王の企て 2022年5月08日(日曜 夕方の礼拝)

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王の企て

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コヘレトの言葉 2章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。
2:2 笑いに対しては、狂気だと言い/快楽に対しては、何になろうと言った。
2:3 わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。
2:4 大規模にことを起こし/多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。
2:5 庭園や果樹園を数々造らせ/さまざまの果樹を植えさせた。
2:6 池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。
2:7 買い入れた男女の奴隷に加えて/わたしの家で生まれる奴隷もあり/かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く/牛や羊と共に財産として所有した。
2:8 金銀を蓄え/国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ/人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。
2:9 かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって/わたしは大いなるものとなり、栄えたが/なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。
2:10 目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ/どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。
2:11 しかし、わたしは顧みた/この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく/風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。コヘレトの言葉 2章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 夕べの礼拝では『コヘレトの言葉』を読み進めています。今夕は第2章1節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 「コヘレト」とは、「集める者」という意味で、集会を召集し、教える者を意味しています。コヘレトは、人の名前ではなく、職務の名称です。伝統的には、コヘレトは、ダビデ王の跡を継いだ、知恵で有名なソロモン王であると言われてきました。しかし、多くの研究者は、『コヘレトの言葉』は、バビロン捕囚から帰還してしばらく経ってから、紀元前3世紀頃に、エルサレムで知恵の教師によって記されたと言っています。それは、『コヘレトの言葉』が、後期の新しいヘブライ語で記されており、その中には、ペルシアからの外来語が用いられているからです。このように、『コヘレトの言葉』の著者は、紀元前10世紀に活躍したソロモンではないのですが、コヘレトは、あたかも自分がソロモン王であるかのように記しています。これは文学的な技巧であります。私たちは、そのことを踏まえて、今夕の御言葉を、あたかもソロモン王の言葉であるかのように読み進めたいと思います。

 前回も申しましたが、第1章12節から第2章26節までは、ひとつの大きなまとまりをなしています。ある研究者は、このまとまりに「満たされない王の独り言」という題をつけました。今夕は、別の題をご紹介したいと思います。それは「王の企て」という題です。第1章12節から第2章26節までには、「王の企て」が記されている。第1章12節から18節までには「知恵の探究」という企てについて、第2章1節から11節までには「快楽の追求」という企てについて記されているのです。「王の企て」というとき、それは空しさを克服するための企てでありましょう。コヘレトが装うソロモンは、知恵を探究しました。知恵を深め、大いなる者となれば、空しさを克服できると考えたのです。しかし、その結論は、次のようなものでした。第1章16節後半から18節です。「わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みを深まり/知識が増せば痛みも増す」。コヘレトは、知恵は悩みから解放してくれない。知識は痛みを減らしてはくれない。だから、知恵と知識を深めても空しい、風を追うような無駄な努力であると語りました。そのコヘレトの言葉を受けて、私は説教の結論として次のようなことを申しました。私たちキリスト者には、イエス・キリストを通して、神の知恵が与えられている。神がすべてのものを造り、統べ治めておられる。そして、その神は、独り子を与えられたほどに、私たちを愛してくださっている神である。その神の知恵が深まるところに、確かに私たちの悩みも増す。「神が私を愛しているならば、どうして、このような苦しみに遭わせられるのか」といったように、神の知恵が深まることによって、私たちの悩みも増すのです。しかし、その深い悩みの中で、私たちは主イエス・キリストの父なる神にお会いすることができる。そうであれば、神の知恵を深めることは、決して、空しいことではないと申しました。私たちは、深い悩みの中で、自分を頼りにするのではなく、死者を復活させられた神を頼りにするようにと導かれるのです(二コリント1:9参照)。

 前回の振り返りはここまでにして、今夕の御言葉、第2章1節以下に記されている王の企てを、読み進めて行きましょう。

 1節と2節をお読みします。

 わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。笑いに対しては、狂気だと言い/快楽に対しては、何になろうと言った。

 ここには、王の企てとその結果が語られています。「わたしはこうつぶやいた」とは、元の言葉を直訳すると「わたしはわたしの心に言った」となります。「なんという空しさ、すべては空しい」と言う自分の心に対して、コヘレトは、「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう」と言うのです。ここで「快楽」と訳されている言葉(シムハー)は「喜び」とも訳せます。また、「愉悦」と訳されている言葉(トーブ)は「楽しみ」とも訳せます(文語訳参照)。コヘレトは、喜びと楽しみによって、空しさを克服しようとするのです。しかし、その結論は次のようなものでありました。「見よ、それすらも空しかった。笑いに対しては、狂気だと言い/快楽に対しては何になろうと言った」。このコヘレトの結論を、私たちは重く受けとめたいと思います。なぜなら、コヘレトは、この結論を、栄華を極めたソロモン王の言葉として記しているからです(列王上10章、11章参照)。

 3節以下には、コヘレトが装うソロモン王が追求した喜びと楽しみについて記されています。

 3節から11節までをお読みします。

 わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。大規模にことを起こし/多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。庭園や果樹園を数々造らせ/さまざまな果樹を植えさせた。池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。買い入れた男女の奴隷に加えて/わたしの家で生まれる奴隷もあり/かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く/牛や羊と共に財産として所有した。金銀を蓄え/国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ/人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって/わたしは大いなるものとなり、栄えたが/なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ/どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。しかし、わたしは顧みた/この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく/風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。

 私は、先程、「王の企ては、空しさを克服する企てだ」と申しましたが、3節によれば、王の企ては「何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極める」企てとも言えます。『コヘレトの言葉』の一つの主題は「幸福論」であるのです。「天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人は幸福になるのか」。それを見極めるまで、コヘレトは酒で体を刺激し、愚行に身をまかせるのです。愚行とは、4節以下に記されている多くの屋敷を構えたり、庭園や果樹園を造らせること。多くの奴隷を持ち、牛や羊や金銀の財産を所有すること。さらには、男女の歌い手をそろえ、多くの側女を持つことを指しています。なぜ、これらのことが愚行なのかと言いますと、コヘレトは、これらのことをすべて「わたしのために」「自分のために」行ったからです。新共同訳は、訳出していませんが、元の言葉には「わたしのために」という言葉が何度も記されています(岩波訳参照)。コヘレトは、自分のために多くの屋敷を構え、自分のためにぶどうを植えさせ、自分のために庭園や果樹園を造らせ、自分のために池を掘らせ、自分のために金銀を蓄え、自分のために男女の歌い手をそろえたのです。10節にあるように、コヘレトは、目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ、どのような喜びをも余さず試みました。そして、そのような労苦によって、コヘレトの心は楽しんだのです。しかし、時が経って顧みたとき、コヘレトが出した結論は、「見よ、どれも空しく/風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」という結論でありました。なぜ、コヘレトは、このような結論に至ったのでしょうか?それは、コヘレトの心が何事も知恵に聞こうとするからです(3節)。かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって大いなる者となり、栄えたときも、知恵がコヘレトのもとに留まっていたからです(9節)。ここでの知恵は、「この世の物事に究極的な価値を置かず、神に究極的な価値を置く判断力のこと」です。そのような知恵がコヘレトのもとにとどまっていたからこそ、コヘレトは自己中心的な快楽に溺れてしまうことがなかったのです(実際のソロモンとは違って)。

 今夕の御言葉で、コヘレトが教えていることは、「人は幸せになろうとして、自分のために働き、自分のために財産を蓄え、自分のために結婚しても、それは束の間の喜びや楽しみでしかない」ということです。私たちもそのようなことに気づかされたからこそ、永遠に満ち足りている、シャロームである神様を信じたのではないかと思います。そして、それは言うまでもなく、主イエス・キリストを通して与えられている神の知恵の働きによることであるのです。

 では、私たちキリスト者は、喜びや楽しみを求めてはいけないのでしょうか。もちろん、そうではありません。むしろ、私たちは、主にあって喜び楽しむべきであるのです。私たち人間の究極的な喜びや楽しみは、神様を喜ぶことであり、神様との交わりを楽しむことです(ウェストミンスター小教理問1「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」参照)。私たちが神様との交わりを喜び楽しみつつ生きるならば、この世の束の間の喜びや楽しみが永遠の価値を持つようになるのです。

 誤解のないように申しますが、私たちキリスト者は、喜びや楽しみを否定する禁欲主義者ではありません。イエス様は、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と悪口を言われるほど、食卓の交わりを楽しみました(ルカ7:34)。また、使徒パウロは、フィリピの教会に、「主において喜びなさい」と何度も記しています(フィリピ2:18、3:1、4:4)。私たちキリスト者は、神様から愛されている者として、自分自身とこの世界を、本当の意味で喜び、楽しむことができるのです。そして、喜びや楽しみの中で、主の恵みに感謝して、主の御名をほめたたえることができるのです。これが、聖書が教える人間の幸いであり、人間にとって極めて良いことであるのです(創世1:31「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」参照)。

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