再会の約束 2022年6月26日(日曜 朝の礼拝)

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再会の約束

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 14章26節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。マルコによる福音書 14章26節~31節

原稿のアイコンメッセージ

序.前回の振り返り

 前回、私たちは、イエス様が、過越の食事の席において、これから死のうとしておられる十字架の死の意味を解き明かされたことを、御一緒に学びました。イエス様は、パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて、こう言われました。「取りなさい。これはわたしの体である」。また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、弟子たちにお渡しになりました。弟子たちは皆、その杯から飲みました。そして、イエス様は、こう言われたのです。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。イエス様は、弟子たちが皆、杯のぶどう酒を飲んだ後で、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われたのです。それは、エレミヤが預言していた新しい契約が、神様とイエス・キリストとの間で結ばれるからです。古い契約であるシナイ契約は、モーセを仲介者として、神様とイスラエルの人々の間で結ばれました。シナイ契約は、イスラエルの人々の言葉、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」という言葉に基づいて、雄牛の血によって結ばれたのです。しかし、新しい契約は、神様とイエス・キリストとの間で結ばれたのです。イエス・キリストの従順に基づいて、イエス・キリストの十字架の血潮によって結ばれたのです。それゆえ、私たちが、新しい契約の祝福にあずかるには、イエス・キリストを信じて、その肉であるパンと、その血であるぶどう汁にあずかる必要があるのです。

 イエス様は、続けて、こう言われました。「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」。このイエス様の御言葉は、イザヤが預言した、神の国での祝宴を背景にしています。イエス様は、「今度、あなたたちと共にぶどう酒を飲むのは、栄光の神の国においてである」と弟子たちに言われたのです。

 このように、イエス様は、過越の食事の儀式に代わるものとして、主の晩餐の礼典を定めてくださいました。私たちは、月に一度、第一主日において、主の晩餐の礼典にあずかります。そこで、私たちが想い起こすべきは、イエス・キリストの十字架の死であります。イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架の死を死んでくださった。その十字架の死に至るまでの従順と血潮によって、新しい契約を結んでくださったということです。さらには、十字架の死から栄光の体で復活されたイエス・キリストと、栄光の神の国で、一緒に飲み食いをすることができるということです。主の晩餐の礼典は、栄光の神の国での祝宴の先取りでもあるのです。

 ここまでは、前回の振り返りであります。今朝はその続きとなります。

1.つまずきの予告

 26節に、「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」とあります。過越の食事の最後には、詩編の第115編から第118編(ハレルヤ詩編)が歌われたと言われています。イエス様は、過越の食事を終えて、オリーブ山へと出かけられたのです。いつもならば、夜はベタニアに行って宿を取るのですが、過越の食事の日は、神様がその名を置かれた場所、エルサレムで過ごすことになっていました(申命16:7参照)。それで、エルサレムの一部と見なされていたオリーブ山へ出かけられたのです。今朝の御言葉には、エルサレムの二階の広間から、オリーブ山へと向かう途上での、イエス様と弟子たちとの対話が記されています。イエス様と弟子たちは、夜、月明かりに照らされて、オリーブ山へと向かって行きました。エルサレムは高台(標高790メートル)にあり、谷に囲まれていたので、その道は下り坂でした。ですから、弟子たちは、つまずかないように気をつけながら、歩いていたと思います。その弟子たちに、イエス様は、こう言われるのです。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。新共同訳は「あなたがたは皆わたしにつまずく」と翻訳していますが、元の言葉には「わたしに」とは記されていません。「わたしに」という言葉は新共同訳の補足であります。イエス様は、「あなたがたはみな、つまずきます」と言われたのです(新改訳2017参照)。「つまずく」とは、転んで、倒れてしまうこと。イエス様を見捨てて逃げてしまうことです。これまで、イエス様は、御自分が祭司長たちや律法学者たちに引き渡されることを予告してきました(10:33参照)。しかし、そのときの弟子たちについては、何も語ってこられなかったわけです。その弟子たちについて、イエス様は言われます。「あなたがたは皆、つまずく」。そして、そのことは、聖書に書いてあることの実現として起こるのです。ここで、イエス様は、『ゼカリヤ書』の第13章7節の御言葉を引用しておられます。実際に開いて、確認したいと思います。旧約の1493ページです。第13章7節から9節までをお読みします。

 剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ/銀を精錬するように精錬し/金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え/「彼こそわたしの民」と言い/彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。

 イエス様が、引用されたのは、7節でありますが、9節までをお読みしました。それは、イエス様を見捨てて逃げてしまうことが、弟子たちにとって、銀を精錬するような試練となるからです。また、その試練を通して、「彼こそわたしの民」「主こそわたしの神」という親しい交わりが実現することになるのです。イエス様は、そこまで念頭において、『ゼカリヤ書』の預言を引用されたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の92ページです。

 弟子たちが皆つまずくこと。それは、聖書の御言葉の実現であります。羊飼いであるイエス様が打たれるとき、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまうのです。しかし、それによって、イエス様と弟子たちとの関係が終わってしまうのではありません。28節で、イエス様はこう言われます。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。イエス様は、ガリラヤで弟子たちと再会することを約束してくださいました。復活されたイエス様は、ガリラヤにおいて、弟子たちを再び一つの群れとしてくださるのです。なぜ、ガリラヤなのでしょうか。ガリラヤは、イエス様が神の国を宣べ伝え始められた場所です(1:14、15参照)。また、イエス様が弟子たちを召し出された場所でもあります。イエス様も弟子たちも、ガリラヤ出身であるのです。その故郷であるガリラヤで、「わたしはあなたがたを待っている」と、イエス様は言われたのです。

2.ペトロの反論

 しかし、ペトロはこう言いました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。ここには、一番弟子としてのペトロの自負心が表れています。「たとえ、他の弟子たちがイエス様を見捨てようとも、わたしがあなたを見捨てることはありません」とペトロは言ったのです。しかし、イエス様は、そのペトロに、こう言われます。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。この「はっきり言っておく」と訳されている言葉は直訳すると、「アーメン、わたしはあなたに言う」となります(二人称単数)。イエス様は、神の御子の権威をもって、「わたしはつまずきません」と言うペトロに、「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と断言されたのです。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言ったペトロが、今日、今夜、夜が明ける前に、イエス様との関係を完全に否定することを予告されたのです。しかし、ペトロは、力を込めてこう言い張りました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。このペトロの言葉は、本心からのものであったと思います。ペトロは、本心から、「たとえ、イエス様と一緒に死なねばならなくても、イエス様のことを知らないとは決して言うまい」と決心したのです。しかし、それは、ペトロの決心であり、神様の決心ではありません。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」とあるように、ペトロの「ねばならない」は実現することなく、神様の「ねばらならない」のみが実現するのです(箴19:21参照)。ペトロが、イエス様と一緒に死ぬことはありえません。それは、神様のご計画ではないからです。神様のご計画は、『ゼカリヤ書』に預言されていたように、主が羊飼いを打ち、羊たちが散らされてしまうことであるのです。イエス様が、これから死のうとしておられる十字架の死は、多くの人の罪を担う贖いの死であるからです(10:45「人の子は・・・、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」参照)。そして、その多くの人に、イエス様を見捨ててしまう弟子たちも含まれているのです。イエス様は、これから死のうとしておられる御自分の死が、特別な意味をもっておられることを、主の晩餐において、解き明かされました。イエス様が流される血は、多くの人を贖うための血であり、新しい契約を結ぶための血であるのです。しかし、ペトロに代表される弟子たちは、やはり理解できないのです。それゆえ、ペトロだけではなく、他の弟子たちも同じように言ったのです。他の弟子たちも、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言ったのです。

3.再会の約束

 さて、その結末は、どのようなものだったでしょうか。第14章50節にこう記されています。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った弟子たちみんなが、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。また、第14章66節から72節には、ペトロがイエス様のことを知らないと言ったことが記されています。イエス様が予告されたとおり、ペトロは、鶏が二度鳴く前に、イエス様との関係を三度否定してしまうのです。すべては、イエス様が予告されたとおりになりました。イエス様は、弟子たちが、自分を見捨てて逃げてしまうことをご存知でありました。一番弟子であるペトロが、御自分との関係を完全に否定することをご存知であったのです。イエス様は、そのような弟子たちの弱さをよくご存知のうえで、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われたのです。これが弟子たちに語られた福音(良き知らせ)であったのです。しかし、弟子たちは、その良き知らせよりも、「あなたがたは皆、つまずく」という御言葉に、心を奪われてしまったのです。そして、自分の力で、イエス様に従って行こうとしたのです。しかし、実際は、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。また、ペトロは、イエス様との関係を三度否定してしまいました。そのとき、弟子たちもペトロも、イエス様がそのことを予め告げておられたことを思い起こしたはずです。「イエス様の言われたとおりになったなぁ」と思ったはずですね。その弟子たちが、イエス様の約束の御言葉を、婦人の弟子たちを通してもう一度聞くことになるのです。第16章に、婦人の弟子たちが、イエス様の葬られたお墓を訪れたことが記されています。そこで、婦人たちは、天使からこう言われるのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と」(16:6、7)。この天使の言葉を、婦人たちは、弟子たちに伝えたと思います。そして、弟子たちは、イエス様の約束を信じて、ガリラヤへ行ったはずです。そのようにして、復活されたイエス・キリストのもとに、散らされていた羊たちが、再び、一つの群れとなったのです。イエス様は、私たちの弱さをよくご存知であります。イエス様は、私たち自身よりも、私たちの弱さをよく知っておられるのです。ですから、私たちは、イエス様のもとへ何度でも立ち帰ることができるのです。

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