イエスの願い 2022年7月03日(日曜 朝の礼拝)
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マルコによる福音書 14章32節~42節
聖書の言葉
14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」マルコによる福音書 14章32節~42節
メッセージ
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序.
今朝は、『マルコによる福音書』の第14章32節から42節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.「アッバ、父よ」と祈るイエス
イエス様と弟子たちは、ゲツセマネという所に来ました。「ゲツセマネ」とは、オリーブ山のふもとにある園で、「油しぼりの場所」という意味です(オリーブ油)。イエス様は、弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われました。そして、イエス様は、ペトロとヤコブとヨハネの三人だけを伴われました。ペトロとヤコブとヨハネの三人は、イエス様の最初の弟子たちであり、イエス様が特に目をかけていた弟子たちです。イエス様は、ヤイロの娘をよみがえらせたときも、高い山に登って祈られたときも、この三人だけを伴われました(5:37、9:2参照)。また、この三人とアンデレに、世の終わりについてお話しになりました(13:3参照)。イエス様は、なぜ、ペトロとヤコブとヨハネの三人を伴われたのでしょうか。その理由の一つは、彼らをこれから起こることの証人とするためです。ユダヤでは、「二人または三人の一致した証言は真実である」と見なされていました(申命19:15参照)。イエス様は、三人の弟子たちを、これから起こることの証人とされたのです。私たちは、この三人の弟子たちの証言によって、イエス様のご様子や祈りの言葉を知ることができるのです。また、イエス様が、三人の弟子たちを伴われたのは、心細かったからだと思います。イエス様は、ひどく恐れてもだえ始め、三人の弟子たちにこう言われます。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」。イエス様は、少し進んで地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈りました。ひれ伏すとは、これ以上低くできないほど、自分を低くする祈りの姿です。イエス様は、神様の御前に、これ以上できないほど、自分を低くして祈られたのです。新共同訳は、「この苦しみの時」と翻訳していますが、元の言葉は、「その時」と記されています。41節に「時が来た」とありますが、元の言葉では同じ言葉です。イエス様は、御自分が罪人たちの手に引き渡される時が過ぎ去るようにと祈られたのです。そのイエス様の祈りの言葉が36節に記されています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。「アッバ」とは「父よ」という意味で、イエス様がお話しになったアラム語です。新約聖書は、ギリシア語で記されていますが、「アッバ」というアラム語がギリシア語に音写されています。それは、「アッバ」という言葉が、イエス様に特有の呼びかけの言葉であるからです。「アッバ」とは、幼い子供が父親に用いる親しい呼びかけです(家庭内言語)。日本語で言えば、「お父さん」となります。イエス様の時代、誰も神様に対して「アッバ」「お父さん」と呼びかける人はいませんでした。神様に対して不遜であると考えられていたからです。しかし、イエス様は、「アッバ」「お父さん」と呼びかけて、祈られたのです。イエス様は、神の独り子として、「アッバ、父よ」と親しく祈られたのです(マルコ1:11参照)。
昔、ある本を読んでおりましたら、こういうお話しが記されていました。ある信徒が「天のお父さま」と呼びかけて、お祈りをした。すると、それを聞いていたある牧師が「甘ったれるな」と言ったというのです。けれども、イエス様は、「アッバ、父よ」「天のお父さま」と祈られたのです。そして、イエス様は、弟子たちにも「アッバ、父よ」祈るように教えられたのです。『ルカによる福音書』の第11章に、イエス様が弟子たちに、「主の祈り」を教えられたことが記されています。イエス様は、「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように』」と言われました。イエス様が、「父よ」と呼びかけられたとき、その父は、アラム語の「アッバ」であったと考えられています。イエス様は、弟子である私たちに、神様を「お父さん」と呼びかけるように言われたのです。イエス・キリストにあって、神の子とされた私たちは、イエス様と同じように、「アッバ、父よ」「天のお父さま」と親しくお祈りすることができるのです。
2.イエスの願い
イエス様は、神の独り子としての全幅の信頼をもって、「アッバ、父よ」と呼びかけ、こう言われました。「あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、あなたの御心に適うことが行われますように」。イエス様は、天のお父さまに、「この杯をわたしから取りのけてください」と願われました。「この杯」とは、イエス様がこれから受けようとしておられる神の裁きのことです(イザヤ51:17参照)。この杯の中には、罪人に対する神様の聖なる怒りがなみなみと注がれています。イエス様は、その杯を十字架の上で受けようとしておられるのです。イエス様は、これから御自分が罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられて殺されることを御存じでありました。それが、聖書に記されている、神様の御計画であることを御存じでありました。イエス様は、多くの人を罪の奴隷状態から贖うために、御自分が死なれること。十字架の血潮によって、新しい契約が結ばれることを御存じでありました。そのイエス様が、「この杯をわたしから取りのけてください」と願われたのです。イエス様は、「天のお父さま、あなたは何でもおできになる御方です。どうか、わたしが十字架の死を死ななくても済むようにしてください」と願われたのです。それほど、イエス様は、十字架の死を恐れられたのです。イエス様がこれから死のうとしている十字架の死は、ただの死ではありません。イエス様は、罪のない御方でありながら、多くの人の罪を担って、神の裁きとしての呪いの死を死なれるのです。イエス様は、肉体の死、霊的な死、永遠の死をこれから死のうとしておられるのです。私たち人間は、死というものがよく分かりません。ですから、つらいことがあると、「死んでしまいたい」と思うのです。この地上の苦しみから、死が自分を解放してくれるかのように考えたりするのです(死の神格化)。しかし、それは間違いです。聖書の教えによれば、死は罪の報いであり、そこには神の裁きがあります。はじめの人アダムは、なぜ、死ぬ者となったのか。それは、禁じられていた木の実を食べてしまったからです(創世2:17参照)。アダムは、禁じられていた木の実を食べたことの罰として、生涯食べ物を得ようと苦しみ、ついには死ぬ者となったのです。そのような罪の刑罰としての死を、イエス様は、罪のない御方でありながら、すべての罪人のために死のうとしておられるのです。このイエス様の祈りは、もっともな祈りだと思います。もし、私たちが、死刑囚の身代わりとして死ぬように言われたら、どうでしょうか。いやですよね。罪のないイエス様であれば、なおさらであります。イエス様は、これまで、御自分の死と復活について、何度も語ってこられました。そして、イエス様は、その度に、できれば十字架の死を死にたくないと思っておられたのです。そのイエス様の思いが、最後の最後に、祈りとして、父なる神に打ち明けられるのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。ここで、イエス様は、はっきりと、御自分の願いを語っておられます。イエス様の願いは、「この杯をわたしから取りのけてください」という願いです。けれども、イエス様は、その願いを父なる神に、押しつけることはしませんでした。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と願うのです。ここで、イエス様は、自分の意志よりも、神様の意志が行われることを願っておられます。イエス様は、自分の意志を願いとして申し上げながら、その自分の意志よりも、神様の意志が行われることを願われたのです。そして、これこそ、私たちが見倣うべき祈りの模範であるのです。私たちにも、それぞれにいろいろな願いがあります。祈りにおいて、私たちは、その願いを率直に申し上げてよいのです。しかし、その自分の願いを神様に押しつけない。自分の願いを申し上げつつも、神様の御心に適うことが行われますようにと願うのです。そのような祈りの中で、私たちは父なる神様の御意志に、自分の意志を従わせる、従順を学ぶことができるのです(ヘブライ5:7、8参照)。
3.眠ってしまった弟子たち
それから、イエス様がお戻りになると、弟子たちが眠っているのを見つけられました。イエス様は、ペトロにこう言われます。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」。新共同訳は、「一時(いっとき)も」と翻訳していますが、新改訳2017は、「一時間でも」と翻訳しています。私は、新改訳2017の「一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか」という翻訳の方がよいと思います。ペトロたちも、最初は、目を覚ましていたと思います。そして、イエス様のもだえ苦しむお姿を見て、その祈りの言葉を聞いていたと思います。しかし、イエス様の祈りが長く続いたので、弟子たちは眠ってしまったのです。一時間の祈りが長いのか、短いのかは、人によって判断が異なるでしょう。けれども、いつもは短くしか祈らない人でも、自分の命や家族の命にかかわることなら、長く祈るのではないかと思います。イエス様のゲツセマネの祈りは、まさに御自分の命にかかわる祈りでありました。イエス様は、眠っている弟子たちを起こして、「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われました。ここでの「誘惑」とは何のことでしょうか。それは、イエス様を見捨てて逃げてしまう誘惑のことです。さらには、イエス様のことを三度知らないと言ってしまう誘惑のことです。先週、学びましたように、イエス様は、弟子たちに、「あなたがたは皆、つまずく」と言われました。それに対して、ペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いました。さらには、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。ヤコブとヨハネも、同じように言ったはずです(14:31参照)。けれども、彼らは、そのために祈っていないのです。「わたしはつまずかない」。「わたしはあなたを知らないとは決して言わない」と言いながら、そのために、祈っていないのです。そのことをイエス様は、指摘しておられるのですね。イエス様は、「心は燃えても、肉体は弱い」と言われました。これはどういう意味でしょうか。私は、弟子たちに対する同情を込めた言葉であると思います。彼らは、心から、イエス様を慕っておりました。ペトロが、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても」と言ったとき、ペトロは、本心から、イエス様となら一緒に死んでもよいと思っていたはずです。そのように心は燃えていても、肉体は弱く、ついていかない。彼らは祈ることができずに、眠ってしまうのです。
結.父なる神の心を自分の心としたイエス
イエス様は、更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られました。そして、再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていました。新共同訳は「ひどく眠かったのである」と翻訳していますが、新改訳2017は「まぶたがとても重くなっていたのである」と翻訳しています。目を開けておれないほどの眠気が弟子たちを襲っていたのです。弟子たちは、イエス様に何と言えばよいのか分かりませんでした。イエス様は更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られました。イエス様は、三度も、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られたのです。そして、この三度の祈りの中で、イエス様は、父なる神の御意志を、御自分の御意志とされたのです。イエス様は、御自分が杯を飲むという神様の御心に適うことを、御自分の願いとされたのです。イエス様は、「アッバ、父よ、あなたの御心である杯を、わたしが受けることができるようにしてください」と願う者とされたのです。それゆえ、イエス様は、弟子たちにこう言われます。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。ここには、ひどく恐れて、もだえ苦しむイエス様のお姿はありません。イエス様は、父なる神の御心を御自分の心とされた御方として、自ら進んで、杯をお受けになるのです。