人間にとって最も良いこと 2022年7月10日(日曜 夕方の礼拝)

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人間にとって最も良いこと

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コヘレトの言葉 2章18節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:18 太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。
2:19 その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。
2:20 太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。
2:21 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。
2:22 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。
2:23 一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。
2:24 人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの。
2:25 自分で食べて、自分で味わえ。
2:26 神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。コヘレトの言葉 2章18節~26節

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序.

 月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は、第2章18節から26節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.労苦をいとうコヘレト

 18節から21節までをお読みします。

 太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していた。知恵と知識と才能を尽くして、労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。

 エルサレムの王、ソロモンを装うコヘレトは、「太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう」と言います。「労苦の結果」とありますが、元の言葉は「労苦」(アーマール)です(聖書協会共同訳、新改訳2017参照)。コヘレトは、「太陽の下でしたこの労苦を、わたしはすべていとう」と言うのです。前回、私たちは、「わたしは生きることをいとう」というコヘレトの言葉を読みました(17節)。コヘレトは、賢者も愚者も等しく死ぬ、死に支配された人生を生きることをいとうと言ったのです。今夕の御言葉で、コヘレトが「労苦をいとう」と言うのも、死の支配と関係があります。なぜなら、人間は、労苦した結果を、死者の世界に持っていくことはできないからです。人は裸で生まれ、裸で去っていくのです。人はいくら労苦しても、死んでしまえば、その労苦の結果を、後から来る人に残すだけであるのです。しかも、その者が賢者であるか愚者であるかは、誰にも分かりません。愚者であれば、その労苦の実りを無益なことに使い果たしてしまうことでしょう。いずれにせよ、コヘレトが太陽の下で、知力を尽くし、労苦した結果を、まったく労苦しなかった者が自分の分(遺産)として受け継ぐことになるのです。それゆえ、労苦してきたことすべてに、コヘレトの心は絶望していたのです。これは贅沢な悩みのように思えます。裕福な王様の悩みであって、自分と家族が生きるため労苦している私たちには、関係ないように思えます。しかし、ここでコヘレトが言っていることは、真実ですね。人はいくら労苦しても、その労苦の実りを、後に来る誰かに与えねばならないのです。そのことを思うときに、労苦することが空しく、大いに不幸なことに思えてくるのです。

2.神の手からいただくもの

 22節から25節までをお読みします。

 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ。

 コヘレトが「まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう」と記すとき、そこには、労苦の目的が富を得るためという前提があります。ここでの労苦は、労働の苦しみのことでしょう。コヘレトが生きている世界、また、私たちが生きている世界は、はじめの人アダムの違反によって、創造の状態から堕落してしまった世界であります。エデンの園において、神様は、アダムに向かってこう言われました。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創世3:17~19)。このように、人は食べるために労苦しなければならなくなったのです。はじめの人アダムの罪によって、人生は痛みと悩みに満ちたものとなったのです。夜は心と体を休ませるときであります。しかし、「夜も心は休まらない」とコヘレトは言うのです。コヘレトは悩みのために、なかなか眠れなかったのかも知れません。そのような空しい人生において、コヘレトは、良いことがあると記します。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること」。人間は、飲み食いするために、労苦しなければなりません。しかし、そこには良いこと、楽しみが伴っています。食べたり、飲んだりすること。それも、親しい者と一緒に食べたり、飲んだりすることは、人間にとって大きな喜びです。また、働くことによって得られる喜びがあります(能力の開発や達成感、人からの感謝など)。私たちが働く動機付けは、富を得るためだけではなく、やりがいや社会貢献など、いくつもあるのです。毎日の食事に感謝し、労苦の中に幸せを見出すこと。それは、誰でもできることではありません。それゆえ、コヘレトは、「しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの」と言うのです。このコヘレトの言葉は、日ごとの食事と仕事が、神様から与えられていると信じることの大切さを私たちに教えています。私たちは、主の祈りにおいて、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ります。そして、食事の前に、「神様、ごはんをありがとうございます」と感謝の祈りをささげるのです。また、私たちは、仕事を、神様からの召し(コーリング)として理解します。牧師になることだけが、神様の召しではありません。この世の仕事に就くことも神様の召しによるのです。ですから、若い学生の方は、神様の召しを祈り求めつつ、職業選択をしていただきたいと思います。神様から日ごとの糧をいただき、神様の召しによって働いていることを信じるとき、その人は、自分で食べて、自分で味わうことができるのです。今、与えられている神様の恵みを、自分で楽しむことができるのです。

3.神の自由な恵み

 26節をお読みします。

 神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。

 ここで、コヘレトが強調しているのは、神様の自由な主権です。「善人と認めた人」とは、神様が良しとされた人のことです(新改訳2017参照)。また、「悪人」とは神様が良しとされない人のことです。神様が知恵と知識と楽しみを与えられることは、人間の行いにかかっているのではなくて、神様の自由な恵みにかかっているのです。その昔、ノアが神様の御前に恵みを得たように、ある人は恵みを得て、知恵と知識と楽しみを与えられるのです。ここでの「楽しみ」には「楽しむことができる心」も含まれています。私たちが何かをして楽しいと感じるのは、そのことを楽しむことができる心が与えられているからなのです。神様は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみをお与えになります。そして、その知恵とはイエス・キリストを信じる知恵であり、その知識とは日ごとの食事や仕事が神様によって与えられていることを知る知識であり、その楽しみとは食事の交わりや主に仕えるように働く楽しみであるのです。イエス・キリストを信じる私たちには、神様の自由な恵みによって、そのような知恵と知識と楽しみを与えられているのです。

結.人間にとって最も良いこと

 私たちキリスト者の人生にも、多くの痛みと悩みがあります。しかし、私たちは、その痛みと悩みを、父なる神様の御手からいただくのです。そのとき、私たちは、痛みと悩みの中にも、神様の恵みが隠れていることを見出すことができます。今夕は、最後に『コリントの信徒への手紙二』の第12章7節から10節までを読みたいと思います。新約の339ページです。

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 ここには、パウロが、自分を痛めつけるためにサタンから送られてきた使いを離れさせてくださいと、三度、主に願ったことが記されています。このサタンからの使いは、何らかの病気(眼病?)であったと考えられています。パウロは、「サタンの使いを自分から離れ去らせてください」と三度、主イエスに願ったのです。すると、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われたのです。これは、私たちに言われている御言葉でもあります。痛みと悩みの中にある私たちに、主イエス・キリストは、「わたしの恵みはあなたに十分である」「わたしはあなたに十分な恵みを与えている」と言われるのです。そして、「あなたの弱さの中でこそ、主の力が十分に発揮される」と言われるのです。それゆえ、パウロは、こう記します。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。ここでのパウロの状態は、コヘレトの状態とはかけ離れています。コヘレトは、労苦の実りを遺産として残すことで、空しさを感じていました。しかし、パウロは、窮乏の中にあって、キリストのゆえに満足していたのです。それは、パウロが、死者の中から復活されたイエス・キリストを信じていたからです。コヘレトは死に支配された人生を生きていました。しかし、パウロは、復活の命が支配する人生を生きているのです。それゆえ、パウロは、食べるにも飲むにも、何をするにも、神の栄光のために行うことができたのです(一コリント10:31参照)。パウロだけではありません。イエス・キリストを信じる私たちも、食べるにも飲むにも、何をするにしても神様の栄光のために行うことができるのです。それが、イエス・キリストの使徒パウロの教える、人間にとって最も良いことであるのです。

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