イエスの自己証言 2022年7月17日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

イエスの自己証言

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 14章53節~65節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:53 人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。
14:54 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。
14:55 祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。
14:56 多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。
14:57 すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。
14:58 「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」
14:59 しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。
14:60 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
14:61 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。
14:62 イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」
14:63 大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。
14:64 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。
14:65 それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。マルコによる福音書 14章53節~65節

原稿のアイコンメッセージ

 先週、私たちは、イエス様が、祭司長たちの遣わした群衆によって、捕らえられたことを御一緒に学びました。弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げてしまいましたが、イエス様は逃げませんでした。イエス様は、聖書に記されている神様の御計画を実現するために、あえて捕らえられたのです。今朝の御言葉はその続きであります。

 イエス様を捕らえた人々は、イエス様を大祭司の屋敷に連れて行きました。そこでは、祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まっていました。祭司長、長老、律法学者たち、この三者は、ユダヤの最高法院を構成する者たちです。当時、ユダヤの国はローマ帝国の支配下にありました。しかし、自治は認められていました。その自治組織が、大祭司を議長とする70人の議員からなる最高法院であったのです。第14章1節に、「祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」と記されていました。その祭司長、長老、律法学者たちが、人々がイエス様を捕らえて連れて来るのを待っていたのです。

 54節に、ペトロのことが記されています。ペトロもイエス様を見捨てて逃げてしまったのですが、遠く離れてイエス様に従いました。ペトロは大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座り、火にあたっていました。ペトロについては、66節以下に記されていますので、次週学びたいと思います。

 大祭司の屋敷では、最高法院によるイエス様の裁判が行われていました。「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」と記されています。このことは、この裁判がいかにデタラメな裁判であったかを示しています。裁判を行う前から、イエス様は有罪であり、死刑であるという判決が下っているのです。この裁判の目的は、手続きを踏んで、それに相応しい証言を得ることであったのです。祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエス様にとって不利な証言を求めましたが、得られませんでした。それは当然のことですね。イエス様は罪を犯したことがない御方であるからです。「叩けば埃が出る」(どんなに表面を取り繕っていても、細かく調べていけば、欠点や不正、悪事などが出てくるものだという意味)と言いますが、イエス様からは叩いても埃一つ出て来ないのです。それで、多くの者が、イエス様に不利な偽証をしました。これは明らかに、十戒の第九戒違反であります。「隣人に関して偽証してはならない」と命じられていたにも関わらず、多くの者は、イエス様に不利な偽証をしたのです(出エジプト20:16)。しかし、その証言は食い違っていました。律法には、二人または三人の証言が一致したとき、その証言は真実であると定められていました(申命19:15参照)。ですから、一致しない、食い違った証言は、無効であるのです。すると、数人の者が立ち上がって、イエス様に不利な偽証をしました。彼らは、「この男が、『わたしは人間の手で造った神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』というのを私たちは聞いた」と言ったのです。この数人の者たちの偽りの証言の源には、おそらく、イエス様が神殿を「強盗の巣」と呼ばれたこと。また、神殿の崩壊を預言されたことがあると思われます。第11章で、イエス様は神殿から商人を追い出されて、人々に教えて、こう言われました。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである』ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった」。これを聞いた祭司長たちや律法学者たちは、イエス様をどのように殺そうかと謀ったのです。祭司長たちがイエス様を殺そうと決意したのは、イエス様が神殿を強盗の巣と呼んだことによるのです。かつて預言者エレミヤは、神殿を「強盗の巣窟」と呼んで、厳しく非難しました(エレミヤ7:11参照)。そのエレミヤと同じように、イエス様は、神殿を「強盗の巣」と呼び、厳しく非難されたのです。また、イエス様は、神殿の崩壊を予告されました。イエス様は、神殿について、「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言う弟子たちに、こう言われました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(13:2)。イエス様は、神殿が徹底的に破壊されることを予告されたのです。どうも、このイエス様の御言葉が曲解されて、人々に伝わっていたようです。イエス様は、御自分が神殿を破壊するとは言われませんでした。しかし、人々は曲解して、イエス様が自分の手で神殿を破壊するかのように言っていたと噂していたのです。このような、神殿に対する非難がどれほど危険であるかは、エレミヤのことを見るならばよく分かります。『エレミヤ書』の第26章の1節から10節までをお読みします。旧約の1225ページです。

 ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の初めに、主からこの言葉がエレミヤに臨んだ。

 「主はこう言われる。主の神殿の庭に立って語れ。ユダの町々から礼拝のために主の神殿に来るすべての者に向かって語るように、わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。彼らが聞いて、それぞれの悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの悪のゆえにくだそうと考えている災いを思い直す。彼らに向かって言え。主はこう言われる。もし、お前たちがわたしに聞き従わず、わたしが与えた律法に従って歩まず、倦むことなく遣わしたわたしの僕である預言者たちの言葉に聞き従わないならば--お前たちは聞き従わなかったが--わたしはこの神殿をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の呪いの的とする。」

 祭司と預言者たちとすべての民は、エレミヤが主の神殿でこれらの言葉を語るのを聞いた。エレミヤが、民のすべての者に語るように主に命じられたことを語り終えると、祭司と預言者たちと民のすべては、彼を捕らえて言った。「あなたは死刑に処せられねばならない。なぜ、あなたは主の名によって預言し、『この神殿はシロのようになり、この都は荒れ果てて、住む者もなくなる』と言ったのか」と。すべての民は主の神殿でエレミヤのまわりに集まった。ユダの高官たちはこれらの言葉を聞き、王の宮殿から主の神殿に上って来て、主の神殿の新しい門の前で裁きの座に着いた。

 このように、神殿の崩壊について語ることは、死刑に処せられる恐れのある危険なことであったのです。それも、数人の者たちは、イエス様が自分の手で神殿を壊すかのように言っていたと、偽証していたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の93ページです。

 数人の者が、「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」と証言しましたが、この場合も彼らの証言は食い違いました。これはどういうことか、と言いますと、この数人の者たちが、いつ、どこで、それを聞いたのかが一致しなかったということです。一人一人別々に呼び出して、いつ、どこで聞いたかを確認すると、それが一致しなかった。それゆえ、その証言は彼らが示し合わせた偽りの証言であることが明らかになったのです(旧約聖書続編『ダニエル書補遺スザンナ』51~64参照)。

 そこで、裁判官である大祭司は立ち上がり、進み出て、イエス様にこう尋ねます。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」。この大祭司の言葉は、おかしな言葉ですね。なぜなら、イエス様を訴える証言は、どれも一致しない偽りの証言であり、答える必要がないからです。けれども、大祭司は、その証言があたかも有効であるかのように、イエス様に答弁を促すのです。しかし、イエス様は黙り続けて何もお答えになりませんでした。イエス様は、屠り場に引かれる小羊のように口を開かなかったのです(イザヤ53:7参照)。そこで、重ねて大祭司はこう尋ねます。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」。これは、急所を突く問いです。と言いますのも、大祭司は、イエス様を神の子、メシア、王と自称する、ローマ帝国の支配に逆らう者として訴えようとしていたからです(12:13~17「皇帝への税金についての問答」参照)。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」。この問いに対して、イエス様は「そうです」と答えられました。この「そうです」は「わたしである」とも訳される「エゴ エイミー」という言葉です(出エジプト3:14「わたしはある。わたしはあるという者だ」参照)。イエス様は、「わたしこそ、神の子であり、メシア、油注がれた者、イスラエルの王である」とはっきり言われたのです。さらに、イエス様はこう言われます。「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」。このイエス様の御言葉は、『詩編』の第110編と『ダニエル書』の第7章の御言葉を背景にしています。イエス様は、御自分が全能の神の右に座り、世の終わりにすべての人を裁くために来られるメシアであると言われたのです。これは、大祭司が予想もしていなかった答えであります。イエス様は、御自分がイスラエルをローマ帝国の支配から解放するメシアではなくて、神に等しい、世の終わりにすべての人を裁くメシアであると言われたのです(12:35~37「ダビデの子についての問答」参照)。ですから、大祭司は、衣を引き裂きながら、こう言うのです。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか」。どうして、イエス様の御言葉が、「冒涜の言葉」となるのでしょうか。それは、大祭司も最高法院の議員たちも、イエス様が「ほむべき方の子、メシアである」と信じていなかったからです。ましてや、イエス様が全能の神の右に座り、世界を裁くために来られるメシアであるとは、信じていませんでした。ですから、彼らはイエス様の御言葉を、自分を神と等しい者として神を汚す、冒涜の言葉として聞いたのです。そして、一同は、イエス様を死刑にすべきだと決議したのです。それから、ある者はイエス様に唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めました。ここで「言い当ててみろ」と訳されている言葉は直訳すると「預言してみろ」となります。そのようにして、最高法院の議員たちは、イエス様を侮辱したのです。また、下役たちは、イエス様を平手で打ちました。ここでも、イエス様は何も語らず、耐え忍ばれるだけです。イエス様は、主の僕として、人々からの嘲りと唾を受けられるのです(イザヤ50:6参照)。

 大祭司の言葉、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という言葉に対して、イエス様は、「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」とはっきりと言われました。今朝の説教題を「イエスの自己証言」としました。イエス様は、はっきりと御自分が何者であるのかをお語りになりました。大祭司と最高法院の議員たちは、そのイエス様の御言葉を、神を冒涜する言葉として聞きました。しかし、必ずしもそのようには言えません。なぜなら、イエス様が言われたとおりの御方である可能性もあるからです。イエス様が、神の子であり、メシアであることは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後で、聖霊が鳩のようにくだり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、天からの声によって示されました(9:7も参照)。また、イエス様は、御自分がダビデ以上のメシア、神の右の座に着くメシアであることを弟子たちに教えられました(8:38参照)。さらには、世の終わりに、力と栄光を帯びて雲に乗って来るメシアであることを、弟子たちに教えられました(13:24~27参照)。そして、そのことを、イエス様は、最高法院の議員たちの前で、はっきりと言われたのです。そのことを言えば、罪に定められ、死刑に処せられることを御存じでありながら、イエス様は、「わたしが神の子、メシアである」と大胆に言われたのです。それは、イエス様が、自分自身を否むことができなかったからです。『テモテへの手紙二』の第2章13節に、こう記されています。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」。イエス様は、御自身を否むことができない。御自身を偽ることができない、自己に真実な御方であるのです。それゆえ、イエス様は、最高法院の議員たちの前で、さらには神様の御前で、「わたしが神の子、メシアである」と真実な証言をされたのです。そして、イエス様は、この自己証言によって、十字架の死を死ぬことになるのです。イエス様を死に定めるのは、人間の偽りの証言ではありません。なぜ、人々の証言はことごとく一致しなかったのでしょうか。それは、神様が、そのことをお許しにならなかったからです。イエス様を死に定めるのは、人々の偽りの証言ではなくて、イエス様御自身の真実な証言であるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す