人生は生きるに値するか 2022年6月12日(日曜 夕方の礼拝)

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人生は生きるに値するか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コヘレトの言葉 2章12節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:12 また、わたしは顧みて/知恵を、狂気と愚かさを見極めようとした。王の後を継いだ人が/既になされた事を繰り返すのみなら何になろうか。
2:13 わたしの見たところでは/光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。
2:14 賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている/両者に同じことが起こるのだということを。
2:15 わたしはこうつぶやいた。「愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。」これまた空しい、とわたしは思った。
2:16 賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。
2:17 わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。コヘレトの言葉 2章12節~17節

原稿のアイコンメッセージ

序.前回の振り返りと補足

 月に一度の夕べの礼拝では、『コヘレトの言葉』を学んでおります。「コヘレト」とは、「集める者」という意味で、集会で教えていた者を指しています。「コヘレト」は人の名前ではなく、職務の名称であるのです。『コヘレトの言葉』は、伝統的には、ダビデの息子、ソロモン王によって記されたと考えられてきました。しかし、今では、ヘブライ語の文体などから、紀元前3世紀頃に、エルサレムで、知恵の教師によって記されたと考えられています。コヘレトは、文学的な技巧として、エルサレムの王で、ダビデの子であるソロモンを装って記しているのです。特に、第1章12節から第2章26節までは、大きな一つのまとまりであり、そこには、「満たされない王の企て」が記されています。前回、私たちは、コヘレトが装うソロモン王の企て、快楽を追求するという企てについて学びました。コヘレトは、快楽を追求し、愉悦に浸れば、空しさを克服し、幸福になれると考えました。しかし、結論は、「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」ということでした(2:11)。ソロモンは、自分のために多くの屋敷を構え、自分のために庭園や果樹園を造らせ、自分のために財産を蓄え、自分のために男女の歌い手をそろえ、多くの側女を置きました。イエス様が「栄華を極めたソロモン」と言われたように、コヘレトの装うソロモンは、誰にもまさって大いなるものとなり、栄えました(マタイ6:29)。しかし、そのソロモンであっても、快楽によって、空しさを克服し、幸せになることはできなかったのです。それは、コヘレトが装うソロモンのもとに、知恵がとどまっていたからです。ここでの知恵とは「この世のことに究極的な価値を置かずに、神に究極的な価値を置く心」のことです。コヘレトが装うソロモンには、快楽を追求しているときも、知恵がとどまっていました。それゆえ、コヘレトが装うソロモンは自己中心的な快楽に溺れてしまうことはなかったのです。このことは、実際のソロモンとは違いますね。実際のソロモンは、多くの外国の女たちを愛してとりことなり、その心が迷わされ、他の神々を拝むようになりました(列王上11章参照)。しかし、コヘレトが装うソロモンには、主を畏れる知恵がとどまっていたのです。そして、この知恵は、主イエス・キリストを信じる私たちのもとにもとどまっています。それゆえ、私たちは、自己中心的な快楽に溺れてしまうことなく、そこに空しさを覚え、永遠に満ち満ちている神様を求める者とされているのです。聖書によれば、私たち人間は、神のかたちに似せて、神との交わりに生きる者として造られています。それゆえ、私たち人間の根源的な喜び、楽しみは、神を喜び、神との交わりを楽しむことであるのです。そして、そこに、聖書が教える人間の幸福があるのです。しかし、人間は、はじめの人アダムの堕落によって、神を喜び、神との交わりを楽しむという幸福を失ってしまいました(エデンの園からの追放)。しかし、神様は、最後のアダムであるイエス・キリストによって、人間に、神を喜び、神との交わりを楽しむという幸福を与えてくださるのです。私たちは、主イエス・キリストにあって、神の子とされ、その幸福にあずかる者とされているのです。

 ここまでは、前回の振り返りとその補足であります。今夕は、第2章12節から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.知恵は愚かさにまさる

 12節から14節までをお読みします。

 また、わたしは顧みて/知恵を、狂気と愚かさを見極めようとした。王の後を継いだ人が既になされた事を繰り返すのみなら何になろうか。わたしの見たところでは/光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかし、わたしは知っている/両者に同じことが起こるのだということを。

 コヘレトは、再び、知恵を取り上げます。知恵については、第1章16節から18節で、次のように記していました。「わたしは心にこう言ってみた。『見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった』と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるに過ぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す」。ここで、コヘレトは、「知恵も知識も狂気であり、愚かであるに過ぎない」と記しました。知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増すゆえに、知恵も知識も狂気であり、愚かであると、コヘレトは言うのです。しかし、今夕の御言葉では、「わたしの見たところでは/光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる」というのです。「まさる」とは「より益がある」という意味です。知恵は愚かさよりも益がある。これは、伝統的な知恵についての考え方です。例えば、『箴言』の第3章13節から18節には、次のように記されています。「いかに幸いなことか/知恵に到達した人、英知を獲得した人は。知恵によって得る物は/銀によって得るものにまさり/彼女によって収獲するものは金にまさる。真珠よりも貴く/どのような財宝も比べることはできない。右の手には長寿を/左の手には富と名誉を持っている。彼女の道は喜ばしく/平和のうちにたどって行くことができる。彼女をとらえる人には、命の木となり/保つ人は幸いを得る」。このように、『箴言』は、知恵が金銀よりも益のあるもの、長寿と繁栄をもたらす命の木であると語ります。そのような伝統的な知恵についての考え方を、コヘレトも言い表しているのです。14節の「賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に」という御言葉は、当時の格言であると考えられています。知恵のある賢者は、頭に目を持っており、困難を避けることができます。しかし、知恵のない愚者は、闇の中を歩いているように、困難に巻き込まれてしまうのです。そもそも「知恵」とは、「物事の道理をよくわきまえ、すぐれた処理や判断ができる能力」を意味します(『福武国語辞典』)。そのような知恵のある賢者の方が知恵のない愚者よりも、世渡り上手で、平穏に、長生きすることができることは当然と言えます。それゆえ、知恵は愚かさより益があるのです。しかし、コヘレトは、賢者と愚者の両者に同じことが起こると言うのです。

2.賢者も愚者も等しく死ぬ

 15節と16節をお読みします。

 わたしはこうつぶやいた。「愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。」これまた空しい、とわたしは思った。賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。

 賢者は、知恵により、早すぎる死を免れることができるかも知れません。しかし、死そのものを免れることはできません。賢者であっても、人は必ず死なねばならないのです。その厳粛な事実を前にして、コヘレトは、「より賢くなろうとするのは無駄だ」と言うのです。知恵は、この地上でのトラブルを避けさせ、早すぎる死から守ってくれるかも知れないが、死そのものから守ってくれるわけではないのです。そのことを受け入れたうえで、コヘレトは、次の可能性を探ります。死を免れることができないならば、永遠に記憶されればよいのではないか。死んだとしても、人々の記憶の中に残り続けることをコヘレトは考えます。しかし、このことについても、コヘレトは悲観的です。「賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない、やがて来る日には、すべて忘れられてしまう」と言うのです。コヘレトは、第1章11節で、「昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも/その後の世にはだれも心に留めはしまい」と記していました。そのことは、賢者にも、愚者にも当てはまるのです。

 知恵と愚かさを比べるならば、知恵は愚かさよりもまさっています。また、賢者は愚者よりもまさっています。しかし、死を前にしては、知恵も愚かさも無力であり、賢者も愚者も等しく死ぬのです。

 そのような死に限界づけられた人生を、コヘレトはいとうと言うのです(「いとう」とは「いやに思う、嫌う」の意味)。

3.人生は生きるに値するか

 17節をお読みします。

 わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。だれもみな空しく、風を追うようなことだ。

 コヘレトは、死の支配の下にある人生を生きることをいとうと言います。賢者も愚者も等しく死ぬという現実は、生きることを空しい、色あせたものにしてしまうのです。コヘレトは、「太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる」と記します。それは、コヘレトの人生を死が支配しているからです。もっと言えば、罪が支配しているからです。そもそも、なぜ、人は死なねばならないのでしょうか。聖書は、その原因を、初めの人アダムの罪にあると教えています。はじめの人アダムは、エデンの園において、禁じられていた木の実を取って食べてしまいました(創世3章参照)。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と前もって警告されていたにもかかわらず、食べてしまったのです(創世2:17)。そのようにして、アダムから出るすべての人が死ぬ者となったのです(ローマ5:12「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」参照)。神様は、禁じられた木の実を食べたアダムに、こう言われました。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生え出でさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」。コヘレトが向き合っているのは、この神の呪いのもとにある人生であります。コヘレトは、アダムの罪によってもたらされた神の呪いのもとにある人生をいとうと言うのです。それは食べるために労苦し、最後は死んで、塵に返る人生であるからです。

 コヘレトは、「わたしは生きることをいとう」と言いました。このような御言葉を読むとき、私たちは動揺するのではないかと思います。それは私たちが、「生きることは素晴らしい」ということを聞かされているからです。もちろん、生きることと死ぬことを比較するならば、生きる方が素晴らしいでしょう。そのことは、コヘレトが第9章4節で記していることであります。「命あるもののうちに数えられてさえいれば/まだ安心だ。犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ」。しかし、今夕の御言葉で記しているのは、生きることと死ぬことの比較ではありません。今夕の御言葉でコヘレトが問題としているのは、「食べるために苦労して、死んで、塵に返る人生が、果たして生きるに値するのか」ということです。そして、その問いに、コヘレトは、「値しない。わたしは生きることをいとう」と答え、「この地上で起こることは、自分を苦しめることばかりだ」と言ったのです。このようなコヘレトの言葉を読むと、私たちには希望がないかのように思えてきます。結局、人間は、食べるために労苦して死んでいく、空しく、はかない存在でしかないのでしょうか。確かに、はじめの人アダムにおいてはそのように言えます。しかし、最後のアダムであるイエス・キリストにあるならば、そうではないのです。イエス・キリストの使徒パウロは、こう記しています。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(ローマ7:24~8:2)。コヘレトは、「賢者も愚者も等しく死ぬ」と記しました。しかし、イエス・キリストを信じる者は、決して死ぬことはないのです(ヨハネ11:26参照)。それは、罪の刑罰としての死を死ぬことがないということです。イエス・キリストを信じる者にとって、死は罪の刑罰ではなく、天国への入口であるのです(ハイデルベルク信仰問答42問参照)。そして、イエス・キリストを信じる者たちは、イエス・キリストが栄光の主として来られる終わりの日に、朽ちることのない栄光の体で復活させられるのです。最後のアダムであるイエス・キリストにあって、人は死んでも生きる者となりました。イエス・キリストを信じる者の人生を支配しているのは死ではなく、復活の命であるのです。そのことを、私たちがしっかりと見据えるとき、私たちは、苦しみの多い人生であっても、希望を持って喜ぶことができるのです。

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