イエスの体と血 2022年6月19日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの体と血

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 14章22節~26節

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14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。マルコによる福音書 14章22節~26節

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序.

 今朝は、『マルコによる福音書』の第14章22節から26節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.過越の食事

 22節に、「一同が食事をしているとき」とあります。この食事は、過越の食事であります(14:16参照)。過越の食事は、その昔、主がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放してくださったことを祝う食事であります。過越の食事については、『出エジプト記』の第12章に記されています。その21節から28節までをお読みします。旧約の112ページです。

 モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。

 「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。

 あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられた土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」

 民はひれ伏して礼拝した。それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。

 このように過越の食事は、「儀式」とも呼べるものでありました。その食事の席において、家長である父親は、子供に、この儀式の意味を解き明かしたのです。その父親と同じように、イエス様は、これから死のうとしておられる十字架の死の意味を、弟子たちに解き明かされるのです。そのようにして、イエス様は、過越の食事の儀式に代わる主の晩餐の礼典を定められたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の91ページです。

2.これはわたしの体である

 一同が食事をしているとき、イエス様はパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて、こう言われました。「取りなさい。これはわたしの体である」。ここで、イエス様は、食卓の主人として振る舞っておられます。イエス様は、食卓の主人として、パンを与えてくださった神様に賛美の祈りをささげ、パンを裂き、弟子たちに与えて、「取りなさい。これはわたしの体である」と言われたのです。ここには記されていませんが、弟子たちは、イエス様によって裂かれたパンを手に取って、食べたと思います。パンは、ユダヤ人にとって主食です。ユダヤ人にとって、パンは命の糧であります。そのパンを与えながら、イエス様は、「取りなさい。これはわたしの体である」と言われたのです。『ヨハネによる福音書』の第6章で、イエス様は群衆に、次のように言われました。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。・・・わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(32~35節)。イエス様が、パンを与えながら、「取りなさい。これはわたしの体である」と言われたとき、同じことを言われたのではないかと思います。イエス様は、弟子たちに「あなたたちを生かす食べ物、パンは、わたしである」と言われたのです。

3.これはわたしの血である

 また、イエス様は、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、弟子たちにお渡しになりました。この杯にはぶどう酒が入っていました。イエス様は、ぶどうに実りをもたらす神様に感謝の祈りをささげ、杯を弟子たちにお渡しになりました。弟子たちは皆その杯から飲みました。弟子たちは、一つの杯を回し飲みしたようです。そして、イエス様は、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われたのです。ここで注意したいことは、弟子たちが飲んだ後で、イエス様がこのように言われたということです。弟子たちが杯からぶどう酒を飲む前に言われたのではなくて、飲んだ後で、「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われたのです。この御言葉は、これから死のうとしておられる十字架の死の意味を解き明かす御言葉です。かつてイエス様は、第10章45節で、こう仰せになりました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである」。イエス様は、多くの人を罪の奴隷状態から贖う主の僕として、十字架の死を死なれるのです。『イザヤ書』の第53章には、「主の僕の苦難と死」が預言されています。そこには、主の僕が「多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った」と記されています(11節)。また、主の僕が「自らをなげうち、死んで、罪人の一人に数えられた」と記されています(12節)。イエス様は、父なる神の望まれることを成し遂げられる主の僕として、多くの人のために血を流し、死なれるのです。

 イエス様は、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。「契約の血である」という御言葉は、『出エジプト記』の第24章に記されている、シナイ契約の締結の場面を背景にしています。旧約の134ページです。3節から8節までをお読みします。

 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これらは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

 このように、モーセを仲介者とする、いわゆるシナイ契約は、雄牛の血によって結ばれました。それと同じように、イエス様は、御自分の血によって、契約を結ばれるのです。そして、その契約は、エレミヤが預言していた「新しい契約」であるのです。旧約の1237ページです。『エレミヤ書』の第31章31節から34節までをお読みします。

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 新しい契約は、イエス・キリストの十字架の血潮によって結ばれるのです。古い契約、いわゆるシナイ契約は、神様とイスラエルの人々との間で結ばれました。しかし、新しい契約は、神様とイエス様との間で結ばれるのです。しかも、イエス様の血潮をもって、結ばれるのです。それゆえ、イエス様は、弟子たちがぶどう酒を飲んだ後で、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われたのです。先程お読みした、シナイ契約の締結の場面では、モーセは、イスラエルの人々が「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言った後で、雄牛の血を民に振りかけました。そして、こう言ったのです。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」。主は、イスラエルの人々の言葉、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」という言葉に基づいて契約を結ばれました。しかし、新しい契約は、違います。主は新しい契約を、主が語られたことをすべて行い、守られたイエス・キリストと結ばれたのです。神様は、新しい契約を、十字架の死に至るまで、御自分に従順であられたイエス・キリストと結ばれ、その血潮を契約の血とされたのです。新しい契約は、私たちが主の語られたことをすべて行い、守ることに基づいていません。新しい契約は、イエス・キリストの従順と十字架の血潮に基づいて結ばれたのです(イエス・キリストの従順と十字架の血潮は一体的)。それゆえ、新しい契約の祝福にあずかるには、イエス・キリストの体であるパンを食べ、その血であるぶどう酒を飲むことが求められるのです(ここに、主の晩餐にあずかり続ける重要性がある)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の92ページです。

結.神の国で新たに飲むその日まで

 イエス様は続けてこう言われました。25節。「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」。「はっきり言っておく」と訳されている言葉は、直訳すると「アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。これは、イエス様が神の御子としての権威をもってお語りになる決まった言い回しです。イエス様は、神の御子の権威を持って、「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどう酒を飲むことは決してあるまい」と言われるのです。このイエス様の御言葉の背景には、神の国で開かれる祝宴の預言があります。『イザヤ書』の第25章6節から10節までをお読みします。旧約の1098ページです。

 万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。主の御手はこの山の上にとどまる。

 このイザヤの預言を念頭に置きながら、イエス様は、「神の国での祝宴にあずかるまで、わたしはぶどう酒を飲まない」と言われたのです。イエス様は、弟子たちに、「今度、わたしがあなたたちとぶどう酒を飲むのは、神の国の祝宴においてだ」と言われたのです。この御言葉は、私たちの心を、十字架の死から復活され、やがて来られる栄光のイエス・キリストへと向けさせます。主の晩餐において、私たちが心を向けるのは、イエス・キリストが十字架の死を死なれたことだけではありません。十字架の死から復活されたイエス・キリストと栄光の神の国で共に飲み食いできることにも、私たちは心を向けるべきであるのです(主の晩餐は栄光の神の国での祝宴の先取り)。

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