記』の第10章に記されている「暗闇の災い」です。主は、エジプトへの裁きとして、三日間、エジプトの地に闇を臨ませました。そのような神様の裁きが、十字架につけられたイエス様のうえに臨んでいたのです。また、暗闇と聞いて、思い起こすのは、『アモス書』の第8章の御言葉です。この所は実際に開いて、読みたいと思います。旧約の1440ページです。第8章9節と10節をお読みします。

 その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに/喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え/どの腰にも粗布をまとわせ/どの頭の髪の毛もそり落とさせ/独り子を亡くしたような悲しみを与え/その最後を苦悩に満ちた日とする。

 小見出しに、「終わりの日」とありますように、ここで、アモスは、終わりの日について預言しています。この預言のとおり、イエス様が十字架につけられた昼の12時に、大地を闇が覆ったのです。そして、このことは、十字架につけられたイエス様のうえに、終わりの日の裁きが臨んでいたことを示しているのです。イエス様のうえに臨んでいたのは、単なる神様の裁きではなく、終わりの日の神様の裁きであるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の96ページです。

 三時に、イエス様は大声で、こう叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これは、イエス様がお話しになっていたアラム語です。福音書記者マルコは、イエス様がお語りになったアラム語の音を、そのままギリシア語で表したのです。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。この御言葉は、十字架につけられたイエス様が闇の中で何を考えておられたかを、私たちに教えてくれます。イエス様は、神様に、十字架の死の苦しみから救ってくださいと祈っていたのではないでしょうか。しかし、神様は何も答えてくださらない。その神様の沈黙に対して、イエス様は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたのです。この御言葉は、『詩編』の第22編の冒頭の言葉であります。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか」。この『詩編』第22編の御言葉を、イエス様は御自分の言葉として、大声で叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。このイエス様の御言葉は、イエス様が御自分の民である私たちの罪を担って、神様から見捨てられるという絶望の死を死んでくださったことを教えています。イエス様は、かつて弟子たちに、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである」と言われました(10:45)。イエス様は多くの人を贖うための死を、十字架の上で、死のうとしておられるのです。イエス様は、罪のない御方、罪を犯したことのない御方であります。そのイエス様が、すべての人の罪を担って、言わば、罪人たちを代表する者として、神様から見捨てられる呪いの死を死のうとしておられるのです。

 また、イエス様は、ゲツセマネで、こう祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」。この杯の中には、罪人に対する神様の聖なる怒りがなみなみと注がれています。その杯をイエス様は、十字架の上で飲み干そうとしておられるのです。イエス様は、神の独り子として、神様を「アッバ、父よ」と呼び、親しい交わりを持っておられました。しかし、ここで、イエス様は、「わが神」と言われます。「アッバ、父よ」と親しく呼びかけていたイエス様が、ここでは「わが神」と呼びかけるのです。それは、先程も申しましたように、イエス様が、御自分の民の罪を担って、十字架のうえで裁きを受けておられるからです。イエス様は、私たちのメシアとして、十字架のうえで、終わりの日の裁きを受けられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたのです。

 しかし、そばに居合わせた人々の中には、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいました。イエス様の「エロイ、エロイ」という言葉を「エリヤ」と聞き間違えた者たちがいたのです(マタイ27:46「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」参照)。当時の人々は、エリヤが敬虔な人を助けに来てくれると信じていました。人々は、イエス様が助けを求めて、エリヤを呼んでいると勘違いしたのです。ある者は走り寄り、海綿(スポンジ)に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「エリヤが彼を降ろしにくるかどうか、見ていよう」と言い、イエス様に飲ませようとしました(「待て」という言葉は不必要な翻訳である。岩隈訳参照)。人々がイエス様に酸いぶどう酒を飲ませようとしたのは、イエス様を元気づけるためです。死んでしまいそうなイエス様に酸いぶどう酒を飲ませて、元気づけ、「エリヤが降ろしにくるかどうか、見ていよう」と言ったのです。しかし、ここでも、イエス様はぶどう酒をお飲みになりませんでした。主の晩餐の席において、「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と弟子たちに言われたとおり、イエス様は、ぶどう酒をお飲みにならないのです。

 「そら、エリヤを呼んでいる」。「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」。この人々の言葉も、イエス様に対する無理解をよく表しています。『列王記下』の第2章に、エリヤが炎の馬車で、天に上げられたことが記されています。エリヤは、死を経験せず、天に上げられました。また、『マラキ書』の第3章によれば、「主は、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤを遣わされる」と記されています(マラキ3:23参照)。しかし、イエス様によれば、すでにエリヤは来たのです。イエス様に先立って悔い改めの洗礼を宣べ伝えた洗礼者ヨハネこそ、エリヤであったのです(マタイ17:13参照)。洗礼者ヨハネは、イエス様に先立って活動しただけではなく、イエス様に先立って無残に殺された人物でもありました。洗礼者ヨハネは、ヘロデの妻、へロディアの娘の褒美として、首をはねられてしまったのです。主は大いなる恐るべき主の日が来る前にエリヤである洗礼者ヨハネを遣わされました。しかし、聖書に書いてあるとおり、人々は、エリヤである洗礼者ヨハネを好きなようにあしらったのです(マルコ9:13参照)。人々は、エリヤが来たことすら知らないのです。そして、十字架につけられたイエス様のうえに、主の日の裁きが到来していることを知らないのです。人々は、イエス様が自分たちの罪を担って、苦しんでおられることを知らないのです(イザヤ53:4参照)。

 ある者は、イエス様を元気づけようと、酸いぶどう酒を飲ませようとしました。しかし、イエス様は、大声を出して息を引き取られました。日本語では「息を引き取る」と翻訳されていますが、元の言葉を直訳すると「霊をはき出す」となります(息と霊は原語では同じ言葉プニューマである)。イエス様は大声を出して、霊をはき出されたのです。通常、十字架につけられて死ぬ者には、大声を出す力など残っていません。虫の息で死んで行くのです。しかし、イエス様は、大声を出して、息を引き取られた、霊をはき出されたのです。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。この神殿の垂れ幕は、聖所と神様が臨在される至聖所を隔てる垂れ幕(カーテン)のことです。聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が、上から下まで真っ二つに裂けたのです。この垂れ幕が上から下まで裂けたことは、この垂れ幕が神様によって裂かれたことを示しています。神様が臨在される至聖所には、年に一度、大祭司だけが犠牲の血を携えて入ることができました。しかし、イエス様の死によって、その垂れ幕が神様によって真っ二つに裂かれて、すべての人が神様に近づくことができるようになったのです(ヘブライ9章参照)。そのようにして、イエス様は、人間の手で造った神殿を打ち倒されたのです。イエス様は、十字架のうえで、御自分を永遠の贖いとしてささげることにより、動物犠牲に代表される儀式律法を廃棄されたのです(ヘブライ10章参照)。

 ローマの百人隊長は、イエス様の方を向いて、そばに立っていました。そして、イエス様がこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。なぜ、百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのでしょうか。それは、イエス様が最後まで、神様を信頼し、神様に依り頼む者であったからです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。このイエス様の御言葉は絶望の叫びであります。しかし、同時に、信頼の叫びでもあるのです。イエス様は、この叫びによって、神様が自分の神であり、自分のことを決してお見捨てにはならないことを言い表したのです。イエス様は、「神などいない」と叫ばれたのではありません。イエス様は、神様を「わが神」と呼び、自分を見捨てることは決してないとの信仰をもって、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです(信仰がなければ、このような叫びは決して出て来ない)。この時、百人隊長が、どのような意味で、「神の子」と言ったのかは分かりません。神のような超人的な人物であると言っただけかも知れません。しかし、「本当に、この人は神の子だった」という百人隊長の言葉は、真実であるのです。十字架につけられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てなったのですか」と大声で叫び、人々からあざけられ、再び大声を出して息を引き取られたイエス様こそ、神の子であるのです。福音書記者マルコは、この福音書の最初に、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉を書きました(1:1)。そして、イエス・キリストが神の子であることが、十字架の死を側で見ていた、ローマの百人隊長の口から語られたのです。イエス・キリストの十字架の死の出来事は、イエス・キリストが神の子であることを示す出来事であったのです。百人隊長は、イエス・キリストの十字架の死の出来事を側で見ていたゆえに、「本当に、この人は神の子だった」と告白することができたのです。しかし、それだけではありません。この百人隊長は、イエス様のはき出された霊、聖霊を受けて、「本当に、この人は神の子だった」と告白することができたのです。洗礼者ヨハネは、自分より後から来られる方について、「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と語っていました(マルコ1:8)。その聖霊による洗礼を、イエス様が霊をはき出されたとき、側に立っていた百人隊長は受けたのです(ヨハネ20:22参照)この百人隊長は、イエス・キリストの十字架の死の出来事を見て、イエス・キリストの聖霊を受けたゆえに、「本当に、この人は神の子だった」という言葉を語ることができたのです(一コリント2:14参照)。そのようにして、この地上に初めて、イエス様のことを「神の子と呼ぶ人間」が生まれたのです(マタイ福音書のペトロの信仰告白は「あなたはメシア、生ける神の子です」であるが、マルコ福音書では「あなたは、メシアです」である)。

 イエス様は、「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。そのことは、イエス様が、私たちに代わって、神様から見捨てられる絶望の死を死んでくださったことを教えています。それゆえ、イエス・キリストを信じる私たちは、神様から見捨てられる絶望の死をもはや死ぬことはないのです。私たちも、神様から見捨てられたと思うことがあるかも知れません。しかし、そのようなことはありません。なぜなら、イエス様が、私たちに代わって、神様から見捨てられる絶望の死を既に死んでくださったからです。イエス様は、私たちの罪を担って、終わりの日の裁きを受けてくださいました。それゆえ、私たちは、安心して死ぬことができるのです。私たちが、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶことがあったとしても、イエス・キリストがおられる天国に行くことができることを信じて、安心して死ぬことができるのです。

 今朝の説教題を「神に見捨てられた神の子」とつけました。神に見捨てられたイエス様が神の子である。これはひとつの逆説であります。しかし、その逆説においてこそ、私たち人間の救いが成し遂げられたのです。神の子が、私たち人間の罪を担って裁かれ、父なる神から見捨てられることによって、私たち人間の救いは成し遂げられたのです。イエス様は、父なる神から見捨てられる絶望の死を死なれることによって私たちの救いを成し遂げてくださいました(イザヤ53:10参照)。それゆえ、私たちは、「本当に、この人は神の子だった」と言って、十字架につけられた主イエス・キリストを、心からほめたたえているのです。

 今朝は最後に、多くの人の罪を担ったイエス様を裁かれた父なる神様に心を向けたいと思います。この説教の初めに、『アモス書』の第8章の御言葉をお読みしました。その10節に、主なる神は、終わりの日に、「独り子を亡くしたような悲しみを与え/その最後を苦悩に満ちた日とする」と記されていました。これは、本来、私たちが受けるべき悲しみであり、苦悩であります。しかし、父なる神様は、独り子であるイエス・キリストを十字架の死に引き渡されることにより、その悲しみと苦悩を引き受けてくださったのです。イエス様の祈りに沈黙された神様は、決して涼しい顔をしておられたのではありません。その時、神様のはらわたは、悲しみと苦悩で引きちぎれていたのです。ですから、使徒ヨハネは、こう記すことができたのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

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